大学の始まり

ようやく大学の入学式の日がやって来た。朝御飯を食べてからテントを片付け、バンでキャンプ場からキャンパスへ向かった。キャンパスで父が待ってい た。父と話しながら、「八月の冒険」のキャンプ用具を倉庫に戻しに行った。それに大分時間がかかったので、式の開始時間ぎりぎりになって講堂に着いた。も のすごい数の生徒と両親で、もう空席は残っていなかったから、三階へ上って、後ろの階段に座り込んだ。つまらない挨拶を聞くふりをしながら、それまでの三 週間、つまり、山の冒険のことを考えていた。

私達はA大学の百五十年以上の歴史において一番大きい新入生のクラスだった。四百人が限度の所に、その年には四百五十人以上の学生が来てしまったか らだ。次の年にも同じ様な予測はずれが起こった。しかし、これが特に悪いことだという気はしなかった。当時の私はまだナイーブで、「頭数を増やすために水 準を落とす」という論理にあまり慣れていなかったのだ。

目が覚めたら、学校行政の事務員が私達新入生についていろいろな統計を紹介しているところだった。あまりにもバカな話だったが、一つだけ今でも覚え ていることがある。それは、ある学生が願書の「将来の夢は?」という質問の答えに、「ジェダイナイトになりたい(スターウォーズのヒーロー達の一員)」と 書いた学生が居たということだった。そんなバカバカしいテーマでエッセイを書き上げて、私と同じ大学に合格出来た奴がいたことに驚いた。スターウォーズの 台詞を丸暗記してきた私でさえも、本音はどうであれ、ある程度真面目なふりをする必要があると思っていたので、これはあまりと言えばあまりの話だった。

しかし、A大学は変人の楽園だ。それというのも、A大学の教授も学生も他ではあまり見かけないような人間ばかりが集まっているからだ。小中高で苛め られた学生が多かったから、当然社交的に問題のある者も少なくなかったが、A大学の学生のとても良い点は誰もが少なくとも一つは特技をもっていることだっ た。例えば、一見普通の医学校志望の学生が、夜になると腹話術のショーを演じる。または、言語学専攻の学生がファイヤーダンスを披露する。しかもサーカス 並みの腕前である。芸術を全く理解しない警備員が現れるまでのことだったが。また、昼間に社会学を勉強する一方、夜になると荒廃したビルを探検している学生もい た。(実はこれはG坊主とT共謀者の趣味の一つだった。)

式が終わると入居時間になっていた。寮へ向かうところで、不吉なことに、Hと彼女のお母さんが声をかけてきた。

「旅行はどうだった?」とHは尋ねた。彼女はとんでもなくだらしない服を着ていた。似合うどころの話ではなかった。ファッションに疎い私は、それこそ本当に酷い格好になっている時でないと「似合わない」と気が付かない。

「大学の初日に、なぜそこまで露出する必要があるんだよ」と突っ込んでやりたかった。「自分を売るのに四年もあるから充分だろ。お母さんの前では焦ってないみたいに振舞いたがる癖に。」と言ってやりたかった。だが、「まあ、楽しかったよ。」とだけ答えた。

「あたしも行きたかったわ」と彼女。しかし、これはどう見えても嘘だった。Hは運動オンチで、虫が嫌いだった。それによく文句を言う癖があるから、すぐに新しい友達が出来ない性格だった。

「いや、お前じゃあ、多分楽しめなかったと思うよ。」

「とにかく、アンタと一緒に大学に行くのをすごく楽しみにしていたのよ。」

父とふと見て不味いに思った。適切な答えが思いつかなかったが、会話を早く終わらせたくて適当に言葉を濁した。「まあ、僕もここを選んでよかったと思ってるよ。悪いけど、まだ部屋の準備があるから、話は後にしよう。」

「そうね。後でゆっくり話しましょう」と彼女。私はゾッとした。

ちなみに、インディアナ州には、地元に本社を構える大手の「偉い百合」製薬会社の提供による州出身の学生のための奨学金があった。その奨学金は州の 九十郡の人口に比例して振り分けられ、州内の大学なら公立でも私立でも四年間の学費と寮費全額に加えて毎学期五百ドルの生活費まで出してくれるというもの だった。奨学生の専攻にあたっては「偉い百合」はは口を出さず、各郡の組織に任せていた。

インディアナ州の九十群のうち、八十九群は一番優秀な生徒にその奨学金を与えていた。しかし、私が住んでいた群だけは、「優秀な生徒に与えるが、一番優秀な者は除く」という方針だった。私は成績が良すぎたせいで、申し込もうにも申し込めなかった。

Hはその「偉い百合」の奨学金をもらっていた。確かに、私には羨ましいことだった。怒りも覚えた。それは、Hが四年間の大学教育が完全に無 料なのにも関わらず一年生の時から二つのバイトを始めたことが気に触ったのだ。彼女は本当にお金が必要だったのではなく、ただ遊ぶ金のために働いていた。 だが、いわゆる「完全四年無料」奨学金の主目的は、優秀な学生がバイトなどをせずに勉強に集中出来るようにする、ということだ。飲み食いや車代のためにバ イトなどをする学生は、そういった奨学金の意義を台無しにしてしまう。

A大学は一般のアメリカのほとんどの大学のように寮制だった。学生の九割以上は寮に住んでいて、特別許可をもらっている三、四年生だけがキャンパス外に住んでいた。この許可を貰うには、醜い寮の行政管理局長と一夜を過ごす位の努力が必要だった。

私が住むことになっていたのは「静かな寮」という建物だった。当時の私はよく大学のことを知らなかったが、「多分寮はうるさいところだろう」と思っ ていたので、A大学で唯一の静かな寮を選んだわけだ。寝るのにどうしても静かな環境が必要で、騒ぐ時は友達の寮へ行けばいいと思っていた私にとって、この 選択肢があったことは小さな幸せだった。

しかし、現実に直面すると幻滅することはよくある。「静かな寮」がそう指定されていた本当の理由は、個々の学生の好みを尊重するためではなく、単に壁が物凄く薄いから、ということだった。だから、皮肉なことに、現実には普通の寮よりちょっとうるさい所だった。

後で、母が始めてその寮を見た時に言った。「あれ?あそこに住んでるの?あれじゃ、寮っていうより安モーテルみたいよ。」安モーテルとの共通点は外面だけ ではなかった。例えば、その年には、二階建ての寮の一階に住んでいる学生の殆どがセックス狂だった。それだけだったら普通の学生と大した違いはないかもし れないが、同じ寮内の人間としか関係を持たない学生が多いのが目立った。私の部屋は二階だったが、百人を上回らない人数の寮の中で、二学期にもなると階下 の人間関係がややこしくて情けないありさまだった。そういうわけで、以下、この「静かな寮」を「安モーテル」と呼ぶことにする。

私が部屋に付いた時には、ルームメートのDCは既に自分の半分を片付けていた。私達は赤の他人からすぐ友達になった。大学の四年間に一緒に暮ら した四人のルームメートのうちで、一番うまくいった相手だった。他のルームメートは全て私が自分で選んだにも関わらず、DCの方が良かったというのは不思 議なことだ。

DCと私は、見かけも似ていた。これはA大学の変なところの一つだった。ルームメートを決める際、出来るだけ顔が似ている学生を選んで組み合わせる という癖があった。そして、DCもインディアナ出身だった。なるべく似たような経験のある者同士を組み合わせれば、あまり喧嘩にもならないだろうという考 え方らしい。

初めて部屋を見た時にはその狭さにガッカリしたが、これはあくまでも第一印象に過ぎず、すぐに考え直した。大学では別に広い部屋は必要ない。それよ りパソコンだ。私はパソコンを持ってきていなかった。大学に入ってから買うつもりだったのだが、初日は忙しくて、注文する時間さえなかった。

HとDC

Hはいつの間にか私達の部屋の常連になっていた。閉まっていたドアを開けたら、彼女がDCと並んで彼のベッドに座っていた。普段彼が部屋に居る時はドアを開けておく習慣だったので、本当にびっくりした。とっさに「不味いな」と思った。まさかこの女は彼にちょっかいを出しているのだろうか、と。

そう気付いたからには無視するわけにいかなかった。時間がたつにつれて、彼らは親しくなりつつあるように見えた。部屋にいてもいつもDCと話していたから私の邪魔になるわけではなかったが、やはりルームメートのことだから気になった。会ったばかりのDCのことはあまり知らなかったから、どのように彼に忠告すれば良いのか分からなかった。

だからある夜Hに「ちょっと時間をくれないか。外で話そう」と促した。

寮の狭い廊下で立った彼女は尋ねた。「何?」

「俺のルームメートに手を出すなよ」

「アンタ、最近変だと思ったら、それかあ。全く、アンタって、バカみたいに分かりやすいんだから。」

「冗談で言ってるんじゃねぇよ。彼をどう思ってるか知らないが、俺達がはルームメートである限りちょっかいを出すのはよしてくれ。そうじゃなきゃ、俺はお前と一切縁をきるぞ。」

「アンタ、何言ってんの。バカバッカみたい。あたしがDCと話しているのは、アンタを待っているだけだよ。アンタに会いにきてもあんまり居ないから寂しくってさ。それで丁度DCが居るし…」

「お前、俺がそんなこと信じるようなバカだと思ってるのか」

「本当だよ、本当のことを言ってるだけだよ。」

ここらで周りの学生の目に気付いて、どうにも廊下でこの会話を続けることは出来なくなってしまった。「庭に行こう。」彼女は私の要求に従った。

歩道を歩きながら話を続けた。普段の私は議論をしながら歩くのが結構好きな方だが、これはそういうのとは別物だった。私が好きなのは知的な議論だけだ。こういう個人的な感情問題で口論するのは苦手だった。

「夏に友達でいようと約束した後で、こんなバカな手を使うなんて許せない。本当に友達だったら、俺のルームメートにちょっかいを出すなんてことをする筈がない。」

「あたしがDCにちょっかい何か出していないわ。なぜそう思っている、理由を聞かせてくれないかしら?」

「ちょっかいなんかだしてないったら。なんでそんなこと言うのよ。」

「彼のベッドに一緒に座って、膝に乗るくらいひっついてるじゃないか。それに、昨日電話してきた時俺が忙しいって言ったら、『アンタはいいの。DCと話したいわ』って言ったのはどこの誰だよ。」

「それはDCに生物の宿題を手伝ってもらってるからよ。彼は優しいし、本当に頭が良いわよ。まるでもう医者みたい。」

「念のため、ちょっと教えといてやろう。DCはお前に惚れてなんかいねぇぞ。昨日、あの電話の後で、俺達がどういう関係か聞かれたんだ。俺が元の彼女って答えたら、彼は、『じゃ、僕にはデートの対象外ってことになるな』って言ったんだ。勘違いするなよ。大事なのはその後だ。彼が続けて言うには、こうだ。『君には失礼だが、恥かきついでに聞いてしまおう。実は、ずっと前から気になっていたんだが、何と言うか、その、彼女の女性としての品格なんだけどね。いや、君に悪い意味で言ってるんじゃないんだ。君がしっかりした男だってことは分かってる。ただ、まあ、どう見ても、彼女はちょっとだらしないタイプのように見えるんだ。』お前が言う通り、DCは本当に頭が良いんだ。だから、お前の下手な芝居なんかすっかりお見通しだぜ。」

「嘘つき。DCがそんなこと言う筈ないよ。紳士だもん。」

「紳士でも真実だったら、たとえ醜くいことでも、言う時には言うもんだ。お前は、根っから真実って言葉が苦手みたいだけどな。」

「アンタ、何よ、それ。じゃ、ハッキリ言うわよ。あたしは自由。自分が好きなようにどう動こうと、あたしの勝手。それこそ大学での自立って言うもんよ。」私はこれはどう考えても間違いだと思ったが、彼女は自分の口から出る言葉を理解しないまま矢継ぎ早に続けた。「DCとデートしようが何しようが、それはあたしの自由じゃん。アンタの言い分なんか聞く必要ないよ。だいたい、もう彼氏じゃないんだから、アンタには私が男を作るのを止める権利なんかありゃしない。」

「お前はバカだ。そういうとこ、お袋さんにそっくりだぜ。」彼女が何よりも怖がっていたのは、自分のお母さんのようになることだった。十分あり得ることだったから、無理もない。「いつも男にひっ付いてやがる。最初は俺達は違うと思ったけど、それはご存知の通り大きな勘違いだったよな。俺と付合う直前まで他の男が居て、俺を振ってから一週間もしないうちに次の彼氏を作ったんだ。で、奴にお前が振られた時は、よく覚えてないが、二週間位保ったかな。」

「アンタ、何が言いたいんだよ。」

「お前は人生を無駄にしてるんだよ。いつも男が居なくちゃダメで、それが何でか、全く解っちゃいない。
最初に付合った時は、お前をその悪循環から救い出してやりたかったんだ。あの頃はお前が本当に美しく見えたし、本当にお前を愛していた。だけど、お前は救いようのない女なんだ。お前はいつも自滅的な方向を選ぶんだ。高校卒業記念に一緒に作った『No One Dies a Virgin』の映画のラストーシーンを覚えてるだろ。俺は、お前のためにあれを書いたんだぞ。」

(これは、映画の主人公の守護精(fairy godmother) が最後に現れてすべてを説明するという、いわゆる、デウス・エクス・マキナ (deus ex machina) の急場解決のシーンである。その守護精の解説によると、誰でもいつか必ず人生で一番重要な選択に直面する時が来る。そこで、「白いドアと黒いドアのどちらかを選んで、その世界へ踏み込む」という決断をしなければならない。守護精は続ける。「白いドアの向こうは、あなたの永遠の幸せが待っている楽園です。友達も皆いて、悩み事もほとんどありません。黒いドアの向こうは全くその逆で、開けたら二秒もしないうちに誰かにぶん殴られるような目に遭います。そして、その後の状況は悪化する一方です。私の説明は以上です。あとはあなた次第ですよ。」そう言い残して、守護神は黒いドアを開けて暗闇に消える。)

私はHに説明を続けた。「俺は頑張ったけど、二年が限界で、うんざりしちまったんだ。それでも、お前もいつか男を追いかけるのに飽きるだろう、と思ってたんだが、間違いだったな。情けない女だよ。俺は預言者じゃないが、お前の将来を予測してやろう。何十人もの男と付合った末に誰かと結婚するかも知れんが、どのみち離婚になるのは決まってるぜ。そして、中年から独りぼっちになっちまうんだよ。今のお前のままだったらな。お前はまともな人間関係が保てないんだ。いつも欲張って、相手に嫌われるような形で誘惑しやがる。鬱病のせいかなんか知らんが、もう、俺にはお前を助けることなんか出来ない。それどころか、今の状態じゃ友達でいても何も良いことがないみたいだ。もう、俺から離れてくれ。そして、俺のルームメートにも手を付けるな。」

彼女はしくしく泣いていた。「あたし、本当にお母さんみたい?」

「ああそっくりだ。遺伝には逆らえないもんだな。『蛙の子は蛙』って言えば分かるだろ。」彼女はこの陳腐な決まり文句にすくみ上がった。それを見て、私はさらに情けなくなった。

「あたしはいつもずっとアンタのことを愛してるけど、アンタがもう同じように思ってないことはハッキリだね。さよなら。」

しかし、話はこれで終わらなかった。休戦状態に入ったところで、彼女が話し続けた。「あたしを一日でも本当に愛したことはあったの?」等々、いろいろ感情的なことを言っていたのだが、このあたりは省略して差し支えないだろう。ただ、はっきりしておきたいのは、私達二人とも、これが最後の会話だと知っていたということだ。いつまでも嫌い合っているだけではいられないから、将来の平和的共存のためにお互いにちょっと慰め合っていて話が長びいたと言えるだろう。

その日から私達は挨拶さえ交わすことはなかった。今考えると、私も少々言い過ぎだったかとも思う。彼女をそこまで傷つける必要はなかったかもしれない。でも、後悔しているわけでもない。彼女が私を裏切ったから、彼女は私を裏切ったのだから、復讐には手を選ばないという環境に育った私には当たり前の行動だった。今でこそそうした考え方は非常に危ないものだと思えるのだが、当時の私はまだ分かっていなかった。

全くの白紙状態で大学生活を始めたかった私には、彼女のような高校からの大荷物は邪魔だった。無論前にも 言ったように復讐の考えもあった。でも、彼女をそこまで憎んでいたというわけでもない。ただ、罰を科してしかるべきだと思っただけである。

小さい大学の中に住んでいたからしょっちゅう出合うのは避けられなかったが、その日から声をかけることはなくなった。

JJさん・「コンピューター・プログラミング一○一」

初級コンピュータークラスを担当していたJJさんは前年に学部を卒業したばかりの講師で、教授の研究生だった。

当時のA大学の学費は一単位あたり約八百ドルの計算になっていたので、最初はこの三単位、二千四百ドルというクラスに教授が現れないのを不満に思った。だが、JJさんは正教授でなくとも教え方が大変上手で、面白い授業だった。

Jjさんの長所は、いつも口から様々なトリビア(雑学知識)がこぼれてくるような、好奇心の強い人だったことである。トリビアのゲームが大好きな私にとっては、とても楽しい雰囲気だった。

Jjさんもユーモアのセンスも凄く気に入った。

例えば、ある日、彼は私の腕の長さより広い直径の赤い中折帽子を被って、当たり前のような顔で教室に入ってきた。しかも自分の馬鹿馬鹿しい様子に全く気付いていないように。それは、「レッド・ハット・リナックス」を紹介するためだった。

私は別に授業が楽しくなくても構わないタイプだが、JJさんの授業は始めに思ったよりずっと良かった。

だから、彼のクラスでは結構勉強出来た。

因みに、私が授業の楽しさ云々を気にかけるのは、祖父の影響である。

祖父は心理学者で、博士論文を書いていた時、時に色々な実験をしたのだが、その一つに「楽しい」授業と「つまらない」授業の効率を比べるというものがあった。

簡単に言うと、生徒に「楽しい」と評価されるのはイベントとかゲームが多い授業で、「つまらない」と思われるのは講義だけの授業なのだが、祖父の研究の結果は、後に生徒がよりよく覚えているのは「つまらない」授業の内容の方だということだった。

これは実験を始めた当初の仮説とは反対の結果で、「楽しい」授業を受けた生徒の殆どはその楽しさや特定のイベントを覚えているだけだということが判明した。

まあ、余談はこのくらいにして、話しに戻ろう。

実際の所、JJさんは次の学期のJ先生より教え方がうまかった。

アメリカの大学教授というのはあくまで専門家なので教授法を勉強していないからだろうと考えられる方も多いだろうが、私に言わせれば、それだけのことからくる違いではないと思う。教授法を勉強したからといって良い先生になるとは限らない。まして教育理論そのものがどんどん痴呆化しつつあるこの頃では、そういった教授法の訓練は出来るだけ避けた方が良いと思う。大学教育のレベルでは、学生と教授がお互いに大人として論議しながら授業を進めるというのが好ましいと思う。

十月にマイケル・Mooreがインディアナポリス市で講演をすることになった。

その講演のスポンサーの一員だったA大学の学生にも限定数の無料入場権が配られた。

しかし、私は大学の連絡網から漏れていたので、もしJJさんの授業を受けていなかったら、マイケルをライブで見る機会は得られなかっただろう。

講演があったのはブッシュとケリーの大統領候補者ディベートの直前で、大変混んでいた。

インディアナ州でそれだけの数のリベラルが集まったのを未だ曾て見たことがなかった。

マイケルをライブで見て時、閃いた。

有名人が講演する時は、新しい面白い情報を提供するよりは、誰もが既に知っている過去のことを繰り返し並べ上げるのというのが一般のやり方なのだ、と。マイケルは特に話しが下手というわけでもなく、どちらかと言えばうまい方だったが、それでも私には何か物足りなかった。

A大学で過ごした四年間で知名の学者や有名人の講演を数十回聞きに行く機会があったが、内容がどんなに素晴らしい時でも、いつもちょっとガッカリした気分で帰った。

句先生・「日本文学入門」

当時のA大学の規定では、一年生の必修に文系クラスが二つということになっていた。「読み書きの基本」をテーマにした内容で、私が入学する前の年までは、一年生全員が同じ四冊の本を読み、各クラスの教授がそれぞれ一冊選んで授業に使う、という制度だったのだが、これは「帝国主義的な教育法」だという批判のもとに廃止されてていた。初めてこの「帝国主義」の批判を聞いた時には別に変に思わなかった。しかし時が経つにつれ、何でも「帝国主義のお化け(名残)」のせいにするという習慣が嫌になった。

新制度では、各教授の興味にそって出されたテーマの中から一番受講したいクラスを四つ選び、バランスを考えた上で振り分けられることになっていた。事務局のうたい文句では自由に選択出来ることになっていたのだが、私は既に専攻と趣味の関係でコンピュータープログラミング、日本語、哲学、の三クラスを取ることに決めていたので、必修の文系クラスが十ある中で空き時間に組み込めるのは日本文学とアメリカ原住民の歴史の二つしかなかった。あり難いことに、日本文学は私がその十クラスのなかで一番面白そうだと思っていたものだった。更に運良く、入ることが出来た。

最初の授業で教室に入った途端後悔し始めた。他の学生の会話を聞いていると、オタクばかりのようだった。これは、アニメを一本も見たことのなかった私にとっては大変不安なことだった。アニメに詳しくなくても文学を勉強するには関係ないというのはハッキリ分かっていたつもりだが、周りの学生達はそんなことを考えているようではなかった。

確か句先生はその最初の授業に遅刻した。A大学では、教授でも遅刻する人が多かった。謝りながら、句先生は自己紹介をしてくれた。研究範囲は文学・フェミニズム・アニメだった。「ちょっと待って、アニメは専門のが本当か?」と思った。本当だった。それで更に不安になった。

句先生は日本人で、アメリカに滞在して数年になっていたが、まだ日本訛が強くて、woman の始めの w が聞こえない程度だった。 (余談だが、どうせwが消えるなら、Wとあだ名される二代目ブッシュ大統領が消えてくれる方が良かった。)そして、セミナー式の授業だったのに、あまりディスカッションの扱いがうまくなかった。とんでもなくバカなことを言う学生も叱らない。そのうち、課題に出される文献を読んでこない学生の数もどんどん増えてきた。

言うまでもなく、句先生の第一印象は非常に悪かった。私はそれでもともかく課題は全部やったが、最初のレポート論文はあまり真面目に書かなかった。彼女はそれほど英語が出来ないから、努力しても多分無駄だろう、とも思った。

しかし、馬鹿なのは怠けている私の方だったということが明白な結果になった。そのレポートの評価はB-だった。 評価としてはそれほど悪くはなかったのだが、返却された紙面は赤ペンで覆われ、出血過多で死にかけている患者のようだった。その日から、私は宿題を全部真面目にやるようになった。

アメリカの大学では教授が特定の時間に自分の部屋で生徒の質問や相談を受けるためのオフィスアワーズというものがある。教授によって予約式のこともあるが、句先生は立ち寄り式だった。

一学期のうちに、私は先生の部屋の常連となった。授業の間になかなか出来ない深い話が、オフィスアワーズで双方から出てくるようになった。そのうちに、先生に対する第一印象は完全に外れていたということが分かってきた。

授業そのものは決して上手いと言えなかったが、それほど悪いという程でもなかった。それは、句先生の授業のおかげで、大学でも映画を作ることができたからだ。

C先生・日本語一○一

C先生のことを考えると、いつも初めての日本語のクラスを思い出す。そのクラスはA大学で一番新しいビルの教室を使っていた。他の建物の殆どは五十年程の歴史があるものだったが、そのビルだけは十年くらい前に建てられたものだった。外装はキャンパスに調和していたが、残念なことに内装はいい加減な醜いデザインだった。後日、キャンパスの建築計画委員会に参加して分かったことだが、このとんでもないビルの建設計画に関与した委員達は皆そのデザインに満足していた。一人不満だった私は彼らと大げんかをすることになってしまった。

C先生は、きちんと整った服装でその教室に立っておられた。他の大学の教授はおそらく皆きちんとした格好をしているのが普通だと思うが、A大学ではそうではなかった。たいていの教授はジム先生のように、Tシャツにサンダルの姿でクラスに現れる。そんなわけで、C先生を始めて見た時には、先生もキャンパスに来てからまだ日が浅いのだろう、と推測した。

実際、そうだった。これは後から分かったことだが、A大学の日本語教授の任期は二年に限られていたらしい。この制度については、また詳しく書くつもりだ。とりあえず、ともかく、C先生のことを考えるたびにその最初の日を思い出すのは、出席を取った直後にこうおっしゃったからである。「今日の所はさておき、明日からは、明日からは授業の全てを日本語で行うつもりですので、ご了承下さい。」

その瞬間、私は日本語をやめようと思った。私は自分を挑戦するため日本語を選んだのだが、クラスが始まる前に耳に挟んだ話の様子では、既に一、二年勉強したことがある学生が半分以上らしかった。もしそんなクラスを日本語だけで教えられたら、自分が皆のペースに付いて行けるかどうか、疑問だった。

寮に向かいながらしばらく考えたが、すぐに自分を叱り始めた。「これは、今まで大嫌いな高校生活を生き抜くためには必要な態度だったかもしれない。だが、自分の正気を守るために学校関係のことを最小限にとどめるというのは、もう通用しない。義務教育でなく、自分の選択で来た大学なのだから、本当にここに居たいなら、こういう逃避思考の癖は断ち切るんだ。」

次の日は早く起き、ちゃんと朝飯を食べてから授業に向った。C先生は宣告通りずっと日本語でお教えになったが、教科書には所々英語の説明も付いていたので、あまり困難ではなかった。むしろ非常に勉強のためになった。先生は解説が丁寧で、お若い割には教え方が上手だったので、そのクラスはすぐに私の大きな楽しみの一つとなった。

私はいつもC先生のことをちょっと気の毒に思っていた。なぜなら、C先生は若くて、一目で分かる美人だったからだ。そしてアニメ狂のアメリカ人に溢れるクラスを教えていた。

A大学の日本語科は結構有名なものだった。A大学のサイズで日本語科があるというだけでも、アメリカでは稀である。重ねて、優れた教授陣がきちんと指導をしていたのだから立派という他にない。このようにA大学の日本語科は相当しっかりしたものだったが、九十年代からの欧米のアニメブームで日本語の授業にそういう連中が押し掛けてきた。

高校時代の私はいつも大学受験のことを考えて、より難しい選択科目を選んでいた。いくら女狂いの連中でも、先生の容色でクラスを決める者は一人も居なかったように思う。でも今になって考えると、高校では若い先生はあまり居なかったから、そういうチャンスが無かったというだけのことかも知れない。

しかし大学では全く話しが違っていた。A大学では、最初の一週間が「聴講期間」で、その金曜日までに正式な登録を行えばよいことになっていた。だから、登録するクラスが決められない者はその一週間で興味のある授業を訪問してから最終決断をする。聴講期間中の日本語クラスは大変な数の男子学生で賑わっていた。中でもパーティー屋Fという非行少年と源氏というセックス狂が最低だったが、この二人ほどでないにせよ嫌な奴らは他にもたくさん居た。

因みに、当時はRateMyProfessor.comという、学生による教授の評価を見ることが出来るウェブサイトが大人気だった。大学ごとのリストがあって、各教授に電子掲示板がついていた。

こういったサイトは必須の科目で数人の教授がクラスを出している場合などには役に立つかもしれない。無論、これは、真面目な学生が熟考した評価が見られるのだったら、という話である。しかし、RateMyProfessor.comでの評価は全て匿名のコメントによるものだった。そのサイトでは、「授業の分かり易さ」や「課題の量」などに加えて、「セクシーさ」(Hotness)という欄があって、検索するとセクシーな教授の名前には唐辛子が一個、非常にセクシーな教授には二個、と付いて現れるようになっていた。

私の知り合いの中に、このサイトの情報で全てのクラスを選んだ学生が居た。バカにも程がある。閑話休題。

そんな若い男共のヨダレを避けながら、C先生は授業を進めた。在り難いことに、C先生は物凄く厳しかった。遅刻など当たり前という風潮の大学だったが、彼女は怠惰な学生が許せなかった。そして、クラスの人数は時が経つにつれてどんどん減って行った。これは、成績の悪いクラスでも、学期の最後の月の始めにある「撤回期限」までに登録を取り消せば記録に残らないで済むためだった。そこで落とさないで学期末に落第点が付いたら、永久に記録されてしまうし、総合成績(GPA)にも影響が及ぶ。

魔先生・理性主義と経験主義101

アメリカの大学では、二年目の終わりまでに専攻を決めれば良いことになっている。だが私は高校三年生の時から既に哲学を専攻すると決めていたので、早く専門コースをとり始めたかった。それで、普通なら二年生以上の学生が受講する「理性主義と経験主義」というクラスに申し込んだ。

学年制限があったので、前もって教授に許可を得ないと登録出来ない。担当で哲学科長の魔先生のオフィスに入って、妙な気分になった。本がたくさん並んでいた。そう小さくもない部屋だったが、溢れるような量の本のおかげで非常に狭く感じた。それだけのことなら何も変に思わなかったが、私が妙に感じたのはそれらの本のタイトルだった。

哲学関係の本はあまり見当たらず、レイプ防止やセクハラ理論などに関係するタイトルが殆どだった。それはそれで良いのだが、学科長のオフィスともなればさぞかしたくさんの哲学の本があるだろうと想像していた私には、ちょっと予想外の光景だった。

魔先生は哲学者というイメージにふさわしい白髪の方だった。一般的なイメージでは教授の白髪も当たり前かも知れないが、A大学で私が出会った教授のほとんどはまだ30代だった。まだ永久常勤の資格(tenure)がない若い教授連は、教え方がテキパキしている。失礼に聞こえるかも知れないが、魔先生の進み方は、お年なりのペースだった。

面接が始まった。

「なぜ哲学を勉強なさりたいのですか。」

「人間の考え方を勉強したいんです。」

「人間の考え方というと?」

「人間の発想の歴史とか、そういうことです。」

「これまでに哲学の勉強をしたことがありますか。」

「高校の授業ではなかったんですが、政治学のクラスを取ってました。あと、暇なときには哲学の本を読んでいます。例えば『禅とモーターバイクの手入れ』とか。この夏には聖オーガスチンの『告白』を読みました。」

「『禅とモーターバイク』は哲学とは言えませんね。勿論、オーガスチンの方は大丈夫ですが。で、論議の経験はありますか。」

笑いを抑えるのに大分苦労した。「はい、あります。」

「それにしても、哲学は難しいですよ。始めてすぐに止めてしまう人も多いです。」

「私は哲学を専攻にするつもりですから、止めるわけには行きません。」

「それなら、いいですけどね。じゃ、サインしましょう。」

私はこうして「理性主義と経験主義」のクラスに入った。

「理性主義と経験主義」は私が大学で最初の学期に取った中で一番好きなクラスとなった。なによりも、皆が真面目にやっていることに刺激されて学習意欲を高められた。十二人の学生が、一学期間にデカルト、スピノザ、ライブニッツ、ロック、バークレー、ヒュームの名作の抜粋を読んで論議したこのクラスが人生の方向を変えた。

クラスの星はEEさんだった。同じ都市の出身で、聡明な、学生の鑑みたいな人だった。彼女が同郷だと分かった日のことは今でもハッキリ覚えている。その時だけは故郷に誇りを持てたからだ。

しかし、向こうは私のことが気に入らなかったようだ。私が議論を始めると、すぐに私を睨みつけ、時には呆れたように目をグルグル回して見せた。これは私達の政治的見地が違いすぎていたからかも知れない。彼女は根っからの急進的自由主義者で、私は同じ自由主義でもどちらかと言えば保守的な方だった。そして、彼女が私より世慣れていたことも関係していたと思う。

余談だが、私は小学生の頃からずっとこのように考えている。マナーというのは大切なものだ。しかし、理由がはっきりしない規則や「当たり前だから」というだけの規則に関しては、その妥当性を疑ってしかるべきだ。疑わしいと思うものは検討するべきで、その結果として正当な理由が見つけられなかったら、無視しても構わないと思う。例えば、体が不自由な人に席を譲ることは正しいマナーだが、もし誰かがこの規則を疑ったとしても、ちょっと考えてみればすぐに譲ることの正しさが分かるだろう。恩人にはきちんと礼を言わなければならないという慣例についても同様である。こうしたマナーは誰もが守るべきだ。

しかし、女性の厚化粧などは単なる慣習の部類で、決してマナーとは呼べないと思う。綺麗な女は化粧をしなくても綺麗だし、そうでない女は化粧をしたところでそう変わるものでもない。するだけ無駄のような気がする。しなくても良いどころか、しない方がマシかも知れない。自分の見かけを良くする為に毎朝一時間もかけている女など、見られたものではない。その余裕があったら、勉強とか仕事した方が良いに決まっている。

EEさんはメークを使わない方だった。一概に言って、A大学の女性の殆どは化粧に関心がなかったようだ。これはA大学の良い所の一つだろう。そして、アメリカの大学にしては珍しいことに、学生達があまりファッションに踊らされていない。こういう現象は今までA大学でしか経験したことがないが、とても素晴らしいことだと思う。

無論、何事にも一長一短がある。A大学の短所は、シャワーを滅多にシャワーを浴びない者が驚くほど多かったことだ。大学に行くまで、シャワーで体を洗うのは世界的な常識だと信じていた。少なくとも、先進国でちゃんと冷温水の配管がある所なら、当たり前のことだと思っていた。私自身、八月の冒険に参加した時には一度もシャワーを使わずに三週間過ごしたが、これは生まれて初めてのことで、はっきりした理由があってのことだった。

だが、A大学には何十人ものシャワー回避主義者がいた。最初は、こいつらは皆ヒッピーの親に育てられたんだろうか、と思ってしまった。「ああ、水を節約しようって奴らは臭いんだよな」と冗談のように説明する先輩も居たが、私は人の言うことは信用しないタイプなので、その辺で「自然の香水」を漂わせている者に直接聞いてみることにした。

「あ、俺?いや、水が体にかかる感触がどうも好きじゃないんだ。それだけのことさ。」どうも彼は本気らしかった。

これにはどうも納得がいかなかったし、個人差もあるだろうと思って、もう一人聞いてみることにした。

「水の節約とは関係ないわよ。あたしはただ、シャワーが嫌いなの。」

「なんで嫌なんだい?」返事はあまり期待出来なくても、訊かざるを得なかった。

「嫌なものは嫌だってだけのことよ。水が嫌いだからシャワーを浴びないの。分かるでしょ。」

本人達には当たり前でも、私には到底理解出来ない習慣だった。三年間考え続けて、とうとう、三年生の時のルームメートに尋ねた。

「失敬な質問かも知れんが、聞かせてくれ。お前、なんで週に一回しかシャワーを浴びないんだ。」

「別に失敬なことはないよ。ただ、俺は物凄く時間がかかるから、毎日やってたら時間がもったいないだろ。だから、余裕のある週末にしか浴びないんだよ。お前は早いから、毎日シャーワーを浴びても大丈夫みたいだけど、俺はそうはいかない。匂いが気になるって言うんなら何とかしないでもないが。」確かに彼のシャワーは長かった。平均二時間ぐらいだったろうか。

彼らにとっては、滅多にシャワーを浴びなくて当たり前だったらしい。カルチャーショックとでも言おうか、私にはアメリカが以前より広く見えるようになったことの一つだった。

臭い人間が多い一方、化粧した顔が少ないのは有難いことだった。素顔で人前に出るのは良い習慣だと思う。私は、束(つか)の間の美貌を追っている人を見るといつも嫌な気分になって落ち着かないし、決してそういう人を気に入ることもない。テレビばかり見ている人についても同じである。要するに、時間を無駄に過ごしている者が許せないのだ。

まあ、他人がどういう生き方をしようが私の知ったことではない、と言ってしまえばそれだけだが、それにしても、頭を使わないことに時間を費やしている人間を見ると不愉快になることは確かだ。頭の良し悪しの問題ではない。人間は考える葦だという格言の通り、どんな頭でも、自分について最低限考えることをしなくては人間でいる意味がないだろう。

個人的には相容れなくても、EEさんは私にとって大切な存在だった。彼女の手本がなかったら、私は学生として駄目な人間になってしまったかも知れない。

魔先生の教え方はお世辞にも上手いと言えるものではなかった。最初の授業はこういう調子で始まった。「私はこの時代の哲学者はあまり好きではありません。人類の思想が古い昔の西欧系のお爺さん達の考えだけに代表されているというのは不平等な話ですから。しかし、彼らが歴史的に重要な思想家であることは確かなので勉強しなくてはなりません。とは言っても、結構好きなんですけどね。実は、昔パソコン関係の仕事をしていた時にこの哲学者のお爺さん達に出合ったのが、哲学を研究する契機になったんです。」論理学を教えていらしたのだが、先生の論理能力がたまに気になるようなこともあった。

魔先生の授業で、初めて本物のPC病に出くわした。その学期、他のクラスではPC病を見かけなかったのに、この、最も古い学問である哲学のクラスが感染していたのは不思議なことだった。高校を出たての私としては、せめて哲学は機械に免疫があるだろうという印象を持っていたのだが、少なくともA大学ではそういうことでもないらしかった。

魔先生はディスカッションの指導があまりお上手ではなかったが、クラスでの論議はうまく進んだ。特に楽しかったのは、週一度の班に分かれて行う論議だった。「理性主義と経験主義」は四単位のクラスだったが、一単位あたり週一時間という計算では四時間やる筈の所に三時間しか授業がなかった。残りの一時間は十二人の学生が三つの班に分かれて話し合いをすることになっていた。実は私にはこちらの方が授業らしい授業よりも興味深かった。

私はEEさんとJ君と赤髭の山男と一緒の班になった。半メートル程の赤髭を生やした山男も、八月の冒険の経験者だった。専攻は宗教で、牧師を目指していたらしいが、どうもまだまだという感じだった。酒が大好きな上、日本に留学中、他のA大学の学生達と一緒に公園で大きなたき火をして逮捕されたこともあったそうで、強制送還は免れたものの、相当な騒ぎだったらしい。

J君はアフリカからの留学生で、専攻ではないにせよ哲学に深い興味を持っていたようだ。あまり話さないタイプだったが、たまに誰よりも鋭いことを言った。

全員がしっかり課題をやってくるクラスだったので、これでやっと学ぶということが当たり前の世界に辿りついた気分だった。後になってみればこれもまた私の勘違いに過ぎなかったのだが、当時は物凄く嬉しかった。これからのクラスが全部このように進んでくれれば何の問題もない、と思った。

学期の半ばに、各班がクラス全体を相手に一回ずつ授業をする段階に入った。私達の班はロックの「人間と動物の違い」についてのディスカッションを指導することになり、授業の計画を立てるために集まった。私達が指導することになっていた課題の最初の一節は、「Brutes abstract not.」(動物は人間と違って、抽象的に考えられない。)だった。普段は真面目にやっていた私だが、この文章に出くわした途端に集中が効かなくなってしまった。ロックのあまりにも古めかしい言い回しに加えて、「brutes」というのを想像するだけで可笑しくてたまらなかった。これは私だけではなかった。J君も「brutes」という言葉を読もうとする度に笑ってしまった。そして笑いは赤髭の山男にも広がった。EEさんはイライラした声で私達を叱りつけた。「貴方達、ちゃんとしてよ。もうそんなに時間がないんだから。」

しかし、そう言う彼女も結局笑ってしまった。

学期の成績は出席率、レポートが四本、そして班の評価の合計で決まることになっていた。二番目の、スピノザについてのレポートを提出した時のことである。長さは五ページから七ページという規定だったので、五ページ書いたのだが、先生の返却コメントには「次回はもう少し書いた方が良いでしょう。議論の展開にそって、出来るだけ詳しく書いて下さい。」とあった。

次のライブニッツについてのレポートは八ページから十ページと指定されていたが、出来るだけ詳しくという先生の言葉を真に受けて、二十七ページに及ぶ怪物を書き上げた。それを提出しに行ったら、「何これ?」と聞かれた。

「私のレポートです。よろしくお願いします。」

これは内容的に自信があるものだった。私にしては珍しく、皮肉なことは全く書かなかった。二十ページを超えるとなると、結構時間がかかる。だからこそ、先生はその努力を認めて褒めてくれるに違いない、と素直に信じていた私は単純そのものだった。

結果としては、Bの評価だった。先生の説明はこうである。「確かにもっと長くとは言いましたが、ここまで長くなるとレポートというより論文に近くなってしまいます。内容的には A ですが、長すぎるのでBにしました。全部読むのは面倒なので、勘弁して下さい。規定要項に示された範囲を守るように気を付けて下さい。」先生の手書きを読みのに大分苦労した。

若気の至りの失敗だった。なによりも、「読むのは面倒」という言葉に傷ついた。興味深い議論を書いたつもりだったのに、「面倒だから勘弁してくれ」と片付けられてしまったら、元も子もない。「内容的にはA」はまだマシだとしても、それなら読むのが面倒と言うことはない筈じゃないか、とも思わざるを得なかった。

レポートを返却するのに六週間以上かかる方だった。最後のレポートは次の学期になってから返すとおっしゃったので、二学期の十二週めになって取りに行ったら、「あら、無いわ」だった。レポートが自分で勝手にどこかに行ったはずがないと思うのだが。

どうしてそんなことになったのかは覚えていないが、なにはともあれ、魔先生はその後私の指導教官になった。

昔々の日本の話

日本文学のクラスでいつの間にかD君と親しくなった。D君は背が低く、女性が大好きな上、勉強に集中出来ないタイプだったが、いつも誰よりも元気で、要領が悪くても憎めない人だった。

D君の高校時代の趣味も映画製作だった。入学してから一ヶ月位のある日、彼は「一緒に映画を作ろうよ」と提案して来た。私はとりあえず賛成したが、D君はあまり本気ではなさそうだった。いや、本気だったが、D君の本気は普通の人のとは違っていた。

そのクラスは午後一時からだったので、私はいつも早くランチを食べて、クラスの十五分前には教室に入った。一方, D君はいつも遅刻ギリギリか明らかに遅刻という調子だった。ギリギリに飛び込んで来た日は私の隣に座る習慣だった。授業では色々な討論が行われたが、私の記憶している限りでは彼が課題をやって来たためしは無かった。そして、クラスが終わるといつも違う女性と出て行ってしまう。そうやって気ままに遊んでいる風だったので、彼がいくらクラスで熱心に発言していても、私にははったりのようにしか見えなかった。

それでも、映画を作りたいと思った。もう大学生なのだから、内容に関して学校の規則を気にする必要も無い。こう言うと変に聞こえるかも知れないが、当時の私は法律さえ守れば、問題にはならない、と思っていた。わざわざ悪質な映画を作るつもりだったわけではなく、単に、私は小さい頃からどちらかと言うと下らない話の方が好きだったということである。これは、ただ説教をするよりも下らない話を通してメッセージを伝える方が、優れた手法だと思うからだ。哲学者に例をとって言えば、私はカントよりニーチェを好む。

私は色々な映画を想像してみた。当初の目的が単に「映画を作る」ということだったので、可能性が広すぎて、六週間かけてもなかなかこれという筋も思い当たらなかった。高校時代に作った映画の事を考えてみると、その殆どはスペイン語のプロジェクト(私のスペイン語クラスは試験の代わりに自主プロジェクトをすることが出来る制度だった)だった。今度は日本文学入門のクラスで知り合ったD君となので、ある日、「忍者の映画はどうだろう」と提案してみた。彼は、一つだけ条件を付けてきた。忍者だけでなく、侍も入れなければならない、と。

その日の授業が終わった所で、「忍者映画を作るために俳優を募集します。参加したい方は、どのような役割(悪人、善人)、それから主役・脇役のどちらかを選び、私達までメールを下さい。」とクラスの皆を誘ってみた。私達が決めたやり方では、脚本を書いてから俳優を募集するのではなく、それぞれの人に合わせた役を書き上げるということが強みとなっていた。そうでもしなかったら、絶対六週間で白紙から始めてDVDを仕上げるなどということが出来るものではない。

その次の水曜日の昼には、D君と一緒に脚本を書き上げることになった。「一緒に」とは言ったものの、D君のことだから、彼は二時間遅刻して来た。非常に悲惨な日だった。ずっと雨が降っていて、もう太陽がこの宇宙から去ってしまったような感じの日だった。

D君はようやく私の部屋に現れたが、私が既に一人で脚本を始めていたことに気付くや否や、侮辱を受けたように怒りだした。やはりD君は天気によって性格が変わるような男だった。普通なら私も友人としてもっと気を配るべきだったが、この時は一学期の期末試験までたったの六週間しか残っていず、翌日から撮影を始めたとしても間に合わないかも知れないという所だった。だから、共産主義でやって行こうなどといっている余裕はなかった。私のこういった説明で、D君もすぐに納得してくれた。

そうして、たったの四時間で脚本を書き上げた。

筋はごく簡単なものだった。先生から刀を守る使命を受けている三人の侍兄弟が大学のパーティーに出席する。そこで、酒を飲み過ぎて、背が低い忍者に刀を奪われてしまう。前年大ヒットした『臥虎藏龍」のように、寮の屋根から屋根と飛んで逃げる忍者を追いかけるが、忍者は三人の追跡を逃れて『消しゴム』という悪玉に刀を届けることに成功してしまう。三人の侍は先生に叱られて、刀の歴史を聞かされる。話が盛り上がって、興奮した先生は心臓発作で倒れてしまう。先生は誰に殺されたわけでも無いのだが、それでも侍兄弟は復讐を誓い,消しゴムと対決に向う。消しゴムの居る公園へ途中で浪人に逢う。偶然にも彼もその刀を探しており、彼らに自分の生い立ちを語る。このシーンは余計だったが、『マトリックス」のような背広姿のクローンの戦いを見せることに挑戦してみたかった。そして、正念場に入る。三十人を超える敵との乱闘の末、浪人と消しゴムが向かい合い、刺したがえて死んでしまう。フェードアウト。三人の侍はベンチに座って、次の冒険に話し合っているうちに、一番酒好きな兄弟が「この刀を、先生の所に持って帰ろう。きっと喜ばれるぞ。」と言うと、もう一人が「お前、覚えてないのか。先生は亡くなられたんだよ。」と遮る。そして「ああ、そうだった。悲しいな。しょうがない。飲もう。」で終わる。四時間で書ける脚本としては、まあ、こんなところだろうか。

実際に映画を作るのには大分苦労した。まず、私はまだ日本語を始めてから二ヶ月半でしかなかった。D君も、高校で二年間勉強してきたといってもまだ同じクラスのレベルだったから、大した知識は無いようだった。だから、私達の書いた脚本をC先生のところへ持って行って、翻訳をお願いした。先生は初め妙な顔をなさったが、それは私達の日本語があまりにも下手だったので通じなかったからかも知れない。「映画を作りたいのですが、翻訳をお願い出来ませんでしょうか」などと言ってくる学生が毎日居るわけがない。しかし、結局先生は私達の夢に翼を付けてくれた。

でもそれからが大変だった。日本文学のクラスから募った俳優の半分ぐらいは、日本語を一切知らない学生で、勉強している者でも、大多数は私と同じように二ヶ月ちょっとの初心者だった。そんなわけで、発音は通じないぐらい下手だった。彼らの発音を上達させる為に一応私が指導しようとしてみたが、自分も下手だったので、一学期の終わりまでに発表するのが目的なら、仕方がないと思い、諦めた。

今になってその映画を見てみると、苦笑いせざるを得ない台詞ばかりだが、たまに面白いのも出て来る。例えば、先生役の学生が刀の歴史を語っているシーンで、「刀」が「かたな」と発音されているのは三割くらいで、あとは「カタカナ」になってしまう。映画をご覧になった後で、C先生はこうおっしゃった。「よく頑張りましたね。感心しました。でも、この次は、もっと日本語の言葉に気を付けてください。」 その通りだ。

この映画を作る上で問題になったのは言語ばかりではなかった。脚本を書いた時には当たり前のように色々な特撮を使うことにしたのだが、実は私は特撮の技術に全く疎かった。撮り始めた時点では、グリーンスクリーンという物の名さえ知らなかった。だから、最終的に屋根から屋根へ飛ぶシーンや、数十人のクローンと戦うシーンが出来たのは、奇跡としか言いようがない。

D君とAエージェントからグリーンスクリーンのことを聞いてからインターネットでちょっと調べて、スーパーでそれ用に張り紙を十六枚買って来た。配管修理に使う強いテープで張り合わせて、夜になって誰もいない教室の壁に貼付けた。どうやって付けたかはあまり話さない方がいいだろう。

その背景で、一時間かけて、クローン役のAエージェントと浪人の戦闘シーンを撮った。早速パソコンで編集にかかった。優れた機能のソフトのおかげで、緑色を消すのはごく簡単で、三時間位で何とかなりそうだった。ただ、照明が良くなかったから、全部綺麗に消すことは出来なかった。それは、撮ったビデオに照明が不規則だったからだ。まともな照明をするにはそれなりの投資が必要なのだが、予算は百ドルくらいしかなかった。そもそも私がバイトで稼いだ金だったから、出来れば予算ゼロでやりたいくらいの所だったのだ。D君は大金持ちらしかったが、自分も金を出そうと言い出してくることは無かった。

屋根から屋根を飛ぶシーンはもっと大変だった。全身を映す必要があったのに私が作ったグリーンスクリーンが狭かったことに加えて、教室ではなく食堂の別館で撮ったので照明がますます悪くなってしまった。その上、合成画の背景に使う場面を撮る時に三脚を使わなかった。これは失計としか言いようがない。

私が当時ビデオ編集に使っていたのは12インチのパワーブックG4で、合成画を完成させるのにずいぶん時間がかかった。例えば、この二分間の屋根上の追跡シーンをゲラ上げするのに、二、三時間は必要だった。これに時間を取られた関係で、もっと色々な技術を駆使して微妙な編集をしたくても、そこまで手が回らなかった。そうは言うものの、私はもともと撮影技術よりも脚本に拘るタイプなので、たとえ今のような合成画を一瞬に完成出来るパソコンが有ったとしても、出来上がりの質に大した変わりはなかったかも知れない。

全部で十シーンあるうち、D君が監督したのは一つで、最終シーンを一緒にやった以外、あとは全て私が一人で取り仕切った。初めに共同監督としてやっていこうという考えに賛成したことは確かだが、私の想像したとおりの結果になってしまった。しかし、これは私がD君に失望したとかいうことではなく、ただ、イライラしたということだ。私はD君を、映画を完成させるのにかけがえの無い支えと思っていた。だが、しばらくしてD君の方から「俺の役割は、何でお前の半分なんだよ」と聞いて来た時にはさすがに頭に来て、爆発してしまった。

「そんなこと言って、いつもちょっかいを出してるじゃないか。なんで監督の仕事が足りないと思うんだよ。」

「お前は最初から俺をのけ者にしてるだろう。」

「何言ってやがる。お前は最初から遅刻だっただろ。俺はただ、今学期中に終わらせたいんだよ。それも分かんないのか。」因みに、いつも授業に遅刻している 学生が、必ずしも映画作りに不真面目だとは限らない。俳優をやっていた者達の殆どは学生として不合格だったが、撮影には皆ちゃんと時間どおりに現れた。だが、それはおそらく、そうでない者を首にしたからだろう。考えてみれば、教授も同じように生徒を選別した方が良いかも知れない。

「お前は最初から俺のアイデアなんか必要ないみたいに振る舞ってるじゃないか。」まあ、これはまんざら外れでもなかった。

「私だって一人でやりたかったわけじゃないぜ。お前がズルして、自分の分をやらなかっただけだろ。それでこうなったんだよ。」

ここで、とうとう彼の本音が出て来た。「俺は一緒に編集したいんだよ」

「いや、それは無理だ」

「なんで」

「編集は一番重い責任だからさ」

「だから一緒にやろうって言ってるんじゃん。」Dくんは、怒ると声が女みたいに甲高くなる癖があった。

「駄目だ。私はもう最終版に入ってるんだし、無理だ。」

「そんなこと言わないで、頼む。俺にも仕事をくれよ。」

映画を作っている間に、こんな議論を何回も繰り返した。実はこれは最終的なケリがつくまでに三年かかる問題だった。

大詰めのシーンを撮影する前日に、日本文学の授業の後でちょっと打ち合わせをした。「明日で最後のシーンだから、皆、迫っている期末試験に負けないで頑張ろう」などと、適当にキャストを励ました。D君もなかなかうまい言葉で彼らを応援してくれた。

そろそろ解散にしようかと思っていた所へ、突然主役から質問が出た。

「監督、明日は何か準備した方がいいですか。持って来て欲しいものとか、有りますか。」

ああ、彼は何と立派な俳優だったか。私は冗談まじりで答えた。「まあ、忍者スーツがあればこしたことはないが、それ以外は大丈夫だろう。武器はもうエージェントAが揃えてくれてるし。」アメリカで自分の忍者スーツを持っている人間なんて、そうざらには居ないだろう、と思っての発言だった。

「あ、それなら簡単だよ。忍者スーツなら二着持ってるから。」と彼は答えた。

「何?それなら私も持ってるから、着てもいいわよ。」と女優の一人。

「ああ、俺も持っている。」ともう一人の俳優。

「忍者スーツ?もっと早く言えば良かったのに。俺も二着持っている。」とD君。

これにはまいった。そこに居た七人のうち、四人が忍者スーツを持って大学に来ていた。武芸をやってる者も居ないのに、一体いつどこでそんな物を仕入れたのだろう。聞きたいことはたくさんあったが、時間もなかったので「じゃ、明日は忍者スーツで頑張ろう。」としか言えなかった。A大学が増々おかしな所に見えて来た。これでは米国の「変な大学ベストテン」に入るのも無理はない。

翌日の土曜日は、朝飯をしっかり食べてから撮影に入った。食堂のすぐ近くで撮影したので、寝ぼけマナコの学生が数人うろうろとしながら見物していた。勿論、カメラを見るや否や足早に通り過ぎようとするパラノイアみたいな学生もいたが。私はどちらのグループもあまり気にしないで、撮影に集中した。

しかし、いくら私が働くことが好きでも、キャストの方をたまには休ませないと反乱が起こることになるのは分かっていたから、時々休憩をとった。カメラを止めた所へ、後から声がかかった。「もう少し役者が要る?」振り向くと、私の寮に住んでいる学生が男女二人並んでいた。廊下で挨拶を合わす程度の顔見知りに過ぎなかったが、映画に出演したいというならこっちが困るわけでもない。

だから「ああ、良いよ。台詞はないが、台詞は無いけど、アクションなら歓迎だ。適当に暴れてくれ。」と答えた。

女の子の方がチェシャーキャットのようにニコニコした。「じゃ、ニコニコして「わあ、嬉しい。忍者スーツを取りに行くから、ちょっと待っててね。」と言ったかと思うと、彼の手をとって寮へ向って走り出した。

衣装まで持って来たのはその二人だけだったが、結局その日の撮影には十五人ほどのエキストラが参加することになった。武器も色々なものがあって、50の拳に加えて、ゲームのコントローラーが一個、オレンジが二つ、本物の六尺棒が一本、竹刀(しない)が三本、そして本物の刀が二本出て来た。あるトルコ人の留学生は興奮のあまり、寮の建物によじ上って二階から戦いのまっただ中に飛び込むという離れ業をやってのけた。コンクリート舗装の戦場だったから、彼が無傷で済んだのは全くの幸いである。因みに、A大学はアメリカでも珍しい「国際平和研究」という専攻があるような大学で、今考えてみると、忍者スーツよりもこういった本物の武器が出て来たのは妙なことだと思う。しかし何故か、当時はあまり気にならなかった。

大した理由も無く映画を作りたがっていた自分のことを棚に上げて言うのもなんだが、「A大学の学生は、一体どうなってるんだろう」と思うことが何回もあった。何故ああも変な行動に偏っていたのか、さっぱり分からない。

A大学にはちゃんとした劇場がなかったので、映画の公開にはプロジェクターが揃っている理科学部の講義室を使った。初日は想像以上の入りで、百人強の定員のホールに空席はそう多く残らなかった。そして映写中は爆笑の渦が続いて、馬鹿馬鹿しい映画に相応しい雰囲気だった。実を言うと、皆がジョークに反応して笑っているのかそれとも映画の質があまりに酷くて笑っているのか、私にははっきりしなかったのだが、たった35分の、芸術のために作ったわけでもないコメディーとしては大成功だと思えた。

観客の興味を引っかかった映画の運命は、十分見られたあげく、その交際から続きが生まれることだ。

私が政治家になった日

九月中旬に学生委員会の選挙が行われた。私は高校時代に何度か生徒会長選に挑戦したが、いつも学校で可愛い優等生の女の子に勝利を奪われた。最後の年にはギリギリの差で負けたのだが。初恋のことは後で書くつもり。

A大学では、各寮から二人ずつ代表者が選ばれることになっていた。他の寮の人口は平均200人位だったが、私の安モーテルのような寮には90人しか住んでいなかった。そんなチンピラの巣からも、代表者を二名出すことになっていた。まあ、アメリカの政府に基づいた学生委員会だった。

私は何も考えずに冗談のつもりで早速キャンペーンを始めた。公約はたった一つだった。「俺が当選したら、何もしない。俺は学生委員会は何もしない方が良いと思っているからだ。よろしく。」そして、芸術のセンスが皆無の自分には格好いいと思えた張り紙やチラシをたくさん印刷した。こういった印刷料は学費に含まれていたから、当時の私はそのお金を無駄にせず活用するに超したことはないと思っていた。

冗談のつもりだったが、私の寮では候補者が二人しか出なかったので、結局当選してしまった。

そして代表者の義務として一泊二日のワークショップに行かなければならないことになった。それは年間の活動予定を立てるためのワークショップだったのだが、私は「何もしない」という公約の下に当選したので、「何か提案はありませんか」と聞かれても、「いや、一つもありません。実のところ、私は、何もしない方が良いと思っています」と言うしかなかった。

同じテントで野宿したことのあるマリアも学生委員だった。しかも、山登りの時と同じように、リーダーになっていた。彼女は私を見て最初は笑ったが、私の発言を聞いた瞬間しかめっ面をした。同郷の美人を敵に回したくないとは思いつつ、私は自分の舌を抑えられなかった。よくあることだ。

他の委員達も一応うわべだけは真面目な顔をしているような人ばかりだった。だから私がいくら「何もしないと公約した」と言い張っても、聞き入れてくれなかった。当たり前のことではあるが、これは民主主義の妙なところではないだろうか、と思い始めた。一般の政治家は公約など守ろうともしない。そして、私のようにちゃんと自分の公約を守ろうとする者は爪弾きの運命に遭う。

まあ、私の態度の方が悪いというのは確かだ、とは思っても、生来の気性はそう変えられるものでもない。本当は学生委員会になど参加したくなかったということもあるが、それ以上に、公約を守りたいという気持ちが強かった。幼児的な考え方だと言われれば否定も出来ないが、当時の私は何事に付け約束は守るべきだと信じていた。私はHに裏切られて以来増々強くそう思うようになっていた。

「皆と一緒に学ぼう!」と彼女は吐き出した

一学期の授業の殆どは夢のようだった。教授が堪能な上、物知りの同級生が多く、ようやく知識の楽園に辿り着いた気がした。しかし、この楽園でさえ、既に有害な薬剤が導入され始めていた。

大学のオリエンテーションの一環として一年生に必修だったのが、左翼思想の流行の先端を行く「皆と一緒に学ぼう!」というあまりにも間抜けなタイトルのクラスだった。

このクラスに関連して、入学する前の夏に宿題があった。日本の学校では夏休みに宿題があるのが普通らしいが、アメリカでは夏休みに宿題をやらされるのは落ちこぼれだけだ。

だが、まあ良かろう。真面目な大学に行くのだから真面目にやらなくては、と自分に言い聞かせた。それに課題はジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読むというものだったから、この興味深い作品を使う授業なら「皆と一緒に学ぼう!」というタイトルにもかかわらず大丈夫ではないか、と思った。

しかしながら、結局このクラスは、私に大学を辞めるべきかどうかを検討することを余儀なくさせるほど低質のものだった。冬休み中に熟考した結果、辞めないことには決めたものの、まったく酷い経験だった。

この馬鹿みたいなクラスは丁度その年から新規に設けられたもので、私達はいわば実験台のモルモットだった。私のそれまでの学校生活で既にお馴染みのパターンである。

それまでの一年生必修のクラスは、各教授に15人位ずつ学生がついて一緒に五冊の本を読むという形式で、その五冊の中一冊は個々の教授が選び、あとは学年共通ということになっていた。

教授達は全員これをやらされたので、どうしても自分の専門分野以外の話題を教えることに戸惑ったり、子供のようにお手上げになるケースも多かったらしい。そういうことで、制度の「改革」が求められた。

新制度の基盤となったのは、教授連以外の大学職員に新入生を指導させようという「名案」だった。

要するに、食堂のマネジャーとか、心理カウンセラーとか、宗教顧問などが「先生」の名を借りて教壇に立つ、という訳の分からないデタラメな話だった。

因みに、当時のA大学の授業料は一単位あたり800ドルで、私が始めて買った車より高い値段である。

ミルの『自由論』については、ちょっと難しいテキストだったから、授業担当の職員も他の新入生達もあまり読んで来なかったようだ)

ともかく、授業が始まった。私の当たった「先生」は学生擁護関係の人だったと思うが、今では詳しく思い出せない。彼女の初日の発言はこうだった。

「皆さん、もう『自由論』は読まれましたね。今日はちょっとだけその話をして、次回から教科書に入りますから、買っておいて下さい。」

その教科書というのはプリンストン大学出版社発行の『大学生活入門』という白痴的な怪物だった。こんなものが生まれることもあるから、妊娠中絶の合法化が必要なのだ。

この本のことを思い出すだけで、今でも怒りを覚える。「新聞記事は、大抵見出しから始まります。」とはどういう文章か。馬鹿にするのもいい加減にしろ。

著者と、A大学でこの本を教科書に選んだアホな連中に直接聞いてみたかった。「我々学生達をどこまで痴呆扱いすりゃ気が済むんだ。」

そう文句をたらしたら、A大学信奉者達にこう言われた。「そりゃあ、大げさですよ。文脈の問題だし、誰も貴方を馬鹿にしてなんかいませんよ。貴方の方こそ、そういう態度は改めるべきです。」

しかし、「じゃ、読み手が馬鹿にされてると思わないような文脈を作ってくれませんか。出来たら、100ドル払ってもいいです。」と言い返したら、誰も挑戦に乗って来なかった。

このアホが書いた本からの抜粋をもう一つ披露しよう。「大学とい
うのは、貴方がご両親から離れ始める時期です。寮に住んでいても、毎日御両親と一緒に暮らしていても、貴方と御両親の関係は、おそらくいつの間にか変わって行く筈です。」

この本の感じをお分かりになって頂くにはこれで充分だろう。いくら何でも、A大学は新入生にこの本が必要なほど駄目な大学ではない。アメリカの大学の中では、上等な方である。

もし大学生にもなってこの本が必要だという人が居るとしたら、無駄な夢を捨ててバイトでもして生活するほうが良かろう。小学生でも分かる内容である。年上の兄弟が居なくても、大学に行く頃には親離れをするものだというのは、いつも素晴らしい真実を報道しているテレビからでも学べることだ。

800ドルの授業料を払ってこれでは、困惑しない者は居ないだろう。果たしてその通りで、全然課題をやって来ないような怠惰な学生の間でも、この「皆と一緒に学ぼう!」のクラスには不平の声が絶えなかった。

一学期の幕が閉閉じたところで、礼拝堂の裏でA大学150余年の歴史上初の焚書が行われた。地獄の炎に飲み込まれて行ったのがどの本だったかはあえて書く必要はないだろう。

しかし私は、生来の放火狂であるにも拘らず、このゴミ焼きに参加することを差し控えた。それどころか、問題の本を実家へ持ち帰って金庫にしまった。過ぎた過去の犯罪を忘れようとするのは良くないと思ったからだ。インチキな連中の愚行から生じた惨事を水に流してしまったら、人生の意味なんて無いじゃないか。人間は、動物と違って考えることが出来るからこそ人間なのだ。とは言っても何も考えていない輩も多いのだが。ともかく、馬鹿に踊らされて付いて行く者は、当の本人よりも更に愚かである。

そういうことで、その本は私の宝物になった。こんな悲劇の種でも、埋めて育てる義務はあるだろうと思った。すぐに枯れるだろうから生を与えない、という価値判断は神様にしか無い権限ではないか、という理論である。私はその頃既に無宗教のつもりだったが、まだまだカトリック教思考の癖から抜けていなかった。

冬休み

やっと冬休みになったが、丁度学期末に『昔々の日本の話』の映画が出来上がった興奮で、あまりキャンパスを去る気がしなかった。しかし、休みの間は留学生以外は寮に居残れない決まりだったので、仕方なく実家に帰った。

高校生の時は母の家の地下の部屋に住んでいた。私が大学に行ってからは妹がその部屋に移ったが、けっこう広い部屋だったので、三分の一はまだ私のスペースということになっていた。

だが、元の自分の部屋に足を踏み入れた途端、壁の隅々まで女の子っぽい絵で覆われているのに驚かされた。それだけならまだしも、自分の机の椅子にもペンキがベ
タベタ付いていることに気が付いた。

追い掛けて来た妹は微笑んだ。「兄さん、どう?私が描いたのよ。上手でしょ。兄さんの方は、兄さんの好きなものばっかりよ。」そう言われて見ると、私の側には、
仏様、蛙、スターウォーズ、金魚などが並んでいた。今になって考えてみるとそう突拍子も無い発想でもないのだが、椅子に垂れたペンキのことしか頭に入らなかった当時の私は兄失格だった。

「どういうつもりだよ。」はっと気付くと、私の本棚に開けっ放しの化粧品がバラバラ置いてある。大切な本を押しのけんばかりに。そして、蝋燭の匂いがした。「
お前、蝋燭か何か燃やしたのか。」

「うん。お母さんが良いって言ったから。」

その後のシーンを思い出すと、正直な所、ちょっと後悔せざるを得ない。今思うと、私はあまりにも幼稚だったし、まだ子供だった妹に罪は無かった。ただ、当時の私は、まだ自分の領域を守ることに精一杯だったのである。

頭の中で赤信号が点滅し始めた。夏休みに帰省する時には、もっと大変なことになるのではないか。一旦家を出たら、そう簡単に元の生活には戻れないというのは本当だった。しかし、夏休みのことは先の話だ。

変人だと呼ばれたことは星の数ほどあるが、中でもよく言われる理由は私が「ホームシックにならない」からだそうだ。自分でもこれは妙なことだと思う。回りの人々は皆「寂しい」と言うのに、なぜ私はそう感じないだろうかと考えたことは稀ではない。

しかし、これにはちゃんとした理由がある筈だ。一つには、両親には大変悪いが、私の育った家庭環境はあまり良いものではなかった。父も母もそれぞれ頑張って自分なりの形で愛を込めて育ててくれようとした。だが、これは上手く説明出来ないのだが、その愛の形が私には向いていず、かえって物凄い抵抗を引き出す結果となった。これは単に私の反抗的な性格のせいかも知れないし、理想主義のあまり周囲の人間がすべて落第者に見えたのかも知れない。まあ、これはこれで説明として筋は通る。しかし、私がホームシックというものを知らない理由は、他にもあると思う。

小学校五年生の私がボーイスカウトのキャンプに行った時のことである。一週間のキャンプで、二日目にもなると殆どの子が「お母さんやお父さんに会いたい」などと幼稚園児のようなことを言い始めた。私はそんなことは感じなかったし全然家へ帰りたいとも思わなかったので、反対に帰る二日前から気が滅入って来た。私は家族を愛してはいるが、正直、あまり会いたくはない。

幼稚園の先生をしていた母に言わせると、たいていの子供は初日に母親が部屋を出る時に泣くものらしい。だが、私は部屋に入った途端に「ママ、大丈夫だよ。すぐ帰ってよ。」みたいなことを言ったそうだ。自分ではあまりはっきりした記憶も無いのだが。確かに幼稚園時代の思い出と言えば全て他の子供とやったことだけで、母には悪いが彼女のことは何も覚えていない。

家族に対してだけでなく、私は一概にあまり「人寂しさ」というものを知らない。いつも会っていたいという気持ちになった相手は今までの人生でたった二人しかいない。勿論、この二人は愛した恋人だった。だが、彼女らと別れた後で「空しい」とは感じても、あまり「寂しい」とは思わなかった。

空しさは寂しさとは別物である。どう違うかというと、後者が「相手が居なくて悲しいから帰って来て欲しい」という感情であるのに対して、前者は「出て行った者は仕様が無い。戻って来て欲しいとは思わない。」という諦めの姿勢の悲しみだからだ。これが私には最も相応しい姿勢なのだろう。

私のこういった態度は私の強い好奇心にも関係があると思う。新鮮なことにしか興味を示さず、月並みになっ
たものにはすぐ飽きる。だから次を探すしか無い。これは、私自身が思うには、移り気ということではない。私は何事に関しても表面的な知識では満足出来ず徹底的に調べるタイプなのだが、ただ、その底が見えた途端に興味が消え失せてしまう。そうなると、もう分かったから次に進もう、という気持ちが抑えられない。)

だから次の話に移りましょう。

編集者の頃

せっかく大学に来たからには、高校時代と違った趣味を始めようと思った。高校ではずっと生徒新聞をやってみたいと思っていたのだが、指導担当の先生はセクハラをすることにしか興味の無いようなスポーツ狂で、記者連も気に食わない奴らばかりだったので、参加しなかった。(因みに、この教師は私が卒業してから数年後に、ある生徒と関係を持ったことが明るみに出て辞めさせられたそうだ。)

A大学の新聞は全て学生によって制作されているということだった。本当にそんなに自由なら悪戯し放題ではないか、と最初は思ったが、真面目にやることに決めた。記者になるつもりで説明会に行ったのだが、編集者を探しているという話だった。当時の私は権力に憧れていたから、何も考えずに早速申し込んだ。今になって考えると、私が大学で最初の一学期に学んだ主な教訓は「よく考えてから申し込むべし」ということだった。。そんなことは常識だと言われるかもしれないが、私は直接経験を通して常識を身に漬けなければならない性格なのである。

面接には五人の応募者のうち二人しか現れなかったので、そのまま私とKが採用されたKは中西部の出身だがバレーガールのような口調で、ロリコン目当てみたいな格好をした女性だった。編集者には相応しくないタイプだと思う方も少なくないだろうし、正にその通りだった。

ニュース面のになったというものの、それまで新聞を読んだことのない私は出版の知識が全く無かった。肩書きから察するに、相当自由に出来るものだろうと思ったのだが、これは大変な誤解だった。

編集長が私とKに告げた。「残念ながら、去年の記者は殆ど全員辞めてしまったんだ。だから募集しなくちゃならん。君らに期待してるよ。友達とか集めて、記者にしてくれ。」

ピカピカの一年生を相手に「友達とかを記者に」とはよくも言ったものだ。これなら、編集を任せるというのも頷ける。

副編集長は私達に前年の記者のリストを渡してこう言った。「あまり有能な連中じゃないけど、何とかなるかもね。」既に編集長の言葉にうんざりしていた私だが、彼女の嘲るような調子が可愛くて、つい「はい」と答えてしまった。

私はたまに信じられないぐらい女性の前で弱くなることがある。こういう「嘲る可愛さ」はあまり自分のタイプではないと思っているのだが、同時に、女性はどちらかと言えば世を馬鹿にしている位の方が望ましいと感じている。それは、妙な言い方になるが、「幸せ」な人間と一緒に暮らしても意味はないと考えるからだ。別に鬱病が好きという訳でもないのだが、個人的にはディズニー式のハッピーエンドより怖いものは無いので。

状態は早急に悪化し続けた。その昼、Kからメールが届いた。「あたし、忙しいの。記者集め、一人でやってくれる?よろしくね。」共編集者なので、私に指示をしたがる。Kが彼女の「忙しい」は、いつ付いたか知らないが男を断れない癖のせいでしかなかった。

私は七人の元記者達に電話してみた。最初は七人だからラッキーナンバーかも知れないと思ったが、そういう訳でもないようだった。四人は何度かけても繋がらなかった。もう一人はネットで調べて、転校してしまっていると分かった。もう一人の男性は私が「新聞」という言葉を口にした途端に、「興味ない。二度と電話するな。」と遮った。最後の女性は、始めの電話で「いいわよ」と言ってはくれたものの、それ以降消息を絶ってしまった。

実は、この記者探しは私の編集者としての仕事の中で一番簡単なことだった。

毎週月曜日に編集会議があった。最終稿の提出締め切りが水曜の夜だったので、草稿は月曜日までに書くことになっていたが、私の経験ではその時点で二割くらいしか出来上がっていないのが普通だった。

美術面やスポーツ面の編集者は自分の判断でトップ記事や見出しを決める権限があったようなので、私もそう出来るのかと思ったが、これはどうやら誤解だったようだ。何と言ってもニュース面は新聞の顔だから私のような素人の手に任せる訳には行かないとかいうようなことを言われたのだが、それなら何故私を編集者に採用したのか全く理解出来なかった。

記者があまり見つからなかったので、私は自分で記事を書き始めた。新聞は学生達の自己管理のクラスだったから、一単位しかもらえない。必要条件としては記者なら一学期に最低八本の記事を書くことになっていた。編集者については、当然の義務である編集の仕事に加えて記事を四本書けばいいということだった。しかし、私はその学期に十四本の記事を書き上げねばならなかった。

記事のテーマを選べなかったことが状況を更に苦しくした。今の私だったら即座に辞めるところだが、当時は大学の登録取り消し手続きが分からなかったし、まだまだ馬鹿な希望も抱いていた。

十月のある月曜日、私は風邪で編集会議に出なかった。Kに代わりに行ってもらうよう頼んでおいた。火曜日には記者達に電話をしたが、誰も返事が無かった。そして夜になって副編集長から電話がかかってきて、Kが会議に現れなかったことが判明した。その上、今週の一面記事を書く筈の学生が風邪で倒れているということで、「ギリギリだけど、明日の講演をカバーしてくれる?」と頼まれた。それを承諾してしまったのは、馬鹿の骨頂としか言いようがない。

風邪は悪化して熱も出て来たが、水曜日には講演に行き、くらくらする頭を抱えながらやっとのことで記事を書き上げた。オフィスに行ったら、皆がバタバタしていた。ニュース面の記事が四本足りない。一体どうなってるんだ。副編集長が説明してくれた。「Kが急に辞めちゃったから、足りないのよ。あなた、何か書いてくれる?」

結局私はその晩に記事を三本書いてからぶっ倒れてしまった。普段は物凄く元気な私だが、その時は倒れる以外どうしようもなかった。その後二日間熱が続いた。

まだある。十月の中旬の話だ。A大学のある寮の男子トイレで、毎日のように床に大便を残していく学生がいて問題になっていた。そして、ある日、これが一日に四回も起こった。犯人はおそらく精神障害者だったのだろう。学生課の担当者の女性はこの問題にどう対応するべきか考えつかず、妙な計略を実践した。学生新聞に「某寮の全てのトイレにはカメラが設置された」という見出しをでっち上げて、編集長に記事を書かせたのだ。本当にカメラなど付けた訳ではないから、全くのデタラメである。

いかにもアメリカの新聞業界らしい取引だったが、私は勿論この裏工作について何も知らされていなかったから、金曜日に新聞を見た時にはショックだった。私がトップのつもりで書いた記事は二ページ目に移動されて、一面にはこの「トイレにカメラ」という途轍も無い話が載っていた。始めはまさかデタラメとは思わず、編集長のことはよく知っていたにも関わらず、こんな情報を掘り出すとはすごいものだなどと思ってしまった。今思えば当時の私はあまりにもナイーブだった。

次の編集会で真実が明らかになって、副編集長は慌てふためいた。「大変よ。私達、こんな証拠も無い記事を、しかもトップで出しちゃって。学長が物凄く怒ってるんだから。皆、どうしたらいいの。」

私にしてみれば「いや、俺は勘弁してくれよ。『私達』って言うけど、所詮君とあのいい加減な編集長だけの責任問題だよ。君らが辞任すりゃ済むことだろうが。」などと言っても良い所だったが、結局黙って見ていることにした。そして、そのまま中途半端な編集者として学期末まで続けた。

ニュース面の編集者でも自分が話題にしたい記事が書けなかったので、丁度同じコンピュータープログラミングのクラスに居た美術面の編集者に話を持ちかけた。「僕はジャック・ハンディーのような『Deep Thoughts』(深い考え)を書きたいと思ってるんだけど、なんとかそっちに入れてもらえないかな。」

「ああ、いいとも。歓迎するよ。」彼はこう言って笑った。ニュース面がどんなに酷いかよく分かっていたから。

そういうことで、私は美術面に『愚鈍な一言』についての記事を連載するようになった。例としては「食堂の暖炉の上に『彼らは薪を集めて火をおこし、そのまま燃やしておいた』と書いてあるのだが、あの暖炉に火があるのを見たことはない。これは何たる不思議であろう。」などというのが典型的な内容だった。この漫画のようなものは大ヒットで、周りの人によく褒められたりした。これで編集者の仕事が無かったなら、もっと良かったのに。

一学期が終わって、クリスマスの頃に成績通知表が届いた。評価は全部Aになるかと期待していたのだが、封筒を開けてみると「新聞」だけがBになっていて、カチンときた。あのインチキ編集長が、顔を出したことも無い「教授」に告げ口したに違いないと思った。こんな理不尽な仕打ちに黙っている訳には行かない。早速その「教授」に交渉しに行く決心をした。

二学期早々に彼女をオフィスに尋ねたら、掃除をしている最中だった。教授を辞めて出て行くところだと言う。構わず、本題に突っ込んだ。

「前学期の成績ですが、何故私の評価がBになったのか、具体的に説明していただけないでしょうか。」

「え、それは、Bだな、と思ったからよ。」

「そうですか。しかし、なぜBと思われたのですか。」

「貴方の編集した記事から見て、Bぐらいで良いとおもったからよ。」彼女は少女が悪戯した後両親に告白するように、クスクス笑った。

「馬鹿もいい加減にしろ」と言いたかったが、無言で彼女の次の言葉を待った。

「何か文句あるの?」これは教授が口にすべき台詞ではない。厳密に言えば彼女は博士論文を書いたこともないし、教授と呼ぶには及ばない人物だった。単に地元の田舎新聞社で働いたことがあるというだけである。

「はい、文句は幾つかあります。」と私は始めた。そして、私が編集者としてどんなにこき使われ、他の学生の尻拭いまで引き受けて死ぬ程働いたかを説明したが、彼女はイライラした顔で聞き流していた。私が話し終えると、漠然と「まあ、考えときましょう」と片付けようとした。

私はもう完全に嫌気がさしていた。「いや、いいです。次に学長に話しに行くつもりですから。新聞には色々問題があるようですし、特に、例のトイレの記事については、学長も私の言い分に興味を持たれると思うんです。じゃ、お話、有難うございました。失礼します。さようなら。」

「待って待って!」と彼女。全く子供のようだった。「良いわよ、わかった。Aにしておくわ。」

朱に交われば赤くなる、と言うが、私はまだまだ迷宮に入ったばかりの未熟者だった。