夏休み

高校を卒業してから大学が始まるまで三ヶ月の夏休みがあった。この時期をできるだけ友達と一緒に過ごしたかった。私が生まれたのは小さな町で、幼稚園から三人、小学校一年から二人、そしてあと何人か中学校からの親友がいた。アメリカでは小学校から高校まで同じ友達と付き合うのはちょっと珍しいことだ。

大学に行くのは楽みだったが、友達と別れるのは哀れな気持ちだった。友達は旅行やサマープログラムの予定が色々あったが、私は特に何もやることを決めていなかった。映画が大好きだった私は友達と一緒に皆で最後の映画を作ることにした。

中学校七年生(日本の中学一年生に相当する)の時からずっと一緒に映画を作成して来た私たちは、卒業後も相変わらず映画に夢中だった。それまでの六本の映画は全て授業のために作ったものだったので、時にはジョークを自制したり、暴力シーンをカットしたりする必要があった。その上、ほとんどの高校時代に作った映画のほとんどは10年遅れのVHS式のビデオカメラで撮ったものだった。最後の二本だけはデジタルビデオカメラを持っていた友達から借りて撮ったが。そんなこんなのうちに、私は卒業直前にようやく父を説得することに成功して、デジタルビデオカメラを買ってもらった。せっかく買ってもらったのに使わないまま大学に行ってしまうのはすまない、というのが最後の映画を作るのに十分な理由になった。

しかし友達は皆非常に忙しかった。そのとき、閃いた。物語の登場人物を二つのギャングに分けて、完成された脚本全体は誰にもみせない。そうすれば、俳優は自分の出るシーンしか知らないことになる。皆が完成された映画を見るのは最後に上映する時が始めてになるので、それぞれ知らなかったシーンに驚くことになる。私は驚かせるのが大好きな性格なので、これは素晴らしい発想だと思った。

驚かせるについては、学校のための映画ではないので、内容がくだらなくても問題はなかった。ポルノとまでは行かないが、決して両親に見せられるようなものでもなかった。内容についてちょっとだけ書くが、筋は私のお気に入りのジョーク、『魔法の肉棒』(voodoo dick)にまつわるものだった。要するに、セックス玩具を探しに行くエピックストーリーだった。無論セックスシーンなんかは撮影しなかったが、風刺的なセックスジョークを満載した。タイトルは『バージンで死ぬ者はいない』(No One Dies a Virgin)で、「誰でも人生にファックされるから、バージンで死ぬ人間はいない」(No one dies a virgin, because life fucks everybody.) という諺からとったものである。後は読者の想像にお任せする。

二ヶ月弱でゼロから完成品まで作り上げた。80分という長さは私たちの作ったものの中で最高記録になった。とても楽しかった。強いて困難だったことと言えば、俳優をやった友達が必ずしも仲が良い同士ではなかったということだ。お互いに嫌っているのも居たが、映画を作るという大イベントにあたってなんとか協力してくれて、出来上がった。

完成した作品の初上映は私の部屋でやった。当時の私の部屋は地下室だったので普通の部屋よりは広かったが、10人の友達が入ったらさすがにぎりぎり満員だった。混んでいても、映画は大ヒットだった。もちろん他に見る人もいなかったのだが、その10人の友達のために作った映画だったから、うち9人の笑顔を見て私は嬉しかった。一人だけは不満足そうだったが、その彼の不満も、今ではおそらく高校の友達と一緒に最後にやったことの懐かしい思い出になっているだろう。私が感じる郷愁に似たものが、彼にもあるに違いない。

彼女との別れ

できることなら、私はこのセクションはカットしたい。でも、やはりこの話を最後まで説明するためには、のことを書かなくてはならない。私のように恋愛話に興味がない読者の皆さんは、この部分を飛ばしていただいてもよい。私以外の人には、あまり意味がないと思うから。

大学に行く前に、やるべきことがもう一つ残っていた。Hとの別れだった。

彼女は私が初めて恋愛感情を抱いた相手だった。高校二年から彼女とデートするようになったが、三年になって彼女が他の男に目移りして別れられてしまった。そのとき、「これはあくまでもあたしの個人的な問題だから、絶対他の男とデートするなんてことは無いわ。今でもあなたのことが大好きよ。ただ、自分の時間がほしいの。」と言われたので、単純な私は彼女を疑わなかった。

私たちが最初に付き合うようになったきっかけは、私がよく彼女の色々な悩みの相談にのったことからだった。やり直しが出来ることならば、こういう関係は恋愛に発展させない方がいいと思うのだが、当時の私は恋愛に関して全く疎く、私自身の悩みの相談に乗ってくれるような友達もいなかった。だから、失敗を繰り返しては知識を得るという試行錯誤で進むほかなかったのだ。

無論彼女の別れの言葉は大嘘で、たったの二週間後には、そのカーティスという野郎と付合い始めた。何よりも腹が立ったのは、奴があまりにも情けない男だったことだ。

もし私と別れたのがもっと素敵な男性と付合うためだったとしたら、それは悲しくても仕方がないと思っただろう。だが、カーティスは高校卒業後に図書館の整理係になるような奴だった。大学に行かないで、時給500円ぐらいの本棚の整理係に就職してしまった。皮肉なことに、彼は本に対する興味は全くなかったようだ。趣味と言えば、音楽鑑賞と大麻ぐらいといったところだ。醜いチビでモテなかったタイプだったカーティスは、高校生時代に彼は彼女が二人しか出来なかった。二人とも後輩だった。(日本の習慣は知らないが、アメリカの高校では、歳の離れた後輩と付合う男子生徒(特に四年生と一年生が一緒になる場合)は幼稚と思われる。男なら、子供には興味を持たない筈だという考え方だ。)カーティスが持っていたのは悩み事ばかりだった。

だが、悩むことに慣れていたHは彼の悩みが非常に気に入ったみたいだった。常に危機を必要とするHにはぴったりな奴だったのかもしれない。共通の友達によると、カーティスと彼女は今でも話す程度につながっているそうだ。余談だが、ずっと小さい小さい町の社会では、断ちたいような人間関係でも断てないことが多い。

とにかく、彼女はそのカーティス野郎と付き合うようになり、六ヶ月後には奴と別れて、他の彼氏を探し始めた。次を見つけることは見つけたが、この彼はゲイだったから私は本当の彼氏とは認めていなかった。そして4年生の最後の学期になった時には、Hはまた『独身』になっていた。プロム(卒業ダンスパーティー)が迫っていた。アメリカでは春学期にあるプロムという三、四年生のカップルのパーティーが大イベントで、高校と言ったら世間はそれしか連想しないぐらいの大騒ぎだ。私は全然行きたくなかったが、プロムに行くのがHの夢の一つだということはよく知っていた。だから、私は彼女をプロムに誘った。一応別れても彼女のことを愛していたから、彼女の夢を叶えてあげるために誘ったと言えるだろう。だが、正直を言うと、同時に復讐も図っていた。

私たちは偶然に二人ともアーラム大学に行くことにした。別れていた間に、それぞれ互いの決断を知らずアーラムを選んだ。同じ大学に行くのだから、その先ずっと付合うということも当然有り得る。どうせ高校で一年間付合ったら、永遠も同じようなもんだ。少なくとも彼女はそう考えていたと思う。彼女が暗にそのような台詞を口にした時、私は反対の言葉を挟まなかった。彼女は騙されただろう。それとも、彼女が自分を騙していて、私はわざと何もしなかった、ということかもしれない。

信頼していた人に裏切られることくらい辛いことはない。彼女は私を裏切った。もし、別れた時点で正直に、直接「カーティスという男が非常に気に入って…」みたいなことを言ってくれたら、私は彼女を許すことができたと思う。でも、その時私が「やっぱり僕と別れるのはカーティスのせいなんだね」と聞いたのに、彼女はハッキリ「いいえ、絶対そうではないわ」と答えたのだ。

その別れの時の嘘が私に対して彼女の初めての嘘であった。私達二人は非常に親密だったから、プライベートな日記さえお互いに見せ合った。当時の私の日記は率直そのものだった。考えたまま書いていたので絶対誰にも見せないつもりだったのだが、彼女と付合い始めてから、彼女だけだったら良いではないかと思い始めた。

初めて見せたとき、彼女がすごく驚いたのは、彼女のことばかりでなく違う一人の女性について数段落書いてあったことだ。手短かに述べると、「彼女には悪いが、最近オナニーをするとこの女をどうしても考えてしまう。だが、この女は大嫌いだ。性的なことをしたら、嫌いな人ばかりを考えるのは不思議だな。」というような内容だった。今になって考えると不思議なことに、当時の私は本当にそれを彼女に見せても損はないだろうと思っていた。

でも彼女はこれを読んだ後、別に怒っていなかったようだ。私達はいつもお互いに完璧に正直だったからだろう。

私達の共通点は、自分と全く異なった別の精神を理解したい、という望みだった。哲学の用語を借りて言えば、ヘーゲルの「他人問題」を解決しようとしていたということだろう。人間の心は本人にしか解らないのだが、お互いに完全に正直に自分をさらけ出すことによって相手の内心を自分の中に結合するところまで近寄ろう、という考えだった。高校生によくあることではないか。

哲学的には失敗に終わったが、お互いに秘密はなかったから、二人だけで話すことが出来た時のことは今でも幸せな想い出だ。

だが、まだある。これは書くべきかどうかわからないが、私の彼女への怒りには今まで何も書いていないもう一つの理由があった。それは、一回だけでなく、二回私を裏切ったことだ。

別れてから六ヶ月後、彼女から電話があった。

「カーティスと別れたの。」と彼女。

私は「なんでわざわざ僕に報告する必要があるんだよ。」と答えた。

「もう一度付合いたいってわけじゃないけど、ただ、今友達があまりいないし、カーティスにふられてすごく傷ついてるから、誰とでも話したい気分なの。もちろんアンタは誰よりもあたしの愚痴を聞く義務がないんだけど。本当に悪いけど、お願い。アンタしかしかいないから。」

こういうだらしない現実に直面すると、一年前の私達の幸せが嘘のようだった。「いったい俺はあの頃何を考えていたんだ」と、それまでの関係全てを後悔し始めた。それでも、結局は彼女の愚痴を聞いてしまったのだ。

そのときでも私はまだ彼女が好きだった。でも、好きな気持ちばかりではなかった。憎みもあった。そして、彼女の話の途中で吐き気を覚えた。

「実はね、悪いけどさ、(これは彼女の口癖だった)、あたし、カーティスと○○したよ」

これには本当にうろたえた。カソリックで育てられた私は、無意識的に人間の価値というものは個々の性行動によって決まるものだと信じていた。そして、セックスに関しては、相手の人数が少ないほど善いのだと思っていた。神様の存在を疑っていた私だが、セックスに関しての規則は疑わなかった。

キリスト教の性についての考えでは、一般的に自分の体を『大切にとっておく』ことが望ましいと考えられている。

要するに、彼女は私とよりカーティスと進んだということだ。しかもたったの三ヶ月の付き合いで。彼女が私にこれを告げた時、「なぜ私にこんなことを告白しているのか」と考えたのと同時に、思わず聞いてしまった。「カーティスをそんなに大切に思ってるの?」

「そうでもないわ。」と彼女。

これには更に驚いた。「そんなに大切な人間ではないなら、なぜそんなことを?」

「その場の気分にのっただけなの。アンタにはわからないと思うけど。」

ある意味彼女の言い分は当たっていた。私には彼女の動機が全く想像出来なかったことは確かだから。

私たちは一年間半の付き合いの末に、いわゆる二塁(B)というところまで行っていた。当時はそれが私達の我慢力や善さの証拠だと思っていたのだ。

その頃やれば出来るのにやらなかったことをカーティスのような奴のために捨てるのは私には全くわからない行為だった。

私は普段電話で話しているとき、動き回る癖がある。ただ立っているのでなくて、話しながら歩き回らなくてはならないタイプだ。しかし、彼女のその話を聞いた時は、憤慨のあまり座り込んでしまった。

当時の私は混乱していて、その復讐が自己防御の本能からだったのか、彼女に自分の傷の痛みを思い知らせてやるためだったのか、今思い出そうとしてもハッキリしない。

ただ、他のことは殆ど考えられなかったのは事実だ。私は完全に絶望していた。その四ヶ月前には、Hと一緒に高校を卒業して、大学に行って、大学を卒業してから結婚して、幸せなハッピーエンドになるんだと。当時は本当に彼女の言葉を信じていた。別れたときでも、彼女を信じた。ただ言われた通り、彼女はしばらくの間自分の時間が欲しいだけで、他の男性なんかに全然興味はない、私だけを大切に思っている、と素直に信じた。

私は若かった。彼女とは初恋だったので、他に比べるような経験もなかった。友達の中でも、私はガールフレンドが出来たのが一番早かった。そして、両親に彼女とのことはあまり話せなかった。

その電話の会話の時から、それまでの愛がだんだん腐り始めた。その腐ったところから、嫌悪が芽生えてきた。それまで, 私は本当に彼女のため一生懸命頑張った。一年間半、自分のことは棚上げにして、彼女のことばかり考えていた。そのお礼に彼女は他の男性と性的な関係を持った。

男には誇りというものがある。お互いを大切にするとまで行かない場合でも、ある程度気を配らなくてはならない。だがやはり良い関係というのは、お互いの悩みを解決しようと努力することだ。互いに正直に夢を話し合って、一緒に将来を一緒に探す。

私とHはそういう信じられないような幸せな時期があった。にもかかわらず、後であまりにもひどい仕打ちを受けた。しかし、その仕返しについて書く前に、その幸せな時期について少し書いておこう。

この物語の中では悪人の一人になっているHだが、実際の彼女はあくまでも悪い人間ではなかった。Hと付き合ったことをきっかけに、私は長い間持っていた「小説を書く」夢を実現出来た。まだただの友達であったとき、何かの話のついでにHもいつか小説を書きたいと思っていることがわかった。励まし合って精を出し、八ヶ月後には私が小説を書き終えた。そのとき、私たちは既にデートをしているようになっていた。

自分でも驚いたことには、書き終えた小説はロマンスだった。私は一冊もロマンスを読んだことがなかったのに。小学校四年の時からずっとSF小説を書こうと思っていた私が、なぜかわからないがロマンスを書いてしまった。中学校時代に書いたSFの下書きは400ページ以上もあったが、結局違う方向に行ってしまった。ただ、Hの影響ではないと思う。私はそもそもロマンスの世界が嫌いであった。皆、愛に落ちると馬鹿になるから。そのうち、「良いロマンスというものはあり得るだろうか」と考え始めた。それから小説を書いた。しかしHはあの童話のような世界が大好きだった。

残念なことに、Hは自分の悩みで一杯で、アウトラインさえ書き上げられなかった。

私が初めて書いた小説は読むに耐えないものだった。完成した時には、自分の表現力の乏しさにうんざりしていた。

でも、大学二年生の時、もう一度その原稿を読んでみたことがある。自己批評に過ぎないが、そんなに悪くはない気がした。無論、これはあくまでも自分だけの気持ちだから、私が良いだろうと思っても他の人に見せるほどの作品ではなかった。

今でもその作品で好きな所と言えば、全体が日記式で、前半が男の子の視点から、後半が女の子の視点から書かれているのだが、真ん中で男の子が事故に逢い、後半を読み始める読者にはそこまでの主人公が生きているかどうかわからない、という構造だ。視点を変えることで、物語を進めるのはユニークな手法ではないが、視点を操って遊ぶのは楽しかった。

完成した作品はシングル・スペースで45ページだった。おそらく本当に小説と呼ぶには短すぎるだろうが、始めから終わりまで必要だと思うことは全て書いてしまったから、量を増やすために無理に書き加える必要はないと思った。

前の話に戻ろう。Hが最初に私をふったのは、私の部屋だった。ふられたという事実に加えて、これは全くの侮辱だった。

次に私の方から別れ話を持ち出そうと決めた日は、そんなことを繰り返さないように、散歩に誘うことにした。祖父母の家の後ろには、堤防に挟まれた川が流れていた。昔は鉄橋が架かっていたのだが、大手の自動車会社が鉄道会社を買い潰した後で、市が「安全のため」と称して取り除くことにした。

ただ、鉄橋の台座は頑丈なものだったので、取り除こうにも取り除けず、そのまま残っていた。だから、鉄橋はなくても、堤防の上からその台座まで歩き出て川を眺めることが出来るわけだ。ジョギングの途中で、よくそこで休憩したものだ。今ではどうなっているかわからないが、高校生の私にとっては本当にきれいな穴場だった。

Hをわざと散歩につれだして、そこで落ち着いて話題を持ち出した。

「H、大学に行く前に別れた方が良いと思ってるんだけど。」

「なに言ってるの?」

「実はね、悪いけどさ、僕たち、付合うのは二回目だよね。で、全部で二年位付合ってることになるだろ。でも、僕は君に納得がいかない点がいくつかあるんだ。これはどうにも避けられない現実なんだ。」

「そっか。でも、不満なことを言ってくれれば良いじゃない。だって、教えてくれれば、あたし、直すから。」

「いや、直せるようなものではないと思うよ。」

「どういうこと?」

「ちょっと言い換えてみよう。僕ら、まだ大学のことはよく知らないよね。」

「うん。」

「だから、大学で何が起こるか解らないのに最初から引っ付いていたら損だと思うんだよ。柔軟性がないから。」

「他の女とデートでもしたいわけ?」

「いや、そういうんじゃなくて、ただ、授業やサークル(注:アメリカのサークルは日本と別物だが、それは後で説明する)でどんなに忙しくなるのか解らないとか、そういう心配だ。」

「そうね。そうかも知れないわ。」彼女は泣き始めた。「でも、あたしたち、友達よね。ずっと友達のままでいたいわ。」

「ああ、それはもちろんさ。」彼女が「友達」をどんな風に考えているか知らなかったが、別に聞きたくもなかった。だが本当に友達でいくなら、それはそれで別に悪いことではないと思った。だから同意した。

実は、この鉄橋がない鉄橋は以前にもう一つの場面の舞台となっていた。その二年前、私が初めてHをそこに連れて行った時に、彼女が急に自分から「あなたと永遠にいたいわ。」と告白してきたのだ。当時の自分には全くそんな気がなかったが、彼女の言葉は信じた。カーティスとの事件が起こるまでは。

私の信じている正義はあくまでも「詩的正義」(因果応報)だ。その場でわからなくても、あとでゆっくり考えると「ああ、狡いことや悪いことをするとやっぱりそういうことになるのか」と思わざるを得なくなるような正義だ。

ロラと映画に行った…

映画を完成し、Hと別れて、まだ三週間ぐらい夏休みが残っていた。そのころ、友達は毎週火曜日にBW3'sというチキンウィング屋に集まっていた。実は、友達は毎日そこに行っていたが、私はあまり金がなかったので、火曜日だけでもキツかった。

火曜日の夜と言えば、クイズ大会だった。90分の間にいろいろな種類のゲームがあるのだが、簡単に言うとトリビア大会だ。参加するには手元のゲーム機に自分の通称を入力し、ログインする。ゲームが始まると質問がテレビに映る。答えをゲーム機に入力する。答えが早ければ早いほど、点数が高い。質問ごとに答えが表示される。最後に、テレビは点数画面に移る。これはこのレストランだけでなく、アメリカ全国の二万店ぐらいのバーとファミリーレストランの客を対称にした大会なので、競争が非常に激しい。特に「何でも知っている」と思っている若者の間では、ゲーム中に凄まじい雰囲気があった。だが、私達にはそんなやりとりが楽しかった。

いつの間にか同級生のロラという女の子が火曜日の大会に来るようになっていた。女の子はいつも数人いたのだが、ゲーム大会には参加していなかったから、私は無視していた。友達のうちに、礼儀正しくてハンサムでモテルのが二人いたので、彼等のファンクラブと言ったところだ。

どうやって私とロラが二人きりで映画に行くことになったのかは全然覚えていない。その時はちゃんとそれなりの理由があった筈なのだが。ロラは本当に頭が切れる女性だった。私は四年生の二学期まで学年で三番の成績だったのだが、最後の学期になってロラに追い越され、四番で卒業した。

四年生になるまでロラのことはあまり知らなかったが、四年生の物理の時間によく話すようになった。というのも、応用物理のクラスには先生がいなかったからだ。学校は先生不足で、先生は一般物理の授業にしかいなかった。名目上は同じ物理の先生が両方教えることになっていたが、同時の授業だったから、無理な話だ。おそらく教育委員会長は「あるものは二つの場所に同時に存在することができない」ということが解っていなかったのだろう。そんなわけで、私と二人の親友とロラとリサ、たった五人のクラスは教室の物置みたいな部屋で毎日遊んでいた。インターネットにつながったパソコンが三台あったから、暇つぶしをするには十分だった。

私達が観に行く映画は『X-Men2』だった。コミックのアクション映画で、真面目人間のロラがそんな映画に興味を示す筈はないと思っていたのだが、彼女は強い言葉で行く意志を伝えてきた。普段の彼女は非常に物静かな人なので、周りの言葉遣いなどあまり気に留めない私でもその時の彼女の強い言葉にはちょっとした印象を受けた。そんなに頭が良い女性が私の大好きなX-Menを同じように好きだとは信じ難いことだったが。

言っておくが、そのときは、これをデートとは思っていなかった。私はその映画をすごく観たかったし、もし友達のロラも同じ気分であれば、一緒に行った方が良いと思ったまでのことだ。その四年前に叔父がロラのことで「あの子は絶対お前が好きだろう」と言ったのを思い出した時は、ちょっと不安になったが、叔父はいつもそのようなセリフを口にしていたから、この意見は無視しても差し支えないと思うことにした。

ロラはサムという一学年上の彼氏と長く付き合ったことがあった。彼が卒業してから別れたらしいが、いくら彼女が「独身」でも、私達が大学へ行くまでにはたった三週間しか残っていなかったから、どうせ大学へ行くまではたったの三週間が残っていたので、そんな短い間にロマンスの機会はあり得ないと思っていた。

卒業した頃になってもそんなふうに考える私は、女性に疎かった。ある女の子が私を好きになっても、私は彼女の気持ちに気付かなかった、ということがよくあった。例えば、幼稚園のとき、一番の親友だったアッピーが、ある日「話したいことがあるから電柱の向こうへ行こうよ」と言うので付いて行った。放課後が始まったばかりのところだった。電柱の後ろに着くと、彼女は私の肩を掴んで、オデコのど真ん中にキスした。キスした途端、走ってうちへ逃げて行った。これは私にとっては大変なショックだった。私はもちろんアッビーのことが好きだったが、アッビーも私のことが好きなんて夢にも考えていなかったからだ。ちなみに、それが私のファーストキスだった。

八年生(日本の中学二年)の時には、超美人のケイティーが何回も人前で私に愛を告白しに来た。私はケイティーは自分のような者を相手にするタイプではないと信じていたのであくまでも冗談だと思っていた。いつまでも私が取り合わないので、ケイティーは最後には泣きながら逃げ出してしまった。

よく考えてみると、七年生の時、ウィトニーもおそらく私のことが好きだったのだろう。私の卒業アルバムにそれらしいことを書いてくれたが、気付くには遅すぎた。彼女はとても良い人だった。中学校時代、私は毎日数人の脳足らずのスポーツ系の奴らにイジメられた。ウィトニーはそういった奴らの何人かと同じグループにいたにもかかわらず、いつも私のことを支持してくれようとした。自分は別に一人で大丈夫だと思ってたにせよ、それにしても彼女の優しい言葉はいつも有難かった。一番ひどかったのは数学の授業の時間で、ここでは私をバカにする仲間に先生までたまに加わるような始末だった。(ちなみに数年後この先生は解雇された。)知識を求めている生徒をバカにするなど無論教師として失格だが、スポーツのコーチをやっている教師によくある悪い癖だ。ウィトニーは、そんなひどい先生にも立ち向かって、私に親切にしてくれた。彼女は勇気のある女性だった。私も彼女のことが気に入っていたが、彼女がチアリーダーをしていたということに対する自分の偏見のせいでなにも形になるような行動をしなかった。今思えば、これは私の大失敗だった。

高校四年生の最後のスペイン語の授業で、あまり親しくない女の子の一人からも告白された。「でも、あなたのご両親は人種を気にするだろうと思って(彼女はラテンアメリカ系だった)、今まで声をかけようにもかけられなかったの。」と言われた。これはどうも妙に思えた。私の両親はそんなことなんか気にしない。父の11人の兄弟のうちに四人は養子だったし、その四人の一人は彼女と同じラテンアメリカ系の女の子だった。もちろん彼女がこれを知る筈はなかったが。それに私は両親の意思に素直に従うこともあまりなかったし、本当に私のことが好きならもっと早く行ってくれれば良いじゃないか、と思った。でも、彼女のことを恋愛相手としてあまり考えたことがなかったから、結局は最後になるまで声をかけられなくて良かったのかもしれない。

社会科の政府機構のクラスにも、私と親友のロスに憧れているという女性が三人いて、私達二人の「赤ちゃんを産むファンクラブ」と名乗っていた。これは無論冗談だったが、いくら政府に全く興味がない人達はそんなことで遊んでいる方が楽しいのだといっても、アメリカの将来を考えれば嘆かわしいことだ。

ロラの家まで迎えに行って、それから映画館へドライブした。市内から大分離れた格安の映画館だったから、30分ほどかかった。アメリカでは「再映劇場」(封切りから二、三ヶ月位たった映画を見せる安い映画館)がたくさんあるのだが、この映画館は火曜日にはたったの五十セント(五十円)で入場することが出来たので特に格安だった。2003年に普通の映画館の入場料が8ドル(800円)だったから、50円で済むのは大変素晴らしいことだと思ったことだった。

『X-Men2』はとても良かった。コミックスからの映画化がよく出来ていた。完全に満足だった。でも、ここではそんなことはどうでもいい。この話に大事なのは、映画のあとのほうだ。

映画館から出て車に戻る時、「あたし、ちょっと寒いわ」とロラが言った。七月だったので、夜が涼しくても寒いというまででもないと最初は思ったが、すぐに、はっと、彼女が伝えようとしていることに気が付いた。

そこで私はとんでもないロマンチックなセリフを口にした。いま考えてもあまりにも恥ずかしいので、ここではその言葉を繰り返さない。

それで抱きしめようとしたのだが、彼女は私の肩を引き寄せて、強引にキスをしてきた。ちょっと笑い合った後、混乱していた私はもう一度、今度は自分の方からキスした。キスをするしか反応を思いつかなかった。

だが、駐車場でイチャイチャするのは嫌だったので、もう一度ドライブすることにした。

彼女の手を握って、ゆっくり話すことができるところはないかと考えながら運転したのだが、既に午前一時半を過ぎていたから、適当な場所は思いつかなかった。結局、彼女の家に直接帰った。しかし、帰る途中の会話は盛り上がった。彼女の家に着いてからドライブウェーに車を停めて、楽しい話を続けようと思ったのだが、エンジンを切った直後に、彼女が私の肩を掴んで、強くキスをしてきた。両親の家のドライブウェーでこんなことをしてて良いのかと一応気になったが、いつも真面目な彼女が全く本気のようだったし、私も彼女のことが好きだったから、結局we made out。しかも二時間ほど。すぐもう一度映画に行く約束をした。それから、お休みの挨拶を交わすのにも大分時間がかかった。

やっと私が家に戻った時には四時を過ぎていた。普通に帰ってきたつもりだったのだが、車のドアを閉めた途端、父が家から飛び出してきた。「お前、一体なにをしていたんだ?大丈夫か?」

いつもは屈託のない父の心配そうな顔を見ると、不安になった。「いや、大丈夫よ。映画から帰ってきたとこだよ。」

これはどう見てもうまい答えにはなってなかった。

「嘘をつくな。」と父が怒鳴った。静かな夜に父の声が物凄く声が響き渡った。「映画は三時間前に終わったはずだ。一体今まで何してたんだ。答えろ。ついさっき、町中の病院の救急室に電話したんだぞ。」社会事業の仕事をしていたから、おそらくこれは本当だった。

これには私もたじたじだった。言葉が出なかった。なぜこんなことになってしまったのかまったくわからなかった。ただ、頭の中で思った。「父さん、今夜僕は綺麗な女性と夜に映画に行ってたんだよ。帰りが遅くなったからって、なんで事故しか考えつかないんだよ。僕がそんなにクソ真面目だと思ってるの。事故と言えば言えるかもしれないけど、そういう事故じゃないよ。」そう思いながら、父の言うことを黙って聞いて、素直に謝った。とにかく、そんなに遅く帰ったのは悪かった。

「お前のお母さんにも電話したよ。明日彼女にも謝ってくれ。」

これは参った。両親が離婚して以来、父が母に深夜に電話をかける何て、私が知っている限りなかったことだ。「冗談も程々にして欲しい」と思ったが、父が本気なことはよく解っていた。父はひどく疲れていたようでそれ以上説教はしなかったが、翌朝の見通しは良くなかった。

次の日、父はただ「お前、遅くなる時はちゃんと連絡してくれ」としか言わなかった。その代わりに、母の説教が始まった。母に言わせると、この問題の原因は私が携帯電話を持っていなかったことにあるそうだった。実は数週間前に、大学入学の贈り物として、祖母がわざわざ私のために携帯を買ってくれたのだが、悪いと思いながらも、私はこのプレゼントを拒んだのだった。

私は電話が大嫌いだ。どこでもいつでも鳴る携帯電話は更に嫌いだ。携帯電話を持っているというだけで、、両親をはじめ、皆が好きな時にかけてきて、私が出ることを期待するからだ。留守の場合でも、すぐにかけ直すのが当たり前だと思っている人が多い。何よりも私の腹が立つのはそうした通話の内容が取るに足らないことばかりだということだ。

一つ例を挙げてみよう。現在父と妹二人は携帯を持っている。バスケットの試合を観に行く時など、同じ体育館の中でもコミュニケーションは全て携帯で行われる。事前に待ち合わせの場所を決めることもない。会場についてから電話をかけ合って集まるわけだ。携帯を持つようになって、人々は予定を立てないようになってしまった。携帯があるからいつでも連絡が出来ると思っている。遅れても問題はない。携帯から知らせれば済む。

でもやはり、私はお互いが遅れないように気を配って欲しい。それに、馬鹿みたいな連絡も聞きたくはない。私は何をしている時でも、それだけに集中したい。携帯の連絡がいつでも来る可能性があるから、携帯を持っていると、いつでも連絡が来る可能性があるから、たまには受信歴を確認しなくてはならない。でも、そんな責任は欲しくない。だから、携帯は役に立つものとは思わない。以上、私の異議である。

数日後、もう一度ロラと映画を観に行くことにした。でも、今回は比較的に早く騒ぎを起こさないように帰った。

今度は前期と違って、今回は最初から彼氏らしく振る舞うように頑張った。そして、最後に、「付き合ってください。」と言った。

彼女は私の願いを聞き入れなかった。これは当たり前だった。ロラの言い分は正しかった。私達は離れた大学に行くことになっていたのだから、そのたった二週間前に付合い始めようというのは馬鹿な話だった。もう、私達には時間が残されていなかった。正直な所、私も彼女と付合いたいという願いと同時に、そうしたくない思いもあった。ただ、気持ちの上でちゃんと言っておかないとすまないと思った。

彼女は私の申し出をやんわりと断った。彼女が断る理由を説明するのを聞いていて一つ妙に感じたのは「Hのこともあるでしょう」という言葉だった。不思議なことに、私は長い間付合ったHのことをもうすっかり忘れていたのだ。実のところ、Hと二回目に別れてからはすっかり良い気分だった。

私はロラのことが好きだったが、本当に恋愛的に好きだったというよりは尊敬していたという方が正しいかもしれない。彼女は競争心が強く、しかも誰かをやっつける時でも必ず丁寧に礼儀正しく振る舞うような人だった。そういった点で、私は彼女に完全に負けていた。彼女は物静かな、優しい人で、愚痴をあまり言わない性格だった。ただ、あまりに真面目すぎて親しみにくいタイプでもあった。そして、残念なことに、私達のユーモアの感覚には大分ズレがあった。

ともかく、大学に行く直前の短い時間をロラと過ごせることができたのはとても嬉しかった。この短いロマンスを通じて彼女とお互いに励まし合ったことで、高校から大学への過渡期にけりがついた。

八月の冒険

アーラム大学には、古くから入学生のための「八月の冒険」というプログラムがある。「山」と「水」の二種類の冒険があって、どちらも入学式直前の三週間に渡って行われる。山の冒険はユタ州のユインタス山脈のバックパッキング旅行で、水の冒険はカナダの川のカヤック旅行だった。

私は小さい頃からずっとバックパッキングをやりたかった。ハイキングが好きな私はキャンプに行くために、ボーイスカウトに入った。でも、キャンプというのは建前で、本当の目的はバックパッキングだった。そしてとうとう私が高校生の時、私の支部はニューメキシコ州にあるボーイスカウトの専用施設で2週間ほどバックパッキングをすることになった。即座にこれがチャンスだ、と思ったのだが、両親に話すと「絶対ダメ」と言われてしまった。しかし、友達は皆行くことになっていたし、もう一度両親に詳しく説明しようと思って、数日後にまた話を持ち出した。そうしたら、母は物凄く怒って、「そんな大金がどこから出てくると思ってるのよ」と皮肉たっぷりに言った。

だが、大金などいうほど大げさなことではなかった。砂漠でバックパッキングするするのだから、そんなにお金はかからない。それに、弟だってアイスホッケーをやっていた。思わず「大金と言えば、アイスホッケーなら良いんでしょうか」と言い返してしまった。あまりに心が痛くて、そんな口答えをすることしか出来なかったのだ。

もっと辛かったのは、両親が費用を全部出す必要はなかったのに、こんな形で否定されたことだった。自分のアルバイトで稼いだ金で、既に半分位は貯金があった。私が両親から貰いたかったのは、旅行許可書の署名だけだったのだ。しかし、そのペンをちょっと動かせば済むことさえやってもらえなかった。

だから、両親の許可がなくても行けるアーラム大学の「冒険」は喉から手が出るほど行きたかった。入学を決定してから歓迎と入学準備の説明が届いたと同時に、「山」コースを申し込んだ。

費用はちょっと高かったが、自分のアルバイトでせっせと貯金していた預金では十分だった。しかも、折よく特別奨学金をもらったので、半分しか払う必要はなかった。

出発はキャンパスからということになっていた。しかし、大学から連絡には細かい情報が書いてなかったので、どんな交通手段でユタまで行くのかさえわからなかった。それで、キャンパスに着いたとき、隣に座った学生に聞いてみた。彼女は「多分飛行機でしょ。だって、車じゃあ、ユタまでは40時間ぐらいかかるもの。」と答えた。

キャンパスで父と別れの挨拶をしたとき、父が想像していたより悲しそうにみえた。あの、ジェシーの家から遅く帰ってきた夜のように、心配に溢れる顔だった。父を元気づけるような言葉はかけたものの、私達がこれからどんどん離れていくことはよく分かっていた。実は高校時代の私と父はそんなに親しくない関係だったので、その間に逃したチャンスを後悔する気持ちもあった。

すぐオリエンテーションが始まった。プログラムのリーダーが自己紹介した。「皆さん、おはようございます。ネーサンです。」と彼は言った。アーラム大学では、教授でも肩書きに捕われずに直接名前で呼び合う習慣がある。これは、アーラム大学を成立したクエーカー教徒達の、肩書きに頼らない質素倹約な生活への信奉に基づいた習慣だ。

彼は続けた。「皆さんの中にデオドラントを持ってきた人も居ると思うが、それはここにおいて行きなさい。冒険から戻ってから必要だろうが、これから行く所ではいるものじゃない。なによりも、荷物を軽くすることが大事なんだ。」と言った。私の心は踊った。本当の冒険だなと納得した。

ただ一つ困ったのは、コンタクトレンズのことだった。一枚が寝る直前に目から落ちてしまったのだ。寝る時間直前、一枚は目から落ちてしまった。よく探したが、結局見つからなくて、不安だったがそのまま寝てしまった。

翌日の朝、目が覚めたとき、自分の頭のすぐ隣に転がっていたレンズを見つけた。もう、遅すぎるだろうと思ったが、とにかく溶液に入れた。

出発は、飛行機でなく、バンだった。十二席のバンに十二人の学生で、さすがにすし詰めになった感じだった。でも、この冒険を大変楽しみにしていた私は、たとえバンはギュウギュウ地獄でも三日間耐え抜く覚悟が出来ていた。

最初の夜はカンザス州の州立公園にキャンプした。グループの中の一人の誕生日ということで、リーダーは出発前から準備していたケーキを出してきた。誰かの誕生日が旅行中にあたるかどうか、事前にちゃんとチェックしていたのに感心した。

そのとき、自転車に乗っていたおじさんがキャンプ地に現れた。「おい、あんたら。インディアナ州から来たんじゃろう?」それぐらいは大学のバンに書いてあったから、別におかしくに思わなかった。

「ええ、そうですが。」と一人の学生が言った。

「あんたら、キリスト教徒だよね」と彼は続けた。彼がしらふで言っているのか酔っているのか私には判断できなかった。

「ええ、アーラムはクエーカーが建てた大学ですから。」とリーダーのネーサンが受け返した。

「なら、どうしてここで誕生日のお祝いなんてやってるんだね。」と彼は聞いた。

「我々はオリエンテーションプログラムとしてユタ州で三週間バックパッキングをしに行く途中です。この活動は二十年ほどやっています。」とネーサンは言った。

「だが、この娘の誕生祝いなんでやってるどころじゃなかろう。そんな暇なことをしてちゃいかん。あんたらには神様から与えた義務がある。イエス様のことを皆に教えなくちゃ。」

「誕生日ぐらいは許されるでしょう。神様は私達が幸せな想い出を作ることも期待していると思いますよ。」と一人の女性が割り込んだ。ネーサンは苦笑した。

「それは大変な間違いだよ。いい若いもんがこんな所で騒いでるなんて許されない。あんたら皆、地獄に堕ちるぞ。」と彼は大声で宣言した。

彼は確かに酔っていた。だが、彼を酔わせていたのが酒だったのか信仰だったのかは今でもわからない。

そのあと、ネーサンが少し彼と話して、何とか追い払うことに成功した。彼はようやく行きかけたが、振り向いてもう一度、「お前ら、地獄に行くぞ」と叫んだ。そのとき、彼は乗っていた自転車から落ちてしまった。こういうのを「神罰」という。とんでもないことを言ったりしたりすると、すぐに神様が反省を促すために失敗させるという迷信だ。

彼が落ちたとき、思わず笑ってしまった。無論これは笑うべきではんかったことだが、私はそれまでの場面をまるで映画のような気分で見ていたので、笑わずにはいられなかった。笑っていけないときに笑うのは私の悪い癖の一つだ。他の学生のほとんども笑い出したが、すぐネーサンに注意された。

それから夜の準備をした。準備と言っても、寝袋を広げるだけだった。ここでびっくりしたのは、テントが用意されていなかったことだ。防水シートはあったが、それはあくまでも上から被せるだけのものだったから、雨の時にはそんなに役に立たないはずだった。(実は、私達の持ってきた防水シートは漏れやすいタイプだったので、全然約に立たなかった。)

ともかく、星いっぱいの空の下で、変なおじさんのことを考えながらいつの間にかまどろんでいった。

やはりテントがないと朝が来るのが早い。午後になって起きるような生活に慣れていた私にとっては辛かったはずだったが、この旅行が出来ることが本当に嬉しかったので、五時でも平気だった。

冒険の中心はユタということになっていたが、行きすがりにワイオミングで一日岩登りをした。岩登りは初めてだったが、小さい頃からやりたかった私には大変楽しい想い出になる経験だった。ただ、嬉しさに興奮していて、「気をつけろ。無理するな」とネーサンに注意されることもあった。

ユタのことを書く前に、この旅行の一つの特徴であったコンセンサス・ランチ(合同全員一致の昼食)というものについて一言書いておきたい。まず、昼休みにどこかのスーパーでバンを止めてスーパーで休息して、リーダーが学生一人ずつに二ドルを配る。それで何を買って食べるかは自由なのだが、勿論たったの二ドルでランチが買えるわけはない。(ちなみに、たいていのアメリカのスーパーでは弁当など売っていない。)

コンセンサスというのは、皆が意見を交わしながら達する、全員が納得出来る決断ということだ。このランチの場合、好きな食べ物によってグループに別れたうえで(A大学の学生の中には、菜食主義者、またはべガンの人もかなりいる)、各グループの中でコンセンサスを求めて買い物を決めるわけだ。

最初は案外うまくいった。しかし、まだ話を先に飛ばすと、最後までそうは行かなかった。帰りの旅になると殆どの学生は自分の二ドルで自分だけが食べたいものを買うようになった。二ドルはお菓子二つしか買えない額だが、三週間ずっと全ての食べ物を皆と一緒にしていたから、文明社会に戻った途端に自然に身勝手な欲が出てくるのだった。もちろん、同じ仲間と四六時中鼻を突き合わせて三週間以上も暮らせば、コンセンサスが嫌になるのも無理はない。だが、これは帰りのことだ。このまま続けると話がめちゃくちゃになってしまいそうなので、ユタに着いた時点に戻ろう。

バンで三日間の旅の末に、ユタに辿り着いた。アメリカ中西部でユタと聞くと砂漠とモルモン教徒しか連想しない人が多いと思うのだが、ユインタス山脈の辺は森林や草原、緑たっぷりのところである。そして、岩と石。森林、山、草原、どこへ行っても、岩石が点々としていた。バックパッキングに慣れていない私のような者には、これは言うまでもなく非常に危なっかしい状況だった。

山の冒険に参加した学生は二十五人位で、それに上級生二人と教授一人、合わせて三人のリーダーがついていた。最初の十二日間は二つのグループに分けられて、私は赤髭の教授と先輩リーダーがひきいるグループの方だった。多分、野外生活の経験が比較的乏しい学生のグループだったのだろう。

この十五人のグループは、食事や野営の準備のために更に四、五人の班に分かれていた。私は後に親友になった「共謀者」TとG坊主という二人の男性、そしてマリとマリアという二人の女性と一緒の班になった。何故かは知らないが、A大学の行政当局は似たような名前の者を同じ部屋とか組に入らせる癖があった。

共謀者TとG坊主とマリアは私と同じくインディアナ出身だった。マリも隣のイリノイ州のシカゴから来ていたので、それまでの経験は異なっていても、育てられた環境にはそんなに違いはないようだった。

共謀者Tは既に二年間を既にコミュニティー・カレッジで二年間勉強してきた先輩だった。アメリカでは、高校の成績があまりよくない場合、コミュニティー・カレッジに二年間通っていい成績を取れば、それから四年制の大学に編入を申し込むことが出来る。共謀者Tはそういう編入生の一人だった。そして、名の通りいろいろな陰謀に絡んでいたが、それについては後で説明する。

G坊主は背が低く、いつも笑っている男だった。彼は宗教に熱心だったが、信心深いアメリカ人には珍しく、熱心の割に偏見は持ていなかった。哲学にも興味を持っていたので、私達はすぐ親しくなった。

マリも世が低かったが、彼女には誰にも負けない強さがあった。精神的な強さばかりではなく、肉体的にもバッチリだった。筋肉不足の私がバックパックの重さに根をあげていたある日、私の弱さを笑いながら、荷物の一部を背負ってくれた。本当に良い人だったが、マリは一年後にA大学を去ってしまった。

マリアの方は一言で言うと、几帳面な人だった。彼女は自然のまっただ中でも腕時計をはめたままだった。常に時間を気にしていて、私と全く合わない性格だった。責任らしい責任が欲しいタイプでもあったので、私達五人の班長になった。

赤髭の教授が言うには、最初の日は最初ということで、出発は早くとも歩く距離は次の日からに比べてごく短くするということだった。しかしこれは大嘘だった。その日は三週間の中で一番長い距離を歩かされた。坂道を十四マイルほどバックパッキングして、一マイル登った。夕方には疲れで死んだ気分だった。もう、明日は歩けるかどうかさえ不安でいる所へ、「ああ、ご苦労様。今日は一番大変な日になってしまったね。でも、これから後は楽になるから、心配するんじゃないよ」と教授に言われて、自分が死ぬよりも彼の方を殺してやりたい気分になってしまった。なぜこんな嘘を付くのだろう。こんなことを言えば私達学生の意欲をかき立てられると思っているのだろうか。

ある意味では、これはA大学のオリエンテーションとして完璧なものであった。A大学の管理局もよく「学生のために」真実をわざと隠し、デタラメを吐き出した。

出発から五日目のことだっただろうか。三時頃、予定されたキャンプ場に辿り着いた。大きな池のすぐ近くだった。私を除いて全員、すぐに服を脱いで泳ぎに行った。私は子供の頃から裸になることがどうしても恥ずかしかったし、誰か夜のたき火用の薪を集めなければならないので、一人で残った。一時間位枝拾いをして、キャンプ場で持ってきて、炊事の準備を済ました。

皆が池から帰ってくると、さっそく晩飯を作り始めた。私とG坊主の番だったが、冗談をふざけながら仕事をしていたので、何かに大笑いした拍子に火にかかった鍋をひっくり返して地面に落としてしまった。余分な食料はなかったから、仕方なくこぼれた分を手ですくって鍋に戻した。それで『泥んこシチュー』という名物が出来てしまった。これは私達男性軍にとってはさらに笑いの種だったが、女性軍には受けなくて、バカにされた。

いつの間にか、お互いを笑わせている私とG坊主はこの冒険が終わる前に、一緒に大ジョークを作ろうと決めた。私とG坊主はいつもこんなふうに冗談を言い合う仲になっていたが、そのうち、この冒険が終わるまでに一つ、大ジョークを共作しようということになった。それに付いて決めた条件は三つある。一つは当時の米国大統領ブッシュを主人公にすること、もう一つは言うのに最低十分かかること、最後は落ちに「Now that's what I call a mouthful of Bush.」という文を使うことだった。長さは自分たちにとってのチャレンジというだけでな、いつも時間を気にしているマリアを冷やかすためでもあった。

一説によると、三週間も自然の中で暮らしていると、たいていの人間は多かれ少なかれ文明離れをし始めるのだそうだ。せめて少なくとも、くだらないジョークが嫌いなマリアはそう思ったマリアは私達のことをそんなふうに見ていた。だが、どう野蛮に見えようとも、私達に取ってはこれが普通のあり方だったのだ。正直な者はどこへ行ってもあまり人は変わらない。一度マリアにそう言ったら、「くだらない者もそうかしらねぇ」と言い返された。でも、マリアのことは結構気に入った。というのは、私は議論を通してストレスを解消するタイプだから、議論の相手がいないとかえってきちきちになってしまうからだ。

しかし、こうして自然に長くいるうちに正直な者でも話し方や話題がどんどん変わってくる。三週間の間、グループ以外の人間には三人しか会わなかったので、始めは赤の他人同士だった私達はすぐ親友になった。前に書いたように、笑い話もたくさんあったが、日常の付き合いでは絶対に出てこないような話も結構あった。今でもよく覚えているのは、ある晴れた日に、女性達がレイプや性的虐待とかいたずらを受けた経験について話し合ったことだ。もちろんここでは彼女らの話の私的な内容には触れないでおくが、このような話題の妥当性云々はさておき、言論の自由を尊重するアメリカでも普通は口に出さないようなことなので、皆の率直な発言に驚かされた。

神秘的な経験もあった。ある日早くキャンプ場に着いたが、殆どの学生は疲れていたので全員休憩ということになった。だが、私はまだ元気だったので、班の男達と赤髭の教授と一緒に丘に登った。丘の天辺には、大昔の氷河によって形成された、それまで見たこともないほど美しい湖があった。深さは四、五メートルといったところで、底に魚がくっきりと見えるほど澄んだ水だった。

私は一人でこの湖を数十分眺めた。それから、丘の平面から遠くの森林と谷を見渡した。そのとき、風に囲まれてそこにたっていると、「これこそ神様だ」という気がした。宗教心のある人だったら当たり前のことだろうが、信仰の名残しか持っていない私には不思議な経験だった。とにかく、キリスト狂の唯一の神様と違って、私が見た一人の神様はユーフォーのようなもんだ。誰にも見えないユーフォーだが。

バックパッキングをしていると、そのうち歩くことさえ大義になってくる。元気を出すしかない。元気がなくては続けられない。同時に、五感が鋭くなってくる。普段ならまずいと思う食べ物でもお腹が空いている時には非常に美味しくなる。だが、何よりも大切なのは、バックパッキングの目的は歩くことだけで、外部からの圧力は一切ないということだ。この自由を一度でも味わうと人生観が変わる。

話がちょっと抽象的なところへ来てしまったので、冒険の方へ戻ろう。

なぜかわからないが、私は子供の時からずっと火が大好きだった。しかし、残念ながら、火を作るには安全規則というものがある。それに、ユインタスは自然保護区域だったから、火に関する注意事項が多かった。私は出来るだけ規則を守ろうとしたが、それでもある日、「おい、火が高すぎるぞ。潰せ。それ以上薪を足すんじゃない。」と赤髭の教授に注意されてしまった。しかし、私の火遊びが役に立ったこともあった。皆が疲れていて薪集めをしたくない時にはいつも私がそれを買って出て、立派な火を作った。

自然保護区域のこぼれ話をもう一つ。自然保護区域にはちり紙を持ってきてはいけないため、現場調達しかなかった。私は植物の葉っぱを使った。だが、その地域には毒性のある植物もけっこうあったので、葉っぱを探す時はいつも不安な気分だった。赤髭の教授は松かさを薦めたが、見るからに硬そうなので使う気にはなれなかった。

悲惨な事件もあった。ある日、他のグループが、私達と同年代の女性が祖父母と歩いているのに出会ったという話を聞いた。ユインタスで人と出会うのは珍しいことだが、その後なにも事件がなかったら、多分この女性のことはすぐに忘れてしまっただろう。しかし、数日後に彼女のことを聞いてから、大嵐がやって来た。その日をハッキリ覚えている。山の峠を越えるには、午後一時まで位なら大体安全だが、それを過ぎると嵐の危険が非常に高くなる。その日、のんびりと動いていた私達が山越えをしたのは二時頃だった。まだ山にいる間に、雨がピシャピシャ降ってきた。麓に到着する頃には、風が物凄く強くなって、さんざん降りの雨だった。私達は林の中に雨宿りをして、冷たい雨がやむまで十時間位待った。その雨の中で、私と共謀者TとG坊主は奮戦して皆のため火を作った。

その大嵐の日に、他のグループが出会った三人連れが遅くなってから山越えをしようとして孫娘が落雷を受けて死んでしまったということを、冒険の旅が終わった日に新聞で読んだ。この偶然と言えば偶然のような出来事をどう受止めたらいいのか、今でも分からない。私が四年A大学に通った四年間にも、私と同年代の人が三人亡くなった。この女性の場合は実際に会ったこともない他の大学の学生か職員だったので私からは離れた存在だったと思われるかもしれないが、同じ山脈でバックパッキングをしていて同じ大嵐に会った人間として、その日死ぬのは彼女でなくて自分だったのかもしれないという可能性を率直に認めないでは済まないと思っている。

五日目のことだっただろうか。「皆さん、7時15分です。出発は7時50分になっていますから、早く朝ご飯を食べて、準備しましょう。」といつも通りのマリアの宣告で始まった。

出発時間になると、「今日、何か特に話しておくことはありますか」と赤髭の教授が皆に聞いた。

「はい」と私はさっそく答えた。「せっかく自然の中に来ているのですから、もう、現在の時刻とか予定とかを気にしなくてもいいと思います。皆さんはどう思いますか。」

「時間に気をつけていなかったら、遅れてしまうわよ」とマリア。

「でも、そもそも『遅れる』っていうのがどういう意味か考えてみなくちゃ」とG坊主。

「皆の考え次第だな。私は時間を気にしようがしまいがどっちでも良い。投票でで決めなさい。」と赤髭の教授が提案した。

結局、時計の針の動きを気にしていたのはマリアだけだったようだ。

今の私はいつもパソコンに向かって時間を気にするような生活をしている。時間に縛られた自分が嫌なことには変わりない。だからこそ、大自然を旅している間に時計に拘束されるのは御免だった。マリアが甲高い声で時刻を告げるのを止めた日から、私はようやく落ち着いた気分になることができた。

十日目のことだったろうか。山に登る日が来た。バックパックを麓において、頂上へ向かった。雲が少なかったおかげで、素晴らしい眺めだった。皆で写真をたくさん撮った。ちなみに、冒険旅行が終わった後で皆の写真を集めて、スライドショーを作ったのだが、保護者達に披露した時に、頂上から突き出た岩の上であともう一歩で転落死になりかねないような端に立って下界を見下ろしている男の子の写真が出てきた。それを見た途端に母が思わず口を開いた。「あの馬鹿はどこの子かしら。たかが写真のために、あんな危ない所まで行くなんて。」実はその写真に写っていたのは私だったので、「ああ、あれは写真のためだけじゃなかったんだよ」と説明した。母は「あの子」私だと分かった瞬間、私を殴って、真っ赤になった。

それはともかく、山から下りる時は石が多くて大変だった。私は速く歩きすぎたせいで、石に足を取られて転び、捻挫をしてしまった。立ち上がってみると、右足に体重をかけられないのが分かった。

二人の友達に支えられながら、皆の所へ戻った。赤髭の教授は私を見るとすぐ見るや否や矢継ぎ早の質問を浴びせてきた。私が説明し終わると、教授は拾ってきた枝で松葉杖を作ってくれた。それから三日間、私はバックパックを背負いながら松葉杖で進んだ。思ったほど難儀ではなかった。

軽い怪我で済んだことは何よりも有難かった。もう一つのグループの方では、リーダーがひどい風邪にやられて、途中で帰ることになってしまった。旅の真ん中の日に、馬に乗ったカウボーイが食料を持ってきてくれたので、その彼と一緒に戻ったわけだ。

ちなみに、事前に大学から保護者に送られた説明には、「不意の事故等に備えて衛星電話の準備もありますので、ご安心ください」などと書いてあった。しかし、これも大嘘だった。衛星電話があったのは本当だが、文明から遠く離れたユインタスでは使い物になる筈がなかった。赤髭の教授にも聞いてみたところ、「ああ、あの電話?あれは、使える所まで行き着くのに二、三日はかかるな。もし本当に事故が起きたらヘリを呼ぶべきなんだが、電話が通じるまでに時間がかかりすぎるから、実際の話としては応急手当しかないということになるな。」と白状した。

十五、六日目には独りで反省する時間が与えられた。赤髭の教授に貰った「糧食」の小さなプラスチックの袋を持って、一人ずつ別の所へキャンプした。しかし、その袋にはたったの一握りの食料しか入っていなかった。私は自分を抑えて二時間ごとに一口食べるだけにしたが、それでも最初の一日で殆どを食べてしまった。

自己反省の一つの手段として自分宛に手紙を書くことになっていたが、書いた内容は誰にも読ませないという決まりだった。独りの時間が終わると、赤髭の教授は「約束通り内容は読まないが、集めて保管しておこう。そのうちいつか、君らが一年生の間に、送ってやるから。」と説明した。

私は七頁を越える手紙を書き上げた。二日間たいした食べ物もなく、書く以外にやることがなかったからだろう。

そして、寝た。お腹が空いて痛いくらいだった。最初は眠りにつくにも相当な苦労をしたが、二日目になるともうもうペンさえ持てない位疲れていたので、横たわってうとうとしていた。

「おい!大丈夫か!」と赤髭の教授の叫び声が聞こえた。一体何事か、と思ってすぐ立とうとしたが、体がいうことを効かなかった。

教授は「おい!食べろ!」と私にジャーキーを渡した。二週間に初めてありついた肉だった。それを口に入れた途端、全て思い出した。私はユタ州にいる。バックパッキングの旅をしている。昨日は自分への手紙を書き上げた。そして、空腹のあまりずっと寝ていたのだ。

「君を見つけた時は、まさか死んだんじゃないかと思ってしまったよ。」と赤髭の教授は私に告白した。「人を脅かすんじゃないぞ。大丈夫か?」

「ええ、お腹が空いただけです。」

「なら、今夜は楽しんでくれよ。カウボーイがまた食料を持ってきたから、ご馳走が待ってるよ。」

そのご馳走は、チーズだった。本当に美味しかった。

食べ物の話といえば、私は子供のころからずっと母に「食品の消費期限をしっかり守らなくてはいけませんよ」と厳しく言われていた。だが、この冒険で、この「消費期限」というのは嘘のようなものだと分かった。例えば、チーズを冷蔵庫に入れておかないとカビが生えるが、ナイフで切り落とせば残りを食べても害はない。病気になることもない。これは当たり前のことかもしれないが、うるさい母に育てられた私にとっては大きいな発見だった。

最後の四日間は一旦全参加者が再会してから、新たに三つのグループに分かれた。それから歩く距離によって分かれたので、普段の私なら一番きつい旅程のグループに参加する所だったが、まだ足のことが心配だったから、短い距離を歩くグループに応募した。そのグループには男性は私と共謀者Tの二人しかいなかった。他の十二人位は皆女性だった。たいていの男なら嬉しくなるような話に聞こえるかもしれないが、歩いてきた仲間だったので、異性同士というよりは兄弟姉妹という感じだった。

しかしこれは私が勝手に彼女らを姉妹扱いしたというだけのことかもしれない。私達の新しい班にはRアース子という女の子がいた。彼女は、菜食主義者で、戦争が嫌いで、常に環境問題を考えているような人だった。その彼女と共謀者Tはこの四日間で急に親しい仲になった。しかし、他の学生の前で変な真似をするようなことはなかった。これは彼らのとても良いところだった。話は飛ぶが、七年後の今でも二人は一緒だ。これだけずっと続いているので、もうすぐ結婚するのではないかと思う。

とにかく、帰りの旅は簡単だった。リーダーの指導なしに、地図を地図を頼りに公園の入り口に戻る。それでリーダー達が去った。マリアも私達のグループにいたが、一度道に迷った時にパニックして、かわいそうな位だった。彼女はいつも多忙で、些細なことに溺れてばかりいるように見えた。

他にも色々な思い出はあるが、それを書くのはまたの折りにしよう。ともかく、ようやく無事にインディアナ州に帰り着いた。G坊主と二人で作っていたブッシュ大統領のジョークは完成していた。帰った日の晩に、カナダへ行ったグループと合同の発表会のようなものがあったので、そこでこのジョークを十二分に渡って披露した。よく「あ、彼は自然から戻ったからそういうように振舞っているね」と批判されたが、それは間違いだ。普通の私であった。
「あれは、長いこと文明社会から切り離されて気違いみたいになってるんだね」というのが一般の評価だったが、それは間違いで、私は全く正気だった。

これを始めとして、私のユーモアはA大学内ではあまりうけないものだった。