自伝

工事中

大学への道

私が高校二年の夏、祖母が宝くじに当たった。賞金は五万ドル(五百万円)ぐらいだっただろう。インディアナ州で宝くじに当たった場合は、二つの受け取り方から選ばなければならない。全額を手に入れるには二十年かけて少しずつ貰うしかない。インフレを考えに入れると、それでも全額が貰えるとは言えないのだが、一度に貰って高い税金を払うよりはましというところだ。すぐにお金がほしい場合は、六ヶ月以内に貰えるが、半分しか手に入らない上、税金の率が高くなる。出来れば、ゆっくり貰う方が得だったが、祖母は歳のこともあったので、すぐお金を貰うことにした。

祖母は祖父とあまりうまくいっていなかった。母がある時私に父と離婚した理由を説明した。「私が子供の時は、両親が毎日のように喧嘩していたのよ。時には、何日もお互いに口をきかないことまであったの。だから、あなた達四人にそんなひどい経験をさせないように、離婚したのよ。」と言った。特にお金に関しては、祖父母は犬猿の仲のようだった。男が外へ出て稼ぎ女は家で子育てするのが普通の世代だったが、うちは貧乏だったので祖母も子供が幼い頃からパートで働きに出ていた。真面目なカトリックとして育った祖父は元米国海軍の船乗りで、新聞社に勤めていたが、イメージ通りいつも厳しく、怖い人だった。そして、自分が稼いだ金は自分の自由にして当然と思っている人だった。それまでお金に関して一切権利を認められていなかった祖母には、宝くじに当たったことがどんなに幸せに感じられただろう。

祖母はその賞金で家に、祖母は家に一部屋を増築した上、母に黙って私達孫のために大学資金の特別投資口座を開いた。そして、家族でマサチューセッツ州まで車で旅行することにした。インディアナ州から十六時間ほどかかるので、これはかなりの長旅だった。六年前に両親が離婚して以来、私にとっては始めての母方の家族との旅行だった。ちなみに、その前の年には、父と父方の祖父母と一緒にコロラド州に旅行したのだが、これも母方の祖母にとっては嫉妬の種だったのだろう。マサチューセッツ州の旅行もそういうことから始まったのかもしれない。

当時の私は家族とうまくいっていかなかったため、最初は断った。祖父母だけとならよかったのだが、母や兄弟も一緒となると嫌だった。さんざん議論した上で、母が私の断る権利をいつまでも認めてくれないことがわかったので、あきらめて行くことにした。子供は学校で「権利」のことをたくさん教え込まれるが、実際にそれを行使しようとしてもほとんど認められず、すぐに「権利」というものの空しさに気付かされる。これはとても不思議な話だ。

何よりも、家族と一緒に狭い車の中で長い時間を過ごすのが嫌だった。高校生で、何でも嫌な時代でもあった。そんな時にたまたま、母にこれまた嫌いな図書館で待たされている間に奥の部屋で古本セールをやっているのが目にとまった。何もすることがなかったから、見てみようと思って入ったが、売っている本のほとんどは誰も読みたくないくだらないものばかりだとすぐ気が付いた。だが、ちょうどその時、一冊の青い本に目が留まった。

『アイビーリーグより良い大学』(Looking Beyond the Ivy League, Pope) という一目で内容がわかる題名の本であった。当時反骨精神に傾いていた私は、これはぴったりの本だと思って、こっそり買うことにした。母がそのタイトルをみたとしたら、おそらく冷やかしただろう。極秘行動に成功して、ほっとした。これで旅行中に読むものが出来た。どうせ長く車内にいるなら、少しでも知識を得た方が良いだろう、と。

このたった五十セントの本は私の一生で最高の投資になるものだった。まだ死んでいないが、今の所これより良い投資があるとは思えない。

セイントジョンズ大学

その家族旅行は想像していた通りつまらなかった。まあ、強いて言えば、想像していたよりちょっとはましだったかもしれない。とにかく、車内で『アイビーリーグより良い大学』を読み終えた。さらに百校以上の大学紹介するところを何回も読んだ。特に興味を持ったのは、メリーランド州とニューメキシコ州にあるセイントジョンズ大学だった。(注:ニューヨークのセイントジョンズとは別物だ。)

その本には、セイントジョンズについて「アメリカの約三千校の大学の中でもっともイネテリな雰囲気のある学校と言えよう」と書いてあった。セイントジョンズにはほぼ千人の学生が居て、専攻は無い。学生は皆同じ授業を受ける。全ては『西洋文明の基礎文献』関係だ。これは、四年間を通じて有名な文学・理科・哲学などの作品から学生と教授が一緒に選んだ百冊を勉強するということだ。

当時の私は高校にうんざりしていた。他の生徒は何も知らない癖に、勉強しない。学ぶことを楽しまない。いつも先生に「先生、先生!なぜこんなことを勉強する必要があるの」とばかり聞いてやがる。私にとって、コイツ等と勉強するのは、時間の浪費よりむしろ脳髄の腐れであった。彼らは自分を向上する気は全くない。そんな中で、高校の先生はいつも「大学に入ると、全てを学ぶことが出来る」と言っていた。先生を信用していた私の大学に対する希望はどんどん膨らんでいた。そんな私には、セイントジョンズのカリキュラムは夢のように思えた。

高校三年の春休みに、父と運転を交代しながらわざわざセイントジョンズのメリーランド州にあるキャンパスを訪ねた。いわゆる「大学訪問」だ。アメリカの制度では、親がホテルに泊まっている間に生徒が大学のキャンパスで一泊二日の体験生活をすることが出来る。ちょうどワシントンDCで桜が開く時期だった。ちょっとDCを回ってから、セイントジョンズに向かった。

キャンパスに足を踏み込んだ途端、その小ささが感じられた。南西角から北東角まで歩いて九十秒ぐらいしかかからなかった。それに、三面は高そうな骨董屋、北面は海軍基地に面していた。まあ、大学さえ良ければ、これは気にすることではないと思った。だが、位置のことだけを考えるとしたら、まるで監獄みたいだった。大学から休憩できるような逃げ場もなかった。学生用の駐車場さえなかった。

位置は位置だが、十九世紀の建物の雰囲気はとても気に入った。セイントジョンズは北米最古の講堂がある。『西欧文明の基礎』などという偉そうなことを勉強する学生にぴったりだと納得しざるを得なかった。

だが、非常に気になることもあった。私と同じ日に訪問している生徒が三人ぐらいいた。私達には在校生のアルバイトかボランティアのホストが一人づつ付いていて、そのホスト達が色々なところに連れて行ってくれた。ところが、ホストばかりではなく、ホストの友達まで一緒についてきた。六、七人はいただろう。これには妙な気がした。せっかく素晴らしい本をゆっくり読めるところに居るのに、入学希望生に付いて歩く暇などないのではないか、と。我々は別にそんなに面白くもない、ただの高校生だったのに。

夜は美味しい飯を食堂で済ませてから、授業を聴講する機会があった。アリストテレスの生物理論についての授業だった。ただし、セイントジョンズの教授は専門家では無いため、授業というよりも、先生と学生が一緒に議論をしながら、本から学び、お互いを励む、という形式だ。だが、訪問者からは何も学ぶ事が出来ないようだった。授業が始まる前に、ホストは「絶対音を立てるな。観察だけだよ。授業の差し支えになったら、あなたの入学願書は×になる。」と厳重な注意を言いわたした。

それでも、当時の私は感動した。本当に真面目にやっているんだな、と。

その授業は何よりも素晴らしかった。二十人が同じ本を読み、同じテーブルで座り、その本に書いてある思想や理論の意味や感想について議論するのは本物の教育である。セイントジョンズに着いてからだんだん疑惑に溺れ始めていた私は突然ほっとした。この大学に入るのは私の運命である、と。

その後、一人で図書館に行った。『西洋文明の基礎文献』教育をうたう大学には何の本が揃っているかと知りたかった。真面目な本ばかりだった。だが、息抜き用になるような比較的に軽い本もあるかな、と探してみた。軽い本は一切なかった。(初めての大学訪問だったので、まだ大学の図書館に軽い本がある筈はないことは知らなかった。)

図書館についてもう一つ思い出すことがある。私が図書館へ近づいた時、一人の女子学生が先にドアを開けて、後ろに誰かいるかどうかを確かめた。まだちょっとドアまで距離がある私を見てにっこり笑うと、ドアをおさえて待ってくれた。しかも非常に綺麗な女性だった。それまでそんなにフレンドリーではない学生しか出会っていなかったので、彼女のような人物を見つけたことは何よりも嬉しかった。

私は自分の高校の女性には性的な興味しか持っていなかった。それ以上求めても期待外れだけになるから。当時はまだそんなに数多くの頭が切れる女性と出会ったことがなかった。もちろんこれは女性を軽蔑しているということではない。ただ、私の高校では、頭が良い女性はかなりいたけど、友達として哲学・宗教・宇宙の運命などについて話そうとする女性はいなかった。だから、異性の相手はなかった。それだけの話だ。

その後、ホストと再会して、校内の喫茶店でコーラを飲みながらたくさん話した、『不思議な国のアリス』のティーパーティーのように。それからホストの部屋に戻り、すぐぐっすり寝た。目が覚めたときには、ホストは出て行くところだった。朝の挨拶を済ましてから、面接に行った。

面接はうまくいったと思った。話が盛り上がって、面接官が直接私に「まあ、あなたはもうまるでセイントジョンズの学生のようだ」と言ってくれたからだ。

面接を済ました後、インディアナへ帰った。長い車の旅の間に、父と大学のことをよく話しあった。ただ、私はセイントジョンズに対しての興奮をわざと収めるようにつとめた。両親はまだ私が地元の大学に行くと思っていたからだ。だが、父は「自分の好きなところに行っていいよ」と言ってくれた。父は、母と違って、心の中で反対していてもいつも私の決断を支えてくれる人物だ。

当初は本当にセイントジョンズに憧れていた。いや、というよりもむしろ、他に大学訪問しなくてもいい、と思っていた。

だが数ヶ月経つうちに、疑いが出てきた。セイントジョンズは本当にそんなに良いところだろうか、と。才色兼備の女性がドアを開いて待っていてくれるところは他にいくつもあるだろう。それに、本当に本に籠っているだけでいいのだろうか。私はこのプログラムは魅力的と思っていたが、同時にコンピューターのことも一応勉強しておいた方が良いと思った。そして、皆が同じ授業でつまらなくならないかな。何より私をおびえさせたのは、ホストの、受験志願の高校生にさえ友達のように声をかけようという寂しさだった。

追い討ちは、学費が信じられないぐらい高い。高い上に、卒業しても学位は総合学部だからすぐ給料の良い仕事を見つけられるわけがない。うちは貧乏家族だし、コネもないので、そうはいかない。同時に、だんだんコンピューターをもっと勉強したくなってきた。毎日使っているコンピューターの原理や構造は非常に興味深いものだった。そして、留学にも興味を持ち始めた。どことは決まっていなかったが、一応機会さえあれば、どこかに行きたいと思った。だが、セイントジョンズの画一化された教育では、コンピューターの勉強はもとより、留学なんかできない。そんなわけで、最終的にはセイントジョンズに願書も出さなかった。

今考えると、なぜ願書も出さなかったのがちょっと不思議に思える。私は大学六校に申し込んだ。セイントジョンズを加えるのにそんなに手間はなかったが、それにしてもちょっとした努力さえしなかった。おそらく、セイントジョンズに申し込まなかったのは、もし合格してしまったら行きたくて仕方がなくなるだろうと自分で知っていたからだろう。

ニューメキシコ州のではなく、メリーランド州のキャンパスに訪問したことも原因になっただろう。実は、『アイビーリーグより良い大学』を読んだから、ニューメキシコのキャンパスの方に行きたかった。ニューメキシコのキャンパスはずっとひろくて、近くに軍隊基地も無い。東海岸の威厳ぶった雰囲気に比べて、砂漠の民の習慣が君臨している環境は非常に私の気に入ったかもしれない。もし、メリーランドの代わりにニューメキシコのキャンパスを訪問していたら、多分ようやくセイントジョンズに行くことにしただろう。

しかし、父は訪問ついでにワシントンDCを見物したかったし、インディアナ州からニューメキシコ州までは飛行機しか無かった。実はメリーランドへの旅だけでもうちの家計にはキツかったのだ。高校生の私は既に自分の家庭の金不足に気付いていた。私が大金持ちの家族で生まれだったら、セイントジョンズは躊躇無くまっすぐに行ったと思う。だが、結局その方が良かったとは言えない。お金の余裕は色々な悩みの原因ともなるからだ。

インディアナ大学

高校四年の秋、インディアナ大学の一番名誉のある奨学金を申し込んだ。インディアナ大学は両親の母校のみならず父の十一人の兄弟のうち九人の母校だったので、当然私に対しても「インディアナ大学へ行け!」という圧力が強かった。

アメリカの中西部の大学の中では、インディアナ大学の評判は高い方だ。それに、教養課程(liberal arts)の大学なので、私の性格と合っていたとも言えるだろう。特に、認知科学(cognitive science)という学際的な出来たばかりの総合的分野に興味が引かれた。認知科学は哲学・心理学・生物学・コンピューターサイエンスなどから構想された分野で、今でも思い出すだけでワクワクするほど魅力的なものだと思う。しかし、親の足跡を追いたくはなかった。親には失礼だが、親の人生は真似をするほど何ものでもなかった。

アメリカでは、経済格差を補遺するための「必要基盤」(need-based)の奨学金と、努力や才力への報償としての「実績基盤」(merit-based)の奨学金と二種類がある。最近の傾向は必要基盤の方へだが、折よく当時のインディアナ大学のほとんどはまだ実績基盤だった。

その実績基盤の奨学金の中で一番名誉があるのは、旧学長にちなんで名付けられたウェルズ奨学金である。四年間の学費・食費・部屋代・本代を含め、三年目には世界中どこでも好きなところへ行く機会もあたえるという、最高の奨学金である。一人のウェルズ奨学生に聞いたところ、彼は三年生の時、ネパール四ヶ月、バックパッキングでヨーロッパ一ヶ月、オーストラリア四ヶ月と、全て学校の費用持ちで旅行したということだった。本当の話。こんなチャンスは世界中探しても滅多に無いだろう。だからすぐ申し込んだ。

選別過程は三段階で、三段階目は面接だ。五十人面接を受ける中から二十五人が奨学生として選ばれる。運良く、私は面接まで残った。

面接のため、父と一緒にインディアナ大学へ向かった。案の定、凶兆があった。父と珍しく、早めに出ることが出来た。高層道路へ出たところで、父は信号で車を止めた。私達の前にもう一台の車が既に止っていた。信号が赤だったから、待つのは当たり前のことなのだが、父は信号が変わらないうちにエンジンをかけて前へ進もうとした。赤なのに。前に車があったのに。そして、目の前の車に衝突してしまった。情けないことだった。

幸いなことに、誰も怪我はなかった。でも、前の車のドライバーが頭に来たのは勿論だ。父はすぐに裏技で、「急いでいるので警察を呼ばないで欲しい。代わりにこれを受け取ってくれ。」と二万円ぐらいを差し出した。私はいつもこういう手段は不倫的だと思っているが、アメリカではよくある話だ。なぜなら、交通事故を報告してしまうと、加害者の保険料金も被害者のも上がるからだ。ちなみに、二万円では大した額ではないと聞こえるかもしれないが、被害者の車を売っても四万円くらいにしかならないようなポンコツ車だったから、妥当だったのだ。当時私が運転していた車も同じようなものだったから、わかるはずだ。

困ったことに、相手のドライバーは父に「これはハッキリアンタの不注意による事故だから、アンタの保険会社に新しい車を買って欲しい。警察を呼ばなくてはならない。」と怒りたっぷりで言った。インディアナ州では交通事故など日常茶飯事なので、警察はのんびりとやってきた。一時間ほど待たされた。やっと警察が到着したと思ったら、更に面倒なことになった。あの野郎は車保険を持っていなかったのである。これはもちろん違法である。そして、警察は彼を逮捕しなければならなくなった。でも、誰かを逮捕するとなると、さらに時間がかかる。

やっとの思いでインディアナ大学に着いた時、すでに指定された時間より三十分ほど遅れていた。父の下手くそ運転仕方のせいで、全然集中ができなくなってしまった。父を殺してやりたい位だった。

そのまま父と分かれて、他の生徒達と一緒に美術館を見学した。

その後、夕食の支度を待つ間、おやつを食べながら他の生徒と話す時間があった。皆優秀な人ばかりだった。つまらない世間話から話題はとうとう小説に移った。そのとき、テーブルで一番可愛い女の子が突然私の一番好きな本が大好きだと発言した。それまで私の知り合いの中でその本を読んだどころか、聞いたことさえある人は一人もいなかった。だから、彼女が私の大好きな本も大好物だと言ってくれた時は嬉しくてたまらなかった。(ちなみに、その本はNeil Gaiman著の『American Gods』という本だ。あいにく、日本語訳はまだない。)大学生活がずっとこんな調子でいくものなら、どんなに幸せだろう、と思った。

それから夕食に向かった。最初は支度に二時間もかかるというのはどういうことかと思ったが、そのホールを見ると瞭然だった。レストランだったら軽く二万円はするような食事だった。確かフォークが五本並べられていた。今までで豪華だなと思ったディナーはたった二本のフォークが限界だったのに。無論美味しかった。だが実を言うと、私の舌の感覚力を遥かに越えた料理だった。私は二十ドル(二千円)以上のディナーを食べると、美味しいことは美味しいとわかるけれども、自分の舌を超えるから、ご馳走になっても、鑑賞はあまりできない。そんなわけで、豪華な食事に慣れていない私は失礼をしないか大心配で、頑張った。頑張ったというか、自分の自然な真似を収めようとした。今でも成功したかどうかさえわからない。

最後に一人の奨学生が現れ、バイオリンで二曲を奏した。

情けないことだ。地元の州が税金で私如きな者を饗応するなんて許されるべきではない。何のためにここまでしたのか。この面接の日の予算はおそらく大学の一年間と同じ価格になっただろう。「このご馳走なんかしないで、奨学金の数を増え!」と思った。この接待は良過ぎた。私はただよく勉強して、良い成績を取っただけだ。奉仕活動もしたが、それほどしたわけではない。とはいえ、そもそも奉仕活動は報われる目的ですることではない。

これを契機としてハッキリ解ったのは、公立でも大手の大学では教授の待遇が非常に良いということだ。そう思うと違和感を覚えた。

夕食後学部の展覧会があって、教授連と話す機会があった。残念なことに、哲学やコンピューターサイエンスの代表者はいらっしゃらなかった。

それから奨学金プログラムを運営している方とコーヒーとコーラを飲みながら話すことができた。彼はお爺さんっぽく自分の生い立ちを話したが、結構面白かった。彼はいわゆる「高校sweetheart」と結婚した人だった。自分の高校sweetheartを失ってしまった私にとって、妙な論理で彼の担当しているプログラムに参加することが出来るとしたら、その別れた際の痛みを治すことと繋がる、と思った。

それから生徒達はホテルの廊下に集めって雑談をした。競争相手同士で奨学金のことは話せないので、何を話したかというと、『Jackass』という映画のことだった。『Jackass』(バカ野郎)という映画はその二ヶ月前にリリースされて、モラルの悪化しつつある傾向として話題になっていた。なぜなら、その映画の全くバカな場面を真似するやつが数十人出てきて、そのほとんどが怪我で入院になったという始末だったからだ。例えば、坂の頂上からショッピングカートで下までサーフィンするとか、そういう類いのことだ。とんでもないバカな映画であった。私は見ていなかったが、テレビ版を五分ぐらい見て、それで十分に思えた。

ちなみに、この奨学金のファイナル五十人として競争している生徒達はハーバード志願生並みの粒ぞろいだった。大したもんと思ったのもつかの間、『Jackass』の話になってしまった。今まで高校にうんざりしていた私は、大学でなら、頭の切れる人々と話すことが出来、もう今までのように馬鹿者達と下らない会話なんかしなくても良いとおもっていたのだが、その夜に、頭の切れる人間ばかりの集まりでも『Jackass』のようなものが話題になる可能性があることを痛く思い知らされたのである。

情けないことだ。

皆の話は続いていたが、自分は部屋に戻り、寝ることにした。大学の費用で、一部屋に生徒二人ということになっていた。私のルームメートは遠くのノースカロライナ州からわざわざインディアナまで来たという男だった。でも、気取ったやつだったからこれ以上話す気はない。

翌朝は教授達用のビュッフェでとても豪華な朝食だった。大学教授は毎日このような食事が食べられると知らなかった私は、それだけのために教授になろうかと考えてみたりした。

面接はその後だった。この不吉が連続の週末に相応しく、自分の面接官の肩書きをみた途端に嫌な予感を覚えた。彼女は論理学の教授だったのだ。私の願書の専攻希望欄には「哲学・コンピューターサイエンス」と記入したから、大学の方はその教授が最適だと思ったのかもしれないが、私には合わなかった。私の哲学への興味は倫理関係で、論理からはかなり離れている。そのときまだあまり学問に詳しくない私でもそれ位は知っていた。(後で、アメリカの哲学は二つに分かれていることがわかった。一つはcontinental schoolと呼ばれる欧米の考え方の歴史を勉強する学問であり、私の好むタイプの哲学でもある。もう一つはanalytical schoolと呼ばれる論理関係の数学的な哲学である。)

その面接のことはうまく行かなかったという以外ほとんど忘れてしまったが、ひとつだけ質問を覚えている。それは、
「哲学の中で、あなたのもっとも興味深いと思っている点は何ですか。」
「人間は自由意志を持っているか否か、です。」
「持っていると思いますか。」
「持っていると思います。」
ここで、教授の口調が変わった。「もし、あなたが人間が自由ではない証拠を発見したとしたら、どうしますか。」
困った。「私はそれを仮に認めながら、他の方法で自由の意思の根を樹立する可能性を探します。」

これは無論間違いだった。だが、間違いだと知りながら、そう答えた。教授の顔を見れば、彼女が自由意志など童話のようなものだと思っていることはハッキリわかった。しかし、私はなんと答えばいいか他になんとわからなかった。まだ高校生だったので、大学で流行っているくどくどしい言い回しはまだ把握していなかった。それに、たとえできたとしてもそういうような言い回しはしたくない。嫌いだから。奨学金をもらえないことになっても、することとしないことは存在するはずだ。

そう思えながらビートルズの『白いアルバム』を聞きながらうちに帰った。二週間後に通知が届いて、結局私は選ばれなかったとわかった。私が受け取った数十通の不合格通知の中で、それは一番きちんとした、丁寧な手紙であった。でも、一番私をガッカリさせて手紙でもあった。不合格だったから自分で学費を一部払うためお金を稼がなければならないし、海外旅行の特別料金は無料から大金になってしまったからだ。

手紙の最後に合格者の名前が並べてあった。これは「知りたければ、皆さんは合格者を知る権利がある」という、説明会での面接についての約束の通りだった。その晩で一緒になったルームメイトは合格だった。地元の出身ではないのに地元の税金でインディアナ州の州立大学へ通うことになっている。でも、すぐ考え直した。これはあくまでもメリットを元にしているの奨学金だから、不合格というのは、私の能力不足、または実力不足だけだ。他の人を責めても仕方がない。

同じ『American Gods』が大好きだった女の子はあの奨学金をもらって、結局インディアナ大学に行ってしまった。デートする相手にはなれなかった。辛い,辛い。通知が届いたから二ヵ月後、州の学業大会で偶然彼女を目にかけたことがある。すごく話したかったが、適切なセリフを思いつかなかった「おめでとう」は単純過ぎるし、私が不合格だったことはまだ恥に思えた。

無論両親は非常にガッカリした。私にガッカリした。でも仕方がないと思った。自分は出来るだけ頑張った。サボったわけではない。ただ今回は、自分の番ではなかっただけだった

ベロイト大学

私がベロイトへ運転していたときのことだ。セミトレーラーが突然私の車線に割り込んできた。運良く、私は素早く反応してブレーキをかけ、隣の車線に移った。だが、もし移った車線に他の車があったとしたら、とんでもない事故にあってもおかしくない。もうちょっとで死ぬところだった。これは最初の凶兆だった。

その週末ベロイトは生徒奨学金希望者で大変混んでいた。ベロイトには三種類の松竹梅にあたる奨学金があり、その週末に決められることになっていた。

父と分かれ、受付をしてからすぐホストに紹介された。私たちの最初の会話は以下の通りだった。冗談ではない。
ホスト「よう、こんにちは。ジョンと呼んでくれ。マリワナはどうだい?」
私「吸いません。」
「じゃ、タバコは?」
「吸いません。」
「そっか。他のドラッグは?言ってくれれば、俺が探してくるからさ。」
「いや、ドラッグはやらないんです。」
「そっかい?楽しいもんなんだけどな。やらないなんてもったいないよ。試してみろよ。俺、おごるからさ」
「聞いてくれて嬉しいけど、やっぱり結構です。」
「そっか。俺が悪かった。もちろん、やらなくても構わない。俺はただフレンドリーなことをしたかった。分かるだろ?」
「ええ、もちろん。気持ちはありがたいです。」
「世界にはいろいろな人がいるからさ。」
五分間の沈黙。私たちは寮へ向かった。

これはある意味、アメリカの優待精神が極端に現れた例である。違法の世界へ誘うにしても、心から暖かさを込めて、お客さんを接待しようとする。親切なことは親切なのだが、薦めていることが良いか悪いかは別問題だ。

ちなみに、私はドラッグを使ったことがない。タバコも吸ったことがない。煙の匂いは苦手だ。子供の頃、火遊びのは大好きだったが、どうもタバコやマリワナの煙は気に入らない。

彼についてととんでもなく荒廃した寮へ入った。匂いだけはマシだったが。そこで、彼が友達に紹介してくれた。皆は寮の共用ラウンジでティムバートンの『エッドウォード』という映画を見ていた。ご覧になったことがある方にはこの後のシーンの不可思議さが分かると思う。

優しい人ばかりだった。ただ、ドラッグしか趣味ないのような奴らだったので、ボウッとしていてあまり会話の相手にはならなかった。

ドラッグのユーザと暇つぶしをすると、信じられないような会話を聞くチャンスがよくある。今回も例外ではなかった。

ある女性「今夜のビールはもう揃っている?パーティーでいっぱい飲みたいわ」

ジョン「いや、金がない。ラーメン生活だ」

(アメリカのカップラーメンはカップ入りでなくプラ袋包装のものだ。そのすごくまずいラーメンは15円しかしないから、貧乏生活をしている大学生に大人気だ。私の知り合いの一人は、四ヶ月ラーメンばかりを食って倹約に頑張ったが、二ヶ月目あたりから気が狂ったように変になった。)

女性「ダメねえ。あたしお金はあるけど、誰か偽造免許持ってない?

(アメリカの法律では二十一歳から飲酒できる。違法販売の罰金が高いから、ほとんどの店は歳を確認する。そのため、二十一歳未満の学生の中ではこの手段を使うことが多い。)

ある男「ないんだ。持ってたけど警察にとられちゃってさ。」

もう一人の女性「わざわざ買いに行くことないわよ。あたし、母さんに頼むから。」

彼女は携帯電話を取り出した。

「もしもし?ママ?悪いんだけど、今夜のパーティーのビールを買ってくれない?六ケースで足りると思うわ。いい?よろしく。」

本当にそんな当たり前のような一方的会話だった。それに、信じられなかったのは、実際に彼女のお母さんがビールを買ってくれて、二時間後わざわざその寮まで届けてくれたことだった。ちなみに、一般的にケースは二十四缶だ。

それからジョンと彼の友達と一緒に食堂で夕食を取った。他のことはともかくとして、飯は案外美味しかった。

ジョンは哲学やコンピューターサイエンスのことはぜんぜん知らなかったので、できるだけ知り合いを絞って、詳しい人を紹介しようとしてくれた。だが、あまり適切な人は思いつかなかった。結果はどうであれ、本当に優しかった。

その夜は演劇を見る機会があったので、ジョンと分かれ、父と合流して一緒に見に行った。すっかり内容は忘れているけど、とても良かったとだけは覚えている。私は高校で演劇を二、三回やったことがあったので、大学でも演劇やろうかなと思っていた。まあ、ベロイトの良い所の一つと考えればいい。そんなにたくさん良い所があるというわけでもないから。

朝一時頃ジョンの部屋に戻ったら、彼が着替えていたところだった。

「おい、マルディ・グラのパーティーに行くかい?」と気軽に誘ってくれた。
「いや、悪いけど、九時から奨学金の面接があるので。」
「あ、そうか。じゃ、行かない方がいいだろうね。俺たちのパーティーはすごく楽しいのに、残念だな。だったら、こう言うのは悲しいけど、もう君とは顔を合わせないだろうな。俺は多分ベロベロになって彼女の部屋に泊まるから。何時に起きるつもり?」
「八時かな。」
「じゃ、俺の目覚ましをかけておこう。このボタンを押すと音が止まる。目覚まし一つでいいかな?ぐっすり寝るタイプじゃないよね。」
「大丈夫だと思います。」
「よかった。いくつあっても足りない奴もいるからさ。じゃ、頑張れよ。俺も一生懸命頑張ってホストをやったんだよ。実を言うと初めてでね。多分、君にも分かったんじゃないかな。俺は普通ホストなんかしないタイプだけど、人数不足って、入学事務局に頼まれてさ。俺はホストには落第だろうな。」
「いや、大丈夫でしたよ。とても良い経験でした。ベロイトをありのままに見ることができて、感謝しています。」
「なら、いいけど。とにかく、さよなら。楽しかったよ、坊や。面接頑張れよ。シャワーは左側の一番近いドアだよ。絶対ベロイトに来いよな。この場所はすごいだからさ。」
「鍵はどうすればいいですか。」
「放っといていいよ。ここは正直者ばかりだから。じゃ、行くぜ。お休み!」

ある意味、私が訪問した大学の中では、ベロイトは一番すごいところだった。実は、ジョンとの別れは私にもちょっと寂しく感じられたのだった。彼は私と全然性格が合わなかったが、それでもとても親切にしてくれたのだから、今でもそれを評価している。

八時に起き、シャワールームに入った。しかし、それが男女共用のシャワールームとは知らなかった。シャワーに入ったときは誰もいなかったのだが、出た時にはちょっと恥ずかしい思いをした。

それから朝食を食べ、面接に行った。その内容は全然覚えていない。そして、キャンパスを見学した。殆どはすごく古い建物で、設備も優れていなかった。コンピューターサイエンスの専用ラボには八年物のパソコンしかなかった。その後父とうちへ帰った。

数週間後、面接に合格したことがわかった。無論、私はあの訪問以来ベロイトに興味はなくなっていた。通知は記念にフォルダーに入れて、「他の大学に行くことにしました。」というような返事を書いた。まだどこと決めてはいなかったが、ベロイトに行きたくないことだけは確かだったから、すぐ断りの手紙を出した。そうしないと、私に提供された奨学金が次のもっとベロイトに相応しい学生に回っていかないから。

ノックス大学

次もまた奨学金の面接のため、父と二人でノックス大学へ向かった。大学訪問はなかなか楽しくと思い始めた。今まで自分は旅行嫌いだと思っていたのだが、むしろ「家族旅行は好きじゃない」ということに気が付いた。皆と一緒だと喧嘩ばかりするが、父だけなら私は平気だった。

そのとき父がしてくれたことに対する感謝の念は、今になって大きくなるばかりだ。父は仕事を休んで、私と一緒に五校の大学を訪ねてアメリカを回った。だが決断は全部私の自由にさせてくれた。これは何よりも有難いことだった。ちなみに、父が受験生のときにも、祖父が同じように大学訪問に連れて行ってくれたそうだ。父は最初ノートルダム大学に憧れていたが、私のセイントジョンズのように、訪問してからどんどん行きたくなくなったと言う。でも、それから二十五年後、弟がノートルダムに行った。人生は妙なものだ。

うちからノックスまで車で四時間ぐらいかかる。ちょっと遠かったが、父の年間休暇もそう多くないから一日で往復することにした。

ベロイト大学と同じように、ノックス大学はノックスという町にある。そして、ベロイトと同じように、ノックスの町は経済的に苦しい状態にある。アメリカの小さな市町村はほとんどそうだ。

ノックスのことは覚えているが、あまり書く価値のないことばかりのような気がする。別に悪いところではなかったが、ものすごく寂しいキャンパスだった。私が訪問した日にはぴしゃぴしゃの雨が降っていたせいというだけかもしれないが。

ノックスの劇場ステージはその寂しさの象徴のようだった。先端技術を見せびらかさんがために、七十年代に専用の映写機を購入したのだそうだ。どんな背景でも映せるからセットの大道具が要らない代わりに、ステージの後ろに大きな醜い白い画面が聳え立つことになる。劇を上演するときは映画の背景のように場面に合わせて適当なものが映るという仕組みだ。

三十年前だったらこれも画期的な発想だったかもしれない。だが、キャンパスのツアーガイドによると、その装置は二、三年しか使われなかったそうだ。そのあとは普通の劇のスタイルに戻り、映写機のことはすっかり忘られてしまったそうだ。しかし、その巨大な画面は莫大な誤算の証拠として誰の目にも明白に残っているから、忘れられようもない。

それ以外、ノックスの設備は比較的に良く整っていた。私が今まで行った図書館の中では、ノックスのが一番きれいだった。家具や本棚は全部柏材で、千八五十年代の創立以来丹念な手入れで維持されていた。卒業論文を書く四年生専用の小さいオフィスみたいな部屋がいくつかあったのは素晴らしかった。四年生になったらいいよなと思った。しかもこんな綺麗な建物の中に。ノックスの建物で、気楽に感じたのはこの図書館だけだったが、このビルで本当にホットした。

調べてみると、ノックスのコンピューターサイエンス課は良さそうだった。でも、なぜかわからないが、ノックスはどうも気に入らなかった。キャンパスのツアーガイドにはいらいらしたが、それだけで大学に興味をなくすというのはありえないことだ。

ノックスは平均より良いのだが、その良さそのものがまったくもって普通という線を出ない。特徴がないというわけでもないが、これと言って際立つような独得なものもない。その上、寂しいところだった。出身のインディアナポリス市と変わらない。インディアナポリスは千万人以上の人口を持ているが、その割りに娯楽はない。

面接をしてから、雨の降り続く中を帰途についた。実は、この旅で一番強く記憶に残っていることは、ノックスを発ってからのことだ。

私の家族はカトリックだ。当然私はカトリックとして育てられた。だが、カトリック教の習慣はよく身についている割に、信仰そのものはまるでない。両親ともカトリックだが、母の方がより敬虔だ。

この旅をしたのは春だったから四旬節(Lent)だった。それに金曜日だった。そう敬虔でなくとも、カトリックと言えるカトリックは四旬節の間の金曜日には明るい時間に軽い食事だけして一日中肉を食べない。

ノックスへ向かう途中のランチはファストフードで済ました。無論アメリカのファストフードのメニューには肉が入っていないものはほとんどない。だから、ウエンディーズで美味しいベークドポテトとまずいサラダで我慢した。これは私より父の方が苦しかったようだ。

そして帰りはもっと大変だった。二時間ほど高層道路を走ったが、レストランやファストフードの広告さえ見えなかった。私達は普段は六時ちょうどに夕食を取るのに、既に八時だった。父も私も山盛りに食べるタイプだから、昼のサラダとベークドポテトでは食べ終わった時点でも満腹というにはほど遠かった。無論、食事制限をしている筈だからそれでいいのだが、お腹が痛いほど空いていた。突然、「家族レストラン。ここから十マイル。」という広告看板が目に飛び込んできた。高層道路を出て、楽しみにそこへ向かったのだが、店の看板を見ると、そこは「The Beef House」(牛肉屋)というレストランだった。

「まあ、気にしない。気にしない。入っても損はないよ。おそらく菜食主義者向けの食事もあるから。」と父は言って、私たちは車を下りてレストランに入った。だが、メニューを見て、さらにショックを受けた。これは家族レストランじゃない。「家族レストラン」は一般的な家庭の予算で大丈夫な店を指すものだ。ここは神様みたいな値段の「牛肉天国」だった。ざっと一人あたり七十ドル(七千円)というところである。困ったことには、メニューには牛肉以外の物もあった。牛肉ばかりだったら、出ることは簡単な筈だったのに、高級な鮭や鯰(なまず/catfish)もあった。父は「値段を気にするな。ここで食べよう。」と強く勧めた。

しかし、私はどうしてもその値段が気になった。レストランで一人当たり二千円のディナーさえ食べたことがなかった高校生の私には、信仰がなくても四旬節にこんな豪華なご馳走を食べるのは御免だった。「これは無理だよ。」としか言えなかった。父は悲しそうな顔で「値段なんか気にしないでいいよ。大学訪問なんて毎日するもんじゃないんだからさ。本当にいいよ。食べよう。」と納得させようとした。でも断るしかなかった。これを十回位繰り返して、私は父をようやく説得したが、その勝利は良い気持ちのするものではなかった。

それからまた一時間ほど車で走った。九時を過ぎだ。やっと都市郊外に入ると、ファストフォードの店はいくつかあったが、肉が大盛りのメニューばかりで四旬節にしては不適切だった。結局ロング・ジョン・シルバーズに入ることにした。おそらく日本では聞き慣れない名前だと思うのだが、米国で最悪最低のシーフードチェーンだ。二人分あわせてたったの十ドル(千円)で済んだが、犬の飯のような食事だった。たぶん愛犬家に溺愛されているペットの飯の方がうまいだろう。

倹約とは辛いことだ。カトリック教徒のような精神的倹約はさらに厳しい。

カラマズー大学

実はカラマズーに行く気はあまりなかった。でも、アメリカの共通願書は一度に六校まで申し込めるので、入れておいて損は無いと思った。カラマズーは『アイビーリーグより良い大学』によると良い大学だったし、うちからちょっと離れているとしても遠すぎるというほどでもなかった。その上、日本の人には分からないかもしれないが口に出すだけで笑えるような名前だった。まあ、そんなことはどうでもいいだが。

私の高校は三、四年生に毎学期二日の大学訪問休暇を許していた。四年生の春学期にまだ一日残っていたから、カラマズー大学に行くつもりは無くてもここでもう一つ奨学金面接をしておいて損はないと思って、父と一緒に行ってみた。

カラマズー大学も、ベロイト大学とノックス大学のように、カラマズーという町にあった。でも、その二校と違って、カラマズーは結構面白そうな町だった。

残念だが、大学そのものについては私の記憶に何も目立った特徴が残っていない。広い道路で二つに分かれたキャンパスで、西側が学部の建物、東側が寮になっていた。きれいなキャンパスだった。それぐらいしか覚えていない。

A大学

四年生の春に母とA大学を訪ねた。六校のうち、ここだけは母と一緒に行ったが、他は全部父とだった。

私が申し込んだ大学の中ではA大学が一番うちから近かった。これは私にとっては欠点だったが、両親にはそうでなかったようだ。母は運転免許は持っていなかったので、私が運転していった。

近いから半日位で訪問することにした。最初はキャンパスのツアーだった。四人の受験生とその保護者と一緒に、A大学の素晴らしさの説明をくどくどと聞かされた。ガイドは現役の学生だった筈だが、これでいったいどうやって大学生になれたのかと思わざるを得ないような人物だった。

それから母と分かれ、コンピューターサイエンスの教授と三十分ばかり話すことが出来た。ポニーテールにフランネルのシャツと草履と言ういでたちの彼の名はジムだった。A大学では、クエーカー(キリスト教の平和主義派の一つ)の伝統に従って教授でも名前で呼ぶ習慣がある。これでも教授か、と最初は驚いた。だが、話は盛り上がって、三十分に及んだ。ジムは腕時計を見て「あ、授業に遅れてしまった。行こう!」と席を立ったが、特に慌てているようでもなかった。

三年生の授業だったので、内容はほとんどわからなかったが、話がわからなくなるとその前の会話について考えたりして時間を過ごした。

それから母と合流して昼食を取った。訪問した大学の食堂の中で、一番美味しかった。

そして面接時間になった。と言っても、A大学には正式な実績基盤の奨学金制度がないので、普通の受験面接だった。そして、私の面接官は大学職員ではなくてボランティアだった。一体どういうことだ。二十五万ドル(約二千五百万円)の学費をとっているところで、面接はボランティアなんてあり得ないと思った。でもそうだったのだ。

面接官の女性はA大学について何も知らないようだった。アメリカ式の面接は、始めに面接官がいくつかの質問をした後で志願者の方から質問するという形をとる。ところが、私の基本的な質問に対して彼女は「すみませんが、分かりません。」の一点張りだった。

そんな無茶苦茶な面接をともかく終えて、帰途についた。

ちなみに、その日のツアーグループには一人の美人の女の子がいた。母に言わせると「彼女、あなたのことが気に入ったよ。あなたが面接に行った時、彼女のお母さんが「しっかりした息子さんねぇ」って言ってくれたのよ。二人ともA大学に入れるといいわね。」なんだそうだ。まあくだらないことを、母親っていうのはよく言うもんだよね。

母はA大学に行くことを薦めたのはそれっきりであった。

アンティオク大学

アンティオク大学のことは書かなくても良い、忘れた方が良いと思っていた。だが、この後を説明するためにどうしても思い出す必要がある。そこからとても重要なことを学んだからだ。

アンティオク大学は『アイビーリーグより良い大学』を読んで気に入った大学の一つだった。その本によれば、アンティオクはアメリカのもっとも左翼に偏っている大学らしかった。専攻の代わりに分野を広く勉強する制度になっていて、授業は全て参加者の相互協力を基盤とした形で行われていた。在学中の海外留学もよく行われていた。そこで、インターネットでカタログを頼んだ。カタログというのは、志望者のための学校の説明書だ。授業のリストまで書いてあるので、学校を調べるにはとても役に立つ一冊である。

他の大学と比べて、アンティオクのウェブサイトはプロが作ったものには見えなかった。正直なところ、ウェブサイト作成が趣味の自分でももっと良いものが作れるだろうと思うくらいのありきたりなサイトだった。それはともかく、「すぐカタログを送ります」という確認メールが届いたので安心した。しかし、二ヶ月経ってもまだ届かない。そこへアンティオク現役の学生から電話があった。

「カタログをご覧になりましたか。まだアンティオクに興味をお持ちでしょうか。」
「あ、興味はありますよ。でも、カタログがまだ来てないんです。」
「そうですか?それは失礼しました。すぐに発送しますので、よろしくお願いします。」

それからさらに二ヶ月待ったが、カタログは行方不明のままだった。そこでもう一度電話がかかってきた。相手は違う学生だったが、会話の内容は全く同じだった。

それからまた三ヶ月経ってもまだカタログは届かなかった。仕様が無いので、もう一度ウェブサイトで請求した。確認メールはまたすぐ来たが、カタログは現れなかった。高校三年の一年間ずっとアンティオクを追いかけたあげくの果てがこれで、とうとう私はうんざりして諦めた。

しかし、四年生になって高校の大学入試指導官と話していて、ふとアンティオクのことを思い出した。こんなことが普通にあるのかどうか聞いてみた。もちろん私は普通じゃないと思っていたが、仕方がないとあきらめていた。でも彼は「そりゃ、信じられない話だ。でも、すぐ解決できるさ。俺が話してみよう。」と、その場でアンティオクの入学事務局に電話してくれた。最初にかけた番号は間違いで、大学の総事務局で聞いてからかけなおさねばならなかった。私はその間ずっと待っていた。ようやく入学事務局に繋がったと思ったら、「少々お待ちください」と更に20分ほど待たされたのを覚えている。

それから一週間のうちにカタログが第一種郵便で届いた。開けてみると、ユニークで面白そうな授業ばかりだったが、私を行きたいと思わせるには既に遅かった。右翼に偏っている町に育った私には左翼に偏っている大学に行くことが魅力的に思えたが、それにしても経営がこんなにだらだらしているところは御免だった。

それから二年後、ある友達からアンティオクの入学事務局は学生によって運営されているのだと聞いた。

そして、アンティオクはついに二年前に破産してしまった。それまでにも破産しかけたのだが、毎回、いつも誰かが救いに来た。だが、今回は違った。大金持ちの融資者は誰も現れなかった。

150年の歴史を誇ったアンティオク大学も、もうこの世にない。

大学への希望

大学に願書を出した頃の私は、学校にうんざりしていた。なぜそんな気持ちになったかは、その頃の自分でもはっきり分かっていた。それは、通っていた学校の中途半端な能力別クラス分けのせいだった。

私は小学生の頃、授業時間のほかに勉強をしなかった。4年生になってから宿題がでるようになったが、大したものではなかったので、先生の授業を聞きながら済ませた。

「中学校は小学校と違うのよ」と母によく言われたものだ。「小学校では成績は関係ないけれど、中学校からは大事になってくるのよ。」

中学校から優等コースと普通コースに分かれたが、私が入学した年は制度が変更されたばかりだった。以前の制度は、必要科目(英語・数学・理科・社会)の 中から自分が得意なものをいくつか選び、二年分の内容を一年で勉強するようになっていた。優秀な生徒はこうして中学から学習内容を先取りするので、高校卒業までずっと特別コースを進むという仕組みだった。

この制度なら満足できたろう。しかし、新制度は違っていた。

余談だが、なぜ旧制度のことを知っているかと言えば小学校六年生のときに調べたからだ。ほかにそんなことを調べた子はまわりにいなかっただろう。これは私の人生によくあることだ。早く調べて準備するのだが、本番で制度が変わってしまっていることに気付いて結局ガッカリさせられる。大学のカリキュラムについてでもそうだったが、その話は後にする。

私が中学校に入った時には、高等科目は英語と数学しかなくなっていた。英語では、普通の授業に参加しながら二倍のレポートを書く。数学では、一年目の成績が良ければ次の年には高校レベルの特別授業を受けることが出来る。そして うまくいけば高校入学の時点で英語と数学を飛び級して二年生の授業から始められる。同じように、選択科目にスペイン語を選べば飛び級が出来る可能性がある。

理科の高等コースは高校からになった。高校一年では生物が必修だったが、成績が良ければ二年生の地学は飛ばしてもいいことになっていた。長くなるので制度の説明はこのぐらいにしておこう。

新旧制度の最も大きな違いは、一言で一言で片付けてしまえば、優等生と他の生徒の関係だ。専用の特別授業があった時には、優等生が他の生徒と一緒になるのは体育とか、バンド(演奏部のことだが、アメリカでは部活ではなくて選択授業だ)などの選択授業だけだった。それが改革後は優等生と普通の生徒が一日中一緒ということになった。

校長の説明によると、旧制度では優等生に過剰な優越感を持たせ、逆に普通の生徒には劣等感をを植え付けてしまうという欠点があったという。また、優等生を別クラスに隔離することは、普通の生徒からよい手本をうばうことにもなり、授業の質が下がり、成績も下がる、乱暴などに走るという問題もあった。

まあ、これはまったくのたわいごとでもない。でも、この問題の解決案をみてみよう。一般生徒に劣等感を感じさせないために、と称して、年下の優等生を一般授業に入れる。当然、その優等生は年上のクラスメートより良い成績を取る。誰がそれは普通の生徒の自信向上に繋がると思うのか。博士号まで持っている校長が、こんな「解決案」しか考えつかなかったというのはおかしなことだ。

同じクラスのなかで、年下の優等生が大した勉強もせずに満点をとる一方、普通の生徒はいくら頑張っても落第するという光景はなんともいえない気持ちになる。誰にとっても不幸な制度だ。

子供の頃の私はずっと感情的だった。今でも、この学校改革について考えながら流した涙を覚えている。

中学校、高校を通して、私は特に勉強する必要がなかった。高校三年の物理や三角法、四年の微積分ではテスト前に勉強したが、それ以外はそうするほど難しいと思わなかった。私が特に頭が良かったというのではない。優等生の友達もしている様子は見られなかった。

私たちは、毎回のように、授業の間ずっと本を読んでいた。教科書ではなく、好きな本ばかりだった。無論先生達は嫌だったろうが、私達としては、先生の説明を聞かなくても宿題が出来るのだから文句をいわせる余地はないという態度だった。

私は特にSFを愛読していたが、学校でそればかりでは申し訳ない気がして、様々な分野から本を選ぶことにした。伝記に歴史、哲学にコンピューター説明書、どんなものでも読み漁った(あさった)。

読書とバンド演奏は私の学校生活でただ二つの確実な楽しみだった。

ここで正直に言ってしまおう。私は中学校時代から馬鹿な人間と一緒にいるのは大嫌いになった。よその国ではどうか知らないが、現代のアメリカは反知性的な精神に溢れている 。特にプロテスタント(新教)の宗派では本気で「学問は災難のもと」と思っている人が少なくない。

私は成績が良すぎるという理由で毎日学校でイジメられた。小学校の時に「エッグヘッド」というあだ名を付けられたが、付けた奴に言わせると「お前の頭は卵の形をしているから」だそうだ。だが一般的な英語では「egghead」は教授などのインテリ層を侮蔑する表現だ。そいつがそれさえ知っていたのかどうか疑問だ。情けない話だ。

よく苛められたが、私はあまり気にしていなかった。なにかやられる度に、二倍やり返した。 時には向こうも一時的にイジメを止めるぐらいひどい仕返しをしたこともある。

中学生になった頃から、苛めの方法はあだ名付けから詰問に変わった。「なんで俺は赤点なのに、お前は満点なんだよ」「学校でいい子ぶりやがって。」「なんで学校のことばっか気にすんだよ。」「お前のせいで授業のペースが速くなる。学校から出て行け!」どいつもこいつも、なんと想像力の乏しいセリフしか言えないんだろう。

要するに学校は私にとって世界一つまらないところだったわけで、毎日適当なことしかしなかったが、創造性をを活かすようなプロジェクトを与えられた時だけは別だった。たまにテストの代わりに、個人かグループでそれぞれの得意な能力を活かせる自由研究課題が出ることがあった。このときだけは一生懸命頑張った。例えばあるとき、友達と一緒に45分ほどの映画を6週間以内で作成した。私は映画が大好きだったので友達には演技をさせ、自分では監督、編集、脚本の三役をこなし、張りきった。他のグループはポスターを一枚作るといった程度の熱の入れようだったのに。

当然、私たちは怠け者の生徒達に嫌われた。成績の評価基準は比較的なものだから、頑張るものが誰もいなければ落第するものも出ない、という考え方だ。落第のことをいつも心配している生徒はかなりいた。気の毒と言えば気の毒だが、私としては彼らのせいで学校が更に学ぶ雰囲気から遠ざかってしまって、情けなくて仕様が無い。学校に学ぶことを奨励するどころか、学びたい生徒を馬鹿にする。教育ではなく調教だった。

そんな私に、大学は最後のチャンスにみえた。大学は義務教育ではないから志望者を選ぶ権利があったし、学費がとても高いから、学びたくないものが行く筈がないところだと思っていた。無論そんな私はまだたくさんの残酷なことを経験から学ばなければならなかった。

今考えてみると、中学、高校時代の私は、なんて嫌なやつだったのだろう。文句ばかりで、おまけに高慢だった。でもここで弁解を述べるつもりはない。「己を知る」と書いてあるが、私はそもそも「知る」ということは言葉を並べる、つまり言語で表現することに値すると考えている。そして、己について「何故」という質問を考えるにつれて気が狂っていく。「何故」は謎だらけだ。

「なぜ私はここにいるか。」から「なぜ私はなぜ私がここにいるかを考えているのか。」へと追って行くうちに、そうして追って行く過程そのものが一番興味深くなってくる。そして、知るために、こうして書く。だが経験から「今度こそ知り得た」と思う時ほど危ない時はないと分かっているので、この「己を知る」というのは実現不可能な夢ではないかということも認知している。なぜ、それでも、敢えて書き続けるのか。

決断

これまでの話は大学訪問の旅行記だったのでちょっとバラバラになったようだ。ここでもう一度最初から纏めてみよう。ところどころ繰り返すことになるが、視点を変えることによってまた新しい要素が見えると思う。

高校四年の秋学期、感謝祭(十一月の下旬)の頃に六校の大学に申し込んだ。インディアナ大学、アーラム大学、ノックス大学、カラマズー大学、ベロイト大学とオバーリン(Oberlin)大学の六校だった。

注:オバーリンのことは今まで書かなかったが、私の志望した大学の中で、一番良い評判であった。当然入るのも一番難しかった。しかし、私にはもっともつまらなそうなところにみえたので、訪問さえもしなかった。それなのになんで申し込んだかと言えば、難しい大学に入れるかどうかを確かめたかっただけのことだ。他の五校はそう大した難関でもなかったから。しかし後になってこの考え方は失敗策だったことに気付いた。

アメリカには地元の組織の後援による奨学金がたくさんある。そしてそういう奨学金の申込書には申し込んでいる大学をリストする欄がある。私の成績でハーバードに入れたかどうか分からないが、ちょっとみたところでは絶対無理というわけでもなさそうだった。そういう意味では、オバーリンなどよりもハーバードに申し込んだ方がマシだったかもしれない。それでもアイビーリーグに申し込まなかったのは、そういうところに行く人種とはうまくやっていけないと思ったからだ。アイビーに代表されるような知的優越主義者の仲間になりたくなかったのである。でも人生は皮肉なものだ。話は先に飛ぶが、当時のそう言った気持ちにも関わらず結局私もそのような人間になってしまった。

ハーバードに申し込みさえしていれば、地元奨学金の申込書に堂々とそう書くことができた筈だ。そうすれば、私の出身地ではハーバードへ行こうなどという学生は滅多にいないから、そんな素晴らしい生徒ならぜひ優遇しなければ、と思ってもらえただろう。結局としてもっと奨学金をもらえたかもしれない。申し込むだけ申し込んでおいて入学許可が出てから断ればいいのに、ハーバードでなくオバーリンに申し込んでしまった私だった。

まあこういった策略をその時にすぐ思いつかなかったのは私の性格の善さの証拠だと言えるかもしれない。しかし後からにせよ思いついたことは確かなので、この辺が私の狡猾(こうかつ)さの中途半端なところとも言えよう。

本題に戻ろう。六校に申し込んだのは、入学できるかどうかよりも学費のほうが心配だったからだ。アメリカでは二月に国の大学支援金プログラム(FAFSA)に申し込んで、自分と保護者の収入と財産に基づいた自己負担分の見積もりを出してもらう。大学には政府からこの額が通知され、それから先の交渉は大学次第ということになっている。基金の足りない大学では見積もり額より多く払えと言うところもあるし、インディアナ大学のウェルズ奨学金のように優等生に特別待遇を提供するところもある。だから、私はいろいろな良い大学に申し込んで、一番経済的負担が軽いところを選ぼうと思っていた。

結局、六校全てに合格した。十二月中旬には五校の合格通知が届いていた。アーラム大学だけは二月中旬まで待たされた。全部合格したのは有難かったが、同時に困った。これまでに書いたように、特に行きたい大学がなかったからだ。(もちろん、ウェルズ奨学金をもらえてたとしたら、話は別だったろうが。)だから、四月上旬まで待つことにした。

アメリカでは、もし秋に大学に申し込めば冬の内には合否が分かるのだが、国・州・大学からの援助金をどれくらいもらえるかが決まるのはそれより後のことだ。国の援助金の申し込みをするのが一月から二月で、その結果が分かるのは三月下旬になる。そういうことで、どの大学へ行くかの最終決断の締め切りは五月の初めということになっている。入学は八月または九月になる。

ようやく四月になった。援助金の通知は既に届いていたが、六校のうち四校の自己負担額がたったの二万円くらいしか違わない結果だったので、私は迷った。インディアナ大学は無料だったが、他の四校は一年あたり20万円くらいだった。そして全校(インディアナ大学を含む)は年50万円の学生ローンがついていた。20万円でも高校生の私にとっては大金だったのだが、大学は一生に一回の経験だし、どうせ120万円のローンを背負わなければならなかったし、さらに80万円(20万円の四年分)をかけたところで大した違いはないだろう。

父が私の大学費用のために作った投資口座にはちょうど8万ドルくらいあった。その二年前には二倍くらいあったのだが、インターネットバブルが弾けたせいで、半額になってしまっていた。

六校のうちでオバーリンは例外だった。私はオバーリンの名前付きの奨学金を提供されたが、それでもたった25万円だった。(ベロイトの名前付き奨学金の180万円や、ノックスの約150万円とは比べ物にならない額だった。)だからオバーリンに行くとしたら、毎年20万円どころか120万円も払わなければならないということだった。もちろんそんなお金はなかったし、私は 特に行きたいわけでもなかったから、オバーリンのことはすぐ忘れた。

以前に書いた訪問の結果、ベロイトも問題外だった。インディアナ大学も、面接がうまくいかなくてウェルズ奨学生にえらばれなかったので、行くのは御免だった。当時自分に物凄く誇りを持っていたから、無料でもある意味で私を拒んだ大学には学費がただでも行きたいと思えなかった。それに、インディアナ大学には知り合いが何人か行くことになっていた。だが、私は誰も知らないところへ行きたかった。友達と一緒ならましだっただろうが、それまでの人生を切り捨てて 思い切って新鮮なスタートをしたかった。

これで、ノックスとカラマズーとアーラムが残った。三校とも全て教養課程を中心とする小さい私立大学であった。

このなかで、訪問の印象が一番悪かったのはアーラムだった。医者をしている叔父はアーラム卒だったが、私の相談に「行っても行かなくてもそう変わりない」と答えた。私のかかっていた医者もアーラム出身だったので、聞いてみたら「行かない方が良いんじゃないかな。...どうも変な生徒が多いですよ。やり直しが出来るものなら、僕も違うところに行くと思いますね。」という返事だった。

おまけに、私と二年ほど付合った末に裏切った女がアーラムに行くと決めたので、母はそれ以来反対から大反対になった。

よく調べると、カラマズーはコンピューターサイエンスがとても弱いようだった。それに哲学部も標準より低いようだった。カラマズーの良い点はどうであれ、何よりもコンピューターサイエンスと哲学を勉強したかった私にとっては、これではまずい。だから、すぐカラマズーにも断りの手紙を送った。

ノックスの第一印象は非常に寂しいものだったが、訪問の後に入学事務局と現役の学生からそれぞれ二回電話があった。それがとても優しく心強い印象を与えたので考え直した。ノックスの卒業生からのEメールも届いた。非常に丁寧なメールで、私もそういうような教育を受けた方が良いかなと思った。

二週間頭を絞っても納得出来る決断に達しなかった。あげくの果てに、とんでもないバカなことをした。故意に「自分に一番似合わないところに行こう。」と決めたのだ。理由は二つあった。一つには、学生の一人一人にただ一つぴったりな大学が存在するというのは大学受験コーチの私益のためにあげられた神話にすぎない、という考えだった。キリスト教の「この世に必ずただ一人の最良の伴侶が待っている」という結婚神話のようなものだ。もう一つは、自分に合わないところへいって成功すれば、それだけ自分を強く出来るはずだという理屈だった。

でもこれは両方とも当時の建前で、言い訳でしかない。そのときの私にはどうしても自分を騙す必要があった。

でも実は、なぜ私がそれをやったのか理解するのは、私には不可能だ。

説明しづらいが、私は故意に全く非論理的なことをしたかった。人間の99%以上は、人生の大切な決断(例えば、大学とか結婚とか)にに直面するにあたって、自分の利益しか考えられない。無論、尺度は個人によって異なるが、原則として自分が良いと思う方向に事が運ぶことを望むに決まっている。利他的だとか自己中心的だとかいう以前に、自分が「良い」と感じることをするのが当たり前だ。この道からズレるのは考えられないことだ。

この「考えられない」というところが私の気に入った。なぜ考えられないのだ。人はよく「考えられない、信じられない」と無意識に言う。私もそうだ。でも、考えられない、信じられないものは本当にあるのだろうか。これが私の疑いだった。だから、本当の意味で無理をしようと思った。

人生が平凡に終わってしまうことを心配するあまり、それよりも自殺するほうがましだなどと思っていた自分は、岐路に立っていた。心理分析したら、そのときの私の心理を分析してみれば、それまでの自分にけじめをつけて新しい自分を築こうとしていたのだと言えるだろう。でも、当時の私はそんなことを全く感じていなかった。

言い換えてみよう。高校生の私は、世の中をバカにしていた。なぜそんな人間になったかを説明するためには私の生い立ちを詳しく書かねばならないが、それはまた後の機会にまわそう。ここでは大学決定の話を続けたい。ただ、私の当時の心理を理解するためには、皆さんが世間に恨みや憎しみを感じたときのことを思い出していただきたい。誰でも何らかの絶望を経験したことはある筈だ。

全く非論理的なことをしたかったなら、なぜ大学に行くのを止めてしまわなかったのか、と疑問に思われる方もいるだろうが、当時の私は単純だったのでそこまで考えていなかったのだ。

結局、私はアーラム大学に入学した。

夏休み

高校を卒業してから大学が始まるまで三ヶ月の夏休みがあった。この時期をできるだけ友達と一緒に過ごしたかった。私が生まれたのは小さな町で、幼稚園から三人、小学校一年から二人、そしてあと何人か中学校からの親友がいた。アメリカでは小学校から高校まで同じ友達と付き合うのはちょっと珍しいことだ。

大学に行くのは楽みだったが、友達と別れるのは哀れな気持ちだった。友達は旅行やサマープログラムの予定が色々あったが、私は特に何もやることを決めていなかった。映画が大好きだった私は友達と一緒に皆で最後の映画を作ることにした。

中学校七年生(日本の中学一年生に相当する)の時からずっと一緒に映画を作成して来た私たちは、卒業後も相変わらず映画に夢中だった。それまでの六本の映画は全て授業のために作ったものだったので、時にはジョークを自制したり、暴力シーンをカットしたりする必要があった。その上、ほとんどの高校時代に作った映画のほとんどは10年遅れのVHS式のビデオカメラで撮ったものだった。最後の二本だけはデジタルビデオカメラを持っていた友達から借りて撮ったが。そんなこんなのうちに、私は卒業直前にようやく父を説得することに成功して、デジタルビデオカメラを買ってもらった。せっかく買ってもらったのに使わないまま大学に行ってしまうのはすまない、というのが最後の映画を作るのに十分な理由になった。

しかし友達は皆非常に忙しかった。そのとき、閃いた。物語の登場人物を二つのギャングに分けて、完成された脚本全体は誰にもみせない。そうすれば、俳優は自分の出るシーンしか知らないことになる。皆が完成された映画を見るのは最後に上映する時が始めてになるので、それぞれ知らなかったシーンに驚くことになる。私は驚かせるのが大好きな性格なので、これは素晴らしい発想だと思った。

驚かせるについては、学校のための映画ではないので、内容がくだらなくても問題はなかった。ポルノとまでは行かないが、決して両親に見せられるようなものでもなかった。内容についてちょっとだけ書くが、筋は私のお気に入りのジョーク、『魔法の肉棒』(voodoo dick)にまつわるものだった。要するに、セックス玩具を探しに行くエピックストーリーだった。無論セックスシーンなんかは撮影しなかったが、風刺的なセックスジョークを満載した。タイトルは『バージンで死ぬ者はいない』(No One Dies a Virgin)で、「誰でも人生にファックされるから、バージンで死ぬ人間はいない」(No one dies a virgin, because life fucks everybody.) という諺からとったものである。後は読者の想像にお任せする。

二ヶ月弱でゼロから完成品まで作り上げた。80分という長さは私たちの作ったものの中で最高記録になった。とても楽しかった。強いて困難だったことと言えば、俳優をやった友達が必ずしも仲が良い同士ではなかったということだ。お互いに嫌っているのも居たが、映画を作るという大イベントにあたってなんとか協力してくれて、出来上がった。

完成した作品の初上映は私の部屋でやった。当時の私の部屋は地下室だったので普通の部屋よりは広かったが、10人の友達が入ったらさすがにぎりぎり満員だった。混んでいても、映画は大ヒットだった。もちろん他に見る人もいなかったのだが、その10人の友達のために作った映画だったから、うち9人の笑顔を見て私は嬉しかった。一人だけは不満足そうだったが、その彼の不満も、今ではおそらく高校の友達と一緒に最後にやったことの懐かしい思い出になっているだろう。私が感じる郷愁に似たものが、彼にもあるに違いない。

彼女との別れ

できることなら、私はこのセクションはカットしたい。でも、やはりこの話を最後まで説明するためには、のことを書かなくてはならない。私のように恋愛話に興味がない読者の皆さんは、この部分を飛ばしていただいてもよい。私以外の人には、あまり意味がないと思うから。

大学に行く前に、やるべきことがもう一つ残っていた。Hとの別れだった。

彼女は私が初めて恋愛感情を抱いた相手だった。高校二年から彼女とデートするようになったが、三年になって彼女が他の男に目移りして別れられてしまった。そのとき、「これはあくまでもあたしの個人的な問題だから、絶対他の男とデートするなんてことは無いわ。今でもあなたのことが大好きよ。ただ、自分の時間がほしいの。」と言われたので、単純な私は彼女を疑わなかった。

私たちが最初に付き合うようになったきっかけは、私がよく彼女の色々な悩みの相談にのったことからだった。やり直しが出来ることならば、こういう関係は恋愛に発展させない方がいいと思うのだが、当時の私は恋愛に関して全く疎く、私自身の悩みの相談に乗ってくれるような友達もいなかった。だから、失敗を繰り返しては知識を得るという試行錯誤で進むほかなかったのだ。

無論彼女の別れの言葉は大嘘で、たったの二週間後には、そのカーティスという野郎と付合い始めた。何よりも腹が立ったのは、奴があまりにも情けない男だったことだ。

もし私と別れたのがもっと素敵な男性と付合うためだったとしたら、それは悲しくても仕方がないと思っただろう。だが、カーティスは高校卒業後に図書館の整理係になるような奴だった。大学に行かないで、時給500円ぐらいの本棚の整理係に就職してしまった。皮肉なことに、彼は本に対する興味は全くなかったようだ。趣味と言えば、音楽鑑賞と大麻ぐらいといったところだ。醜いチビでモテなかったタイプだったカーティスは、高校生時代に彼は彼女が二人しか出来なかった。二人とも後輩だった。(日本の習慣は知らないが、アメリカの高校では、歳の離れた後輩と付合う男子生徒(特に四年生と一年生が一緒になる場合)は幼稚と思われる。男なら、子供には興味を持たない筈だという考え方だ。)カーティスが持っていたのは悩み事ばかりだった。

だが、悩むことに慣れていたHは彼の悩みが非常に気に入ったみたいだった。常に危機を必要とするHにはぴったりな奴だったのかもしれない。共通の友達によると、カーティスと彼女は今でも話す程度につながっているそうだ。余談だが、ずっと小さい小さい町の社会では、断ちたいような人間関係でも断てないことが多い。

とにかく、彼女はそのカーティス野郎と付き合うようになり、六ヶ月後には奴と別れて、他の彼氏を探し始めた。次を見つけることは見つけたが、この彼はゲイだったから私は本当の彼氏とは認めていなかった。そして4年生の最後の学期になった時には、Hはまた『独身』になっていた。プロム(卒業ダンスパーティー)が迫っていた。アメリカでは春学期にあるプロムという三、四年生のカップルのパーティーが大イベントで、高校と言ったら世間はそれしか連想しないぐらいの大騒ぎだ。私は全然行きたくなかったが、プロムに行くのがHの夢の一つだということはよく知っていた。だから、私は彼女をプロムに誘った。一応別れても彼女のことを愛していたから、彼女の夢を叶えてあげるために誘ったと言えるだろう。だが、正直を言うと、同時に復讐も図っていた。

私たちは偶然に二人ともアーラム大学に行くことにした。別れていた間に、それぞれ互いの決断を知らずアーラムを選んだ。同じ大学に行くのだから、その先ずっと付合うということも当然有り得る。どうせ高校で一年間付合ったら、永遠も同じようなもんだ。少なくとも彼女はそう考えていたと思う。彼女が暗にそのような台詞を口にした時、私は反対の言葉を挟まなかった。彼女は騙されただろう。それとも、彼女が自分を騙していて、私はわざと何もしなかった、ということかもしれない。

信頼していた人に裏切られることくらい辛いことはない。彼女は私を裏切った。もし、別れた時点で正直に、直接「カーティスという男が非常に気に入って…」みたいなことを言ってくれたら、私は彼女を許すことができたと思う。でも、その時私が「やっぱり僕と別れるのはカーティスのせいなんだね」と聞いたのに、彼女はハッキリ「いいえ、絶対そうではないわ」と答えたのだ。

その別れの時の嘘が私に対して彼女の初めての嘘であった。私達二人は非常に親密だったから、プライベートな日記さえお互いに見せ合った。当時の私の日記は率直そのものだった。考えたまま書いていたので絶対誰にも見せないつもりだったのだが、彼女と付合い始めてから、彼女だけだったら良いではないかと思い始めた。

初めて見せたとき、彼女がすごく驚いたのは、彼女のことばかりでなく違う一人の女性について数段落書いてあったことだ。手短かに述べると、「彼女には悪いが、最近オナニーをするとこの女をどうしても考えてしまう。だが、この女は大嫌いだ。性的なことをしたら、嫌いな人ばかりを考えるのは不思議だな。」というような内容だった。今になって考えると不思議なことに、当時の私は本当にそれを彼女に見せても損はないだろうと思っていた。

でも彼女はこれを読んだ後、別に怒っていなかったようだ。私達はいつもお互いに完璧に正直だったからだろう。

私達の共通点は、自分と全く異なった別の精神を理解したい、という望みだった。哲学の用語を借りて言えば、ヘーゲルの「他人問題」を解決しようとしていたということだろう。人間の心は本人にしか解らないのだが、お互いに完全に正直に自分をさらけ出すことによって相手の内心を自分の中に結合するところまで近寄ろう、という考えだった。高校生によくあることではないか。

哲学的には失敗に終わったが、お互いに秘密はなかったから、二人だけで話すことが出来た時のことは今でも幸せな想い出だ。

だが、まだある。これは書くべきかどうかわからないが、私の彼女への怒りには今まで何も書いていないもう一つの理由があった。それは、一回だけでなく、二回私を裏切ったことだ。

別れてから六ヶ月後、彼女から電話があった。

「カーティスと別れたの。」と彼女。

私は「なんでわざわざ僕に報告する必要があるんだよ。」と答えた。

「もう一度付合いたいってわけじゃないけど、ただ、今友達があまりいないし、カーティスにふられてすごく傷ついてるから、誰とでも話したい気分なの。もちろんアンタは誰よりもあたしの愚痴を聞く義務がないんだけど。本当に悪いけど、お願い。アンタしかしかいないから。」

こういうだらしない現実に直面すると、一年前の私達の幸せが嘘のようだった。「いったい俺はあの頃何を考えていたんだ」と、それまでの関係全てを後悔し始めた。それでも、結局は彼女の愚痴を聞いてしまったのだ。

そのときでも私はまだ彼女が好きだった。でも、好きな気持ちばかりではなかった。憎みもあった。そして、彼女の話の途中で吐き気を覚えた。

「実はね、悪いけどさ、(これは彼女の口癖だった)、あたし、カーティスと○○したよ」

これには本当にうろたえた。カソリックで育てられた私は、無意識的に人間の価値というものは個々の性行動によって決まるものだと信じていた。そして、セックスに関しては、相手の人数が少ないほど善いのだと思っていた。神様の存在を疑っていた私だが、セックスに関しての規則は疑わなかった。

キリスト教の性についての考えでは、一般的に自分の体を『大切にとっておく』ことが望ましいと考えられている。

要するに、彼女は私とよりカーティスと進んだということだ。しかもたったの三ヶ月の付き合いで。彼女が私にこれを告げた時、「なぜ私にこんなことを告白しているのか」と考えたのと同時に、思わず聞いてしまった。「カーティスをそんなに大切に思ってるの?」

「そうでもないわ。」と彼女。

これには更に驚いた。「そんなに大切な人間ではないなら、なぜそんなことを?」

「その場の気分にのっただけなの。アンタにはわからないと思うけど。」

ある意味彼女の言い分は当たっていた。私には彼女の動機が全く想像出来なかったことは確かだから。

私たちは一年間半の付き合いの末に、いわゆる二塁(B)というところまで行っていた。当時はそれが私達の我慢力や善さの証拠だと思っていたのだ。

その頃やれば出来るのにやらなかったことをカーティスのような奴のために捨てるのは私には全くわからない行為だった。

私は普段電話で話しているとき、動き回る癖がある。ただ立っているのでなくて、話しながら歩き回らなくてはならないタイプだ。しかし、彼女のその話を聞いた時は、憤慨のあまり座り込んでしまった。

当時の私は混乱していて、その復讐が自己防御の本能からだったのか、彼女に自分の傷の痛みを思い知らせてやるためだったのか、今思い出そうとしてもハッキリしない。

ただ、他のことは殆ど考えられなかったのは事実だ。私は完全に絶望していた。その四ヶ月前には、Hと一緒に高校を卒業して、大学に行って、大学を卒業してから結婚して、幸せなハッピーエンドになるんだと。当時は本当に彼女の言葉を信じていた。別れたときでも、彼女を信じた。ただ言われた通り、彼女はしばらくの間自分の時間が欲しいだけで、他の男性なんかに全然興味はない、私だけを大切に思っている、と素直に信じた。

私は若かった。彼女とは初恋だったので、他に比べるような経験もなかった。友達の中でも、私はガールフレンドが出来たのが一番早かった。そして、両親に彼女とのことはあまり話せなかった。

その電話の会話の時から、それまでの愛がだんだん腐り始めた。その腐ったところから、嫌悪が芽生えてきた。それまで, 私は本当に彼女のため一生懸命頑張った。一年間半、自分のことは棚上げにして、彼女のことばかり考えていた。そのお礼に彼女は他の男性と性的な関係を持った。

男には誇りというものがある。お互いを大切にするとまで行かない場合でも、ある程度気を配らなくてはならない。だがやはり良い関係というのは、お互いの悩みを解決しようと努力することだ。互いに正直に夢を話し合って、一緒に将来を一緒に探す。

私とHはそういう信じられないような幸せな時期があった。にもかかわらず、後であまりにもひどい仕打ちを受けた。しかし、その仕返しについて書く前に、その幸せな時期について少し書いておこう。

この物語の中では悪人の一人になっているHだが、実際の彼女はあくまでも悪い人間ではなかった。Hと付き合ったことをきっかけに、私は長い間持っていた「小説を書く」夢を実現出来た。まだただの友達であったとき、何かの話のついでにHもいつか小説を書きたいと思っていることがわかった。励まし合って精を出し、八ヶ月後には私が小説を書き終えた。そのとき、私たちは既にデートをしているようになっていた。

自分でも驚いたことには、書き終えた小説はロマンスだった。私は一冊もロマンスを読んだことがなかったのに。小学校四年の時からずっとSF小説を書こうと思っていた私が、なぜかわからないがロマンスを書いてしまった。中学校時代に書いたSFの下書きは400ページ以上もあったが、結局違う方向に行ってしまった。ただ、Hの影響ではないと思う。私はそもそもロマンスの世界が嫌いであった。皆、愛に落ちると馬鹿になるから。そのうち、「良いロマンスというものはあり得るだろうか」と考え始めた。それから小説を書いた。しかしHはあの童話のような世界が大好きだった。

残念なことに、Hは自分の悩みで一杯で、アウトラインさえ書き上げられなかった。

私が初めて書いた小説は読むに耐えないものだった。完成した時には、自分の表現力の乏しさにうんざりしていた。

でも、大学二年生の時、もう一度その原稿を読んでみたことがある。自己批評に過ぎないが、そんなに悪くはない気がした。無論、これはあくまでも自分だけの気持ちだから、私が良いだろうと思っても他の人に見せるほどの作品ではなかった。

今でもその作品で好きな所と言えば、全体が日記式で、前半が男の子の視点から、後半が女の子の視点から書かれているのだが、真ん中で男の子が事故に逢い、後半を読み始める読者にはそこまでの主人公が生きているかどうかわからない、という構造だ。視点を変えることで、物語を進めるのはユニークな手法ではないが、視点を操って遊ぶのは楽しかった。

完成した作品はシングル・スペースで45ページだった。おそらく本当に小説と呼ぶには短すぎるだろうが、始めから終わりまで必要だと思うことは全て書いてしまったから、量を増やすために無理に書き加える必要はないと思った。

前の話に戻ろう。Hが最初に私をふったのは、私の部屋だった。ふられたという事実に加えて、これは全くの侮辱だった。

次に私の方から別れ話を持ち出そうと決めた日は、そんなことを繰り返さないように、散歩に誘うことにした。祖父母の家の後ろには、堤防に挟まれた川が流れていた。昔は鉄橋が架かっていたのだが、大手の自動車会社が鉄道会社を買い潰した後で、市が「安全のため」と称して取り除くことにした。

ただ、鉄橋の台座は頑丈なものだったので、取り除こうにも取り除けず、そのまま残っていた。だから、鉄橋はなくても、堤防の上からその台座まで歩き出て川を眺めることが出来るわけだ。ジョギングの途中で、よくそこで休憩したものだ。今ではどうなっているかわからないが、高校生の私にとっては本当にきれいな穴場だった。

Hをわざと散歩につれだして、そこで落ち着いて話題を持ち出した。

「H、大学に行く前に別れた方が良いと思ってるんだけど。」

「なに言ってるの?」

「実はね、悪いけどさ、僕たち、付合うのは二回目だよね。で、全部で二年位付合ってることになるだろ。でも、僕は君に納得がいかない点がいくつかあるんだ。これはどうにも避けられない現実なんだ。」

「そっか。でも、不満なことを言ってくれれば良いじゃない。だって、教えてくれれば、あたし、直すから。」

「いや、直せるようなものではないと思うよ。」

「どういうこと?」

「ちょっと言い換えてみよう。僕ら、まだ大学のことはよく知らないよね。」

「うん。」

「だから、大学で何が起こるか解らないのに最初から引っ付いていたら損だと思うんだよ。柔軟性がないから。」

「他の女とデートでもしたいわけ?」

「いや、そういうんじゃなくて、ただ、授業やサークル(注:アメリカのサークルは日本と別物だが、それは後で説明する)でどんなに忙しくなるのか解らないとか、そういう心配だ。」

「そうね。そうかも知れないわ。」彼女は泣き始めた。「でも、あたしたち、友達よね。ずっと友達のままでいたいわ。」

「ああ、それはもちろんさ。」彼女が「友達」をどんな風に考えているか知らなかったが、別に聞きたくもなかった。だが本当に友達でいくなら、それはそれで別に悪いことではないと思った。だから同意した。

実は、この鉄橋がない鉄橋は以前にもう一つの場面の舞台となっていた。その二年前、私が初めてHをそこに連れて行った時に、彼女が急に自分から「あなたと永遠にいたいわ。」と告白してきたのだ。当時の自分には全くそんな気がなかったが、彼女の言葉は信じた。カーティスとの事件が起こるまでは。

私の信じている正義はあくまでも「詩的正義」(因果応報)だ。その場でわからなくても、あとでゆっくり考えると「ああ、狡いことや悪いことをするとやっぱりそういうことになるのか」と思わざるを得なくなるような正義だ。

ロラと映画に行った…

映画を完成し、Hと別れて、まだ三週間ぐらい夏休みが残っていた。そのころ、友達は毎週火曜日にBW3'sというチキンウィング屋に集まっていた。実は、友達は毎日そこに行っていたが、私はあまり金がなかったので、火曜日だけでもキツかった。

火曜日の夜と言えば、クイズ大会だった。90分の間にいろいろな種類のゲームがあるのだが、簡単に言うとトリビア大会だ。参加するには手元のゲーム機に自分の通称を入力し、ログインする。ゲームが始まると質問がテレビに映る。答えをゲーム機に入力する。答えが早ければ早いほど、点数が高い。質問ごとに答えが表示される。最後に、テレビは点数画面に移る。これはこのレストランだけでなく、アメリカ全国の二万店ぐらいのバーとファミリーレストランの客を対称にした大会なので、競争が非常に激しい。特に「何でも知っている」と思っている若者の間では、ゲーム中に凄まじい雰囲気があった。だが、私達にはそんなやりとりが楽しかった。

いつの間にか同級生のロラという女の子が火曜日の大会に来るようになっていた。女の子はいつも数人いたのだが、ゲーム大会には参加していなかったから、私は無視していた。友達のうちに、礼儀正しくてハンサムでモテルのが二人いたので、彼等のファンクラブと言ったところだ。

どうやって私とロラが二人きりで映画に行くことになったのかは全然覚えていない。その時はちゃんとそれなりの理由があった筈なのだが。ロラは本当に頭が切れる女性だった。私は四年生の二学期まで学年で三番の成績だったのだが、最後の学期になってロラに追い越され、四番で卒業した。

四年生になるまでロラのことはあまり知らなかったが、四年生の物理の時間によく話すようになった。というのも、応用物理のクラスには先生がいなかったからだ。学校は先生不足で、先生は一般物理の授業にしかいなかった。名目上は同じ物理の先生が両方教えることになっていたが、同時の授業だったから、無理な話だ。おそらく教育委員会長は「あるものは二つの場所に同時に存在することができない」ということが解っていなかったのだろう。そんなわけで、私と二人の親友とロラとリサ、たった五人のクラスは教室の物置みたいな部屋で毎日遊んでいた。インターネットにつながったパソコンが三台あったから、暇つぶしをするには十分だった。

私達が観に行く映画は『X-Men2』だった。コミックのアクション映画で、真面目人間のロラがそんな映画に興味を示す筈はないと思っていたのだが、彼女は強い言葉で行く意志を伝えてきた。普段の彼女は非常に物静かな人なので、周りの言葉遣いなどあまり気に留めない私でもその時の彼女の強い言葉にはちょっとした印象を受けた。そんなに頭が良い女性が私の大好きなX-Menを同じように好きだとは信じ難いことだったが。

言っておくが、そのときは、これをデートとは思っていなかった。私はその映画をすごく観たかったし、もし友達のロラも同じ気分であれば、一緒に行った方が良いと思ったまでのことだ。その四年前に叔父がロラのことで「あの子は絶対お前が好きだろう」と言ったのを思い出した時は、ちょっと不安になったが、叔父はいつもそのようなセリフを口にしていたから、この意見は無視しても差し支えないと思うことにした。

ロラはサムという一学年上の彼氏と長く付き合ったことがあった。彼が卒業してから別れたらしいが、いくら彼女が「独身」でも、私達が大学へ行くまでにはたった三週間しか残っていなかったから、どうせ大学へ行くまではたったの三週間が残っていたので、そんな短い間にロマンスの機会はあり得ないと思っていた。

卒業した頃になってもそんなふうに考える私は、女性に疎かった。ある女の子が私を好きになっても、私は彼女の気持ちに気付かなかった、ということがよくあった。例えば、幼稚園のとき、一番の親友だったアッピーが、ある日「話したいことがあるから電柱の向こうへ行こうよ」と言うので付いて行った。放課後が始まったばかりのところだった。電柱の後ろに着くと、彼女は私の肩を掴んで、オデコのど真ん中にキスした。キスした途端、走ってうちへ逃げて行った。これは私にとっては大変なショックだった。私はもちろんアッビーのことが好きだったが、アッビーも私のことが好きなんて夢にも考えていなかったからだ。ちなみに、それが私のファーストキスだった。

八年生(日本の中学二年)の時には、超美人のケイティーが何回も人前で私に愛を告白しに来た。私はケイティーは自分のような者を相手にするタイプではないと信じていたのであくまでも冗談だと思っていた。いつまでも私が取り合わないので、ケイティーは最後には泣きながら逃げ出してしまった。

よく考えてみると、七年生の時、ウィトニーもおそらく私のことが好きだったのだろう。私の卒業アルバムにそれらしいことを書いてくれたが、気付くには遅すぎた。彼女はとても良い人だった。中学校時代、私は毎日数人の脳足らずのスポーツ系の奴らにイジメられた。ウィトニーはそういった奴らの何人かと同じグループにいたにもかかわらず、いつも私のことを支持してくれようとした。自分は別に一人で大丈夫だと思ってたにせよ、それにしても彼女の優しい言葉はいつも有難かった。一番ひどかったのは数学の授業の時間で、ここでは私をバカにする仲間に先生までたまに加わるような始末だった。(ちなみに数年後この先生は解雇された。)知識を求めている生徒をバカにするなど無論教師として失格だが、スポーツのコーチをやっている教師によくある悪い癖だ。ウィトニーは、そんなひどい先生にも立ち向かって、私に親切にしてくれた。彼女は勇気のある女性だった。私も彼女のことが気に入っていたが、彼女がチアリーダーをしていたということに対する自分の偏見のせいでなにも形になるような行動をしなかった。今思えば、これは私の大失敗だった。

高校四年生の最後のスペイン語の授業で、あまり親しくない女の子の一人からも告白された。「でも、あなたのご両親は人種を気にするだろうと思って(彼女はラテンアメリカ系だった)、今まで声をかけようにもかけられなかったの。」と言われた。これはどうも妙に思えた。私の両親はそんなことなんか気にしない。父の11人の兄弟のうちに四人は養子だったし、その四人の一人は彼女と同じラテンアメリカ系の女の子だった。もちろん彼女がこれを知る筈はなかったが。それに私は両親の意思に素直に従うこともあまりなかったし、本当に私のことが好きならもっと早く行ってくれれば良いじゃないか、と思った。でも、彼女のことを恋愛相手としてあまり考えたことがなかったから、結局は最後になるまで声をかけられなくて良かったのかもしれない。

社会科の政府機構のクラスにも、私と親友のロスに憧れているという女性が三人いて、私達二人の「赤ちゃんを産むファンクラブ」と名乗っていた。これは無論冗談だったが、いくら政府に全く興味がない人達はそんなことで遊んでいる方が楽しいのだといっても、アメリカの将来を考えれば嘆かわしいことだ。

ロラの家まで迎えに行って、それから映画館へドライブした。市内から大分離れた格安の映画館だったから、30分ほどかかった。アメリカでは「再映劇場」(封切りから二、三ヶ月位たった映画を見せる安い映画館)がたくさんあるのだが、この映画館は火曜日にはたったの五十セント(五十円)で入場することが出来たので特に格安だった。2003年に普通の映画館の入場料が8ドル(800円)だったから、50円で済むのは大変素晴らしいことだと思ったことだった。

『X-Men2』はとても良かった。コミックスからの映画化がよく出来ていた。完全に満足だった。でも、ここではそんなことはどうでもいい。この話に大事なのは、映画のあとのほうだ。

映画館から出て車に戻る時、「あたし、ちょっと寒いわ」とロラが言った。七月だったので、夜が涼しくても寒いというまででもないと最初は思ったが、すぐに、はっと、彼女が伝えようとしていることに気が付いた。

そこで私はとんでもないロマンチックなセリフを口にした。いま考えてもあまりにも恥ずかしいので、ここではその言葉を繰り返さない。

それで抱きしめようとしたのだが、彼女は私の肩を引き寄せて、強引にキスをしてきた。ちょっと笑い合った後、混乱していた私はもう一度、今度は自分の方からキスした。キスをするしか反応を思いつかなかった。

だが、駐車場でイチャイチャするのは嫌だったので、もう一度ドライブすることにした。

彼女の手を握って、ゆっくり話すことができるところはないかと考えながら運転したのだが、既に午前一時半を過ぎていたから、適当な場所は思いつかなかった。結局、彼女の家に直接帰った。しかし、帰る途中の会話は盛り上がった。彼女の家に着いてからドライブウェーに車を停めて、楽しい話を続けようと思ったのだが、エンジンを切った直後に、彼女が私の肩を掴んで、強くキスをしてきた。両親の家のドライブウェーでこんなことをしてて良いのかと一応気になったが、いつも真面目な彼女が全く本気のようだったし、私も彼女のことが好きだったから、結局we made out。しかも二時間ほど。すぐもう一度映画に行く約束をした。それから、お休みの挨拶を交わすのにも大分時間がかかった。

やっと私が家に戻った時には四時を過ぎていた。普通に帰ってきたつもりだったのだが、車のドアを閉めた途端、父が家から飛び出してきた。「お前、一体なにをしていたんだ?大丈夫か?」

いつもは屈託のない父の心配そうな顔を見ると、不安になった。「いや、大丈夫よ。映画から帰ってきたとこだよ。」

これはどう見てもうまい答えにはなってなかった。

「嘘をつくな。」と父が怒鳴った。静かな夜に父の声が物凄く声が響き渡った。「映画は三時間前に終わったはずだ。一体今まで何してたんだ。答えろ。ついさっき、町中の病院の救急室に電話したんだぞ。」社会事業の仕事をしていたから、おそらくこれは本当だった。

これには私もたじたじだった。言葉が出なかった。なぜこんなことになってしまったのかまったくわからなかった。ただ、頭の中で思った。「父さん、今夜僕は綺麗な女性と夜に映画に行ってたんだよ。帰りが遅くなったからって、なんで事故しか考えつかないんだよ。僕がそんなにクソ真面目だと思ってるの。事故と言えば言えるかもしれないけど、そういう事故じゃないよ。」そう思いながら、父の言うことを黙って聞いて、素直に謝った。とにかく、そんなに遅く帰ったのは悪かった。

「お前のお母さんにも電話したよ。明日彼女にも謝ってくれ。」

これは参った。両親が離婚して以来、父が母に深夜に電話をかける何て、私が知っている限りなかったことだ。「冗談も程々にして欲しい」と思ったが、父が本気なことはよく解っていた。父はひどく疲れていたようでそれ以上説教はしなかったが、翌朝の見通しは良くなかった。

次の日、父はただ「お前、遅くなる時はちゃんと連絡してくれ」としか言わなかった。その代わりに、母の説教が始まった。母に言わせると、この問題の原因は私が携帯電話を持っていなかったことにあるそうだった。実は数週間前に、大学入学の贈り物として、祖母がわざわざ私のために携帯を買ってくれたのだが、悪いと思いながらも、私はこのプレゼントを拒んだのだった。

私は電話が大嫌いだ。どこでもいつでも鳴る携帯電話は更に嫌いだ。携帯電話を持っているというだけで、、両親をはじめ、皆が好きな時にかけてきて、私が出ることを期待するからだ。留守の場合でも、すぐにかけ直すのが当たり前だと思っている人が多い。何よりも私の腹が立つのはそうした通話の内容が取るに足らないことばかりだということだ。

一つ例を挙げてみよう。現在父と妹二人は携帯を持っている。バスケットの試合を観に行く時など、同じ体育館の中でもコミュニケーションは全て携帯で行われる。事前に待ち合わせの場所を決めることもない。会場についてから電話をかけ合って集まるわけだ。携帯を持つようになって、人々は予定を立てないようになってしまった。携帯があるからいつでも連絡が出来ると思っている。遅れても問題はない。携帯から知らせれば済む。

でもやはり、私はお互いが遅れないように気を配って欲しい。それに、馬鹿みたいな連絡も聞きたくはない。私は何をしている時でも、それだけに集中したい。携帯の連絡がいつでも来る可能性があるから、携帯を持っていると、いつでも連絡が来る可能性があるから、たまには受信歴を確認しなくてはならない。でも、そんな責任は欲しくない。だから、携帯は役に立つものとは思わない。以上、私の異議である。

数日後、もう一度ロラと映画を観に行くことにした。でも、今回は比較的に早く騒ぎを起こさないように帰った。

今度は前期と違って、今回は最初から彼氏らしく振る舞うように頑張った。そして、最後に、「付き合ってください。」と言った。

彼女は私の願いを聞き入れなかった。これは当たり前だった。ロラの言い分は正しかった。私達は離れた大学に行くことになっていたのだから、そのたった二週間前に付合い始めようというのは馬鹿な話だった。もう、私達には時間が残されていなかった。正直な所、私も彼女と付合いたいという願いと同時に、そうしたくない思いもあった。ただ、気持ちの上でちゃんと言っておかないとすまないと思った。

彼女は私の申し出をやんわりと断った。彼女が断る理由を説明するのを聞いていて一つ妙に感じたのは「Hのこともあるでしょう」という言葉だった。不思議なことに、私は長い間付合ったHのことをもうすっかり忘れていたのだ。実のところ、Hと二回目に別れてからはすっかり良い気分だった。

私はロラのことが好きだったが、本当に恋愛的に好きだったというよりは尊敬していたという方が正しいかもしれない。彼女は競争心が強く、しかも誰かをやっつける時でも必ず丁寧に礼儀正しく振る舞うような人だった。そういった点で、私は彼女に完全に負けていた。彼女は物静かな、優しい人で、愚痴をあまり言わない性格だった。ただ、あまりに真面目すぎて親しみにくいタイプでもあった。そして、残念なことに、私達のユーモアの感覚には大分ズレがあった。

ともかく、大学に行く直前の短い時間をロラと過ごせることができたのはとても嬉しかった。この短いロマンスを通じて彼女とお互いに励まし合ったことで、高校から大学への過渡期にけりがついた。

八月の冒険

アーラム大学には、古くから入学生のための「八月の冒険」というプログラムがある。「山」と「水」の二種類の冒険があって、どちらも入学式直前の三週間に渡って行われる。山の冒険はユタ州のユインタス山脈のバックパッキング旅行で、水の冒険はカナダの川のカヤック旅行だった。

私は小さい頃からずっとバックパッキングをやりたかった。ハイキングが好きな私はキャンプに行くために、ボーイスカウトに入った。でも、キャンプというのは建前で、本当の目的はバックパッキングだった。そしてとうとう私が高校生の時、私の支部はニューメキシコ州にあるボーイスカウトの専用施設で2週間ほどバックパッキングをすることになった。即座にこれがチャンスだ、と思ったのだが、両親に話すと「絶対ダメ」と言われてしまった。しかし、友達は皆行くことになっていたし、もう一度両親に詳しく説明しようと思って、数日後にまた話を持ち出した。そうしたら、母は物凄く怒って、「そんな大金がどこから出てくると思ってるのよ」と皮肉たっぷりに言った。

だが、大金などいうほど大げさなことではなかった。砂漠でバックパッキングするするのだから、そんなにお金はかからない。それに、弟だってアイスホッケーをやっていた。思わず「大金と言えば、アイスホッケーなら良いんでしょうか」と言い返してしまった。あまりに心が痛くて、そんな口答えをすることしか出来なかったのだ。

もっと辛かったのは、両親が費用を全部出す必要はなかったのに、こんな形で否定されたことだった。自分のアルバイトで稼いだ金で、既に半分位は貯金があった。私が両親から貰いたかったのは、旅行許可書の署名だけだったのだ。しかし、そのペンをちょっと動かせば済むことさえやってもらえなかった。

だから、両親の許可がなくても行けるアーラム大学の「冒険」は喉から手が出るほど行きたかった。入学を決定してから歓迎と入学準備の説明が届いたと同時に、「山」コースを申し込んだ。

費用はちょっと高かったが、自分のアルバイトでせっせと貯金していた預金では十分だった。しかも、折よく特別奨学金をもらったので、半分しか払う必要はなかった。

出発はキャンパスからということになっていた。しかし、大学から連絡には細かい情報が書いてなかったので、どんな交通手段でユタまで行くのかさえわからなかった。それで、キャンパスに着いたとき、隣に座った学生に聞いてみた。彼女は「多分飛行機でしょ。だって、車じゃあ、ユタまでは40時間ぐらいかかるもの。」と答えた。

キャンパスで父と別れの挨拶をしたとき、父が想像していたより悲しそうにみえた。あの、ジェシーの家から遅く帰ってきた夜のように、心配に溢れる顔だった。父を元気づけるような言葉はかけたものの、私達がこれからどんどん離れていくことはよく分かっていた。実は高校時代の私と父はそんなに親しくない関係だったので、その間に逃したチャンスを後悔する気持ちもあった。

すぐオリエンテーションが始まった。プログラムのリーダーが自己紹介した。「皆さん、おはようございます。ネーサンです。」と彼は言った。アーラム大学では、教授でも肩書きに捕われずに直接名前で呼び合う習慣がある。これは、アーラム大学を成立したクエーカー教徒達の、肩書きに頼らない質素倹約な生活への信奉に基づいた習慣だ。

彼は続けた。「皆さんの中にデオドラントを持ってきた人も居ると思うが、それはここにおいて行きなさい。冒険から戻ってから必要だろうが、これから行く所ではいるものじゃない。なによりも、荷物を軽くすることが大事なんだ。」と言った。私の心は踊った。本当の冒険だなと納得した。

ただ一つ困ったのは、コンタクトレンズのことだった。一枚が寝る直前に目から落ちてしまったのだ。寝る時間直前、一枚は目から落ちてしまった。よく探したが、結局見つからなくて、不安だったがそのまま寝てしまった。

翌日の朝、目が覚めたとき、自分の頭のすぐ隣に転がっていたレンズを見つけた。もう、遅すぎるだろうと思ったが、とにかく溶液に入れた。

出発は、飛行機でなく、バンだった。十二席のバンに十二人の学生で、さすがにすし詰めになった感じだった。でも、この冒険を大変楽しみにしていた私は、たとえバンはギュウギュウ地獄でも三日間耐え抜く覚悟が出来ていた。

最初の夜はカンザス州の州立公園にキャンプした。グループの中の一人の誕生日ということで、リーダーは出発前から準備していたケーキを出してきた。誰かの誕生日が旅行中にあたるかどうか、事前にちゃんとチェックしていたのに感心した。

そのとき、自転車に乗っていたおじさんがキャンプ地に現れた。「おい、あんたら。インディアナ州から来たんじゃろう?」それぐらいは大学のバンに書いてあったから、別におかしくに思わなかった。

「ええ、そうですが。」と一人の学生が言った。

「あんたら、キリスト教徒だよね」と彼は続けた。彼がしらふで言っているのか酔っているのか私には判断できなかった。

「ええ、アーラムはクエーカーが建てた大学ですから。」とリーダーのネーサンが受け返した。

「なら、どうしてここで誕生日のお祝いなんてやってるんだね。」と彼は聞いた。

「我々はオリエンテーションプログラムとしてユタ州で三週間バックパッキングをしに行く途中です。この活動は二十年ほどやっています。」とネーサンは言った。

「だが、この娘の誕生祝いなんでやってるどころじゃなかろう。そんな暇なことをしてちゃいかん。あんたらには神様から与えた義務がある。イエス様のことを皆に教えなくちゃ。」

「誕生日ぐらいは許されるでしょう。神様は私達が幸せな想い出を作ることも期待していると思いますよ。」と一人の女性が割り込んだ。ネーサンは苦笑した。

「それは大変な間違いだよ。いい若いもんがこんな所で騒いでるなんて許されない。あんたら皆、地獄に堕ちるぞ。」と彼は大声で宣言した。

彼は確かに酔っていた。だが、彼を酔わせていたのが酒だったのか信仰だったのかは今でもわからない。

そのあと、ネーサンが少し彼と話して、何とか追い払うことに成功した。彼はようやく行きかけたが、振り向いてもう一度、「お前ら、地獄に行くぞ」と叫んだ。そのとき、彼は乗っていた自転車から落ちてしまった。こういうのを「神罰」という。とんでもないことを言ったりしたりすると、すぐに神様が反省を促すために失敗させるという迷信だ。

彼が落ちたとき、思わず笑ってしまった。無論これは笑うべきではんかったことだが、私はそれまでの場面をまるで映画のような気分で見ていたので、笑わずにはいられなかった。笑っていけないときに笑うのは私の悪い癖の一つだ。他の学生のほとんども笑い出したが、すぐネーサンに注意された。

それから夜の準備をした。準備と言っても、寝袋を広げるだけだった。ここでびっくりしたのは、テントが用意されていなかったことだ。防水シートはあったが、それはあくまでも上から被せるだけのものだったから、雨の時にはそんなに役に立たないはずだった。(実は、私達の持ってきた防水シートは漏れやすいタイプだったので、全然約に立たなかった。)

ともかく、星いっぱいの空の下で、変なおじさんのことを考えながらいつの間にかまどろんでいった。

やはりテントがないと朝が来るのが早い。午後になって起きるような生活に慣れていた私にとっては辛かったはずだったが、この旅行が出来ることが本当に嬉しかったので、五時でも平気だった。

冒険の中心はユタということになっていたが、行きすがりにワイオミングで一日岩登りをした。岩登りは初めてだったが、小さい頃からやりたかった私には大変楽しい想い出になる経験だった。ただ、嬉しさに興奮していて、「気をつけろ。無理するな」とネーサンに注意されることもあった。

ユタのことを書く前に、この旅行の一つの特徴であったコンセンサス・ランチ(合同全員一致の昼食)というものについて一言書いておきたい。まず、昼休みにどこかのスーパーでバンを止めてスーパーで休息して、リーダーが学生一人ずつに二ドルを配る。それで何を買って食べるかは自由なのだが、勿論たったの二ドルでランチが買えるわけはない。(ちなみに、たいていのアメリカのスーパーでは弁当など売っていない。)

コンセンサスというのは、皆が意見を交わしながら達する、全員が納得出来る決断ということだ。このランチの場合、好きな食べ物によってグループに別れたうえで(A大学の学生の中には、菜食主義者、またはべガンの人もかなりいる)、各グループの中でコンセンサスを求めて買い物を決めるわけだ。

最初は案外うまくいった。しかし、まだ話を先に飛ばすと、最後までそうは行かなかった。帰りの旅になると殆どの学生は自分の二ドルで自分だけが食べたいものを買うようになった。二ドルはお菓子二つしか買えない額だが、三週間ずっと全ての食べ物を皆と一緒にしていたから、文明社会に戻った途端に自然に身勝手な欲が出てくるのだった。もちろん、同じ仲間と四六時中鼻を突き合わせて三週間以上も暮らせば、コンセンサスが嫌になるのも無理はない。だが、これは帰りのことだ。このまま続けると話がめちゃくちゃになってしまいそうなので、ユタに着いた時点に戻ろう。

バンで三日間の旅の末に、ユタに辿り着いた。アメリカ中西部でユタと聞くと砂漠とモルモン教徒しか連想しない人が多いと思うのだが、ユインタス山脈の辺は森林や草原、緑たっぷりのところである。そして、岩と石。森林、山、草原、どこへ行っても、岩石が点々としていた。バックパッキングに慣れていない私のような者には、これは言うまでもなく非常に危なっかしい状況だった。

山の冒険に参加した学生は二十五人位で、それに上級生二人と教授一人、合わせて三人のリーダーがついていた。最初の十二日間は二つのグループに分けられて、私は赤髭の教授と先輩リーダーがひきいるグループの方だった。多分、野外生活の経験が比較的乏しい学生のグループだったのだろう。

この十五人のグループは、食事や野営の準備のために更に四、五人の班に分かれていた。私は後に親友になった「共謀者」TとG坊主という二人の男性、そしてマリとマリアという二人の女性と一緒の班になった。何故かは知らないが、A大学の行政当局は似たような名前の者を同じ部屋とか組に入らせる癖があった。

共謀者TとG坊主とマリアは私と同じくインディアナ出身だった。マリも隣のイリノイ州のシカゴから来ていたので、それまでの経験は異なっていても、育てられた環境にはそんなに違いはないようだった。

共謀者Tは既に二年間を既にコミュニティー・カレッジで二年間勉強してきた先輩だった。アメリカでは、高校の成績があまりよくない場合、コミュニティー・カレッジに二年間通っていい成績を取れば、それから四年制の大学に編入を申し込むことが出来る。共謀者Tはそういう編入生の一人だった。そして、名の通りいろいろな陰謀に絡んでいたが、それについては後で説明する。

G坊主は背が低く、いつも笑っている男だった。彼は宗教に熱心だったが、信心深いアメリカ人には珍しく、熱心の割に偏見は持ていなかった。哲学にも興味を持っていたので、私達はすぐ親しくなった。

マリも世が低かったが、彼女には誰にも負けない強さがあった。精神的な強さばかりではなく、肉体的にもバッチリだった。筋肉不足の私がバックパックの重さに根をあげていたある日、私の弱さを笑いながら、荷物の一部を背負ってくれた。本当に良い人だったが、マリは一年後にA大学を去ってしまった。

マリアの方は一言で言うと、几帳面な人だった。彼女は自然のまっただ中でも腕時計をはめたままだった。常に時間を気にしていて、私と全く合わない性格だった。責任らしい責任が欲しいタイプでもあったので、私達五人の班長になった。

赤髭の教授が言うには、最初の日は最初ということで、出発は早くとも歩く距離は次の日からに比べてごく短くするということだった。しかしこれは大嘘だった。その日は三週間の中で一番長い距離を歩かされた。坂道を十四マイルほどバックパッキングして、一マイル登った。夕方には疲れで死んだ気分だった。もう、明日は歩けるかどうかさえ不安でいる所へ、「ああ、ご苦労様。今日は一番大変な日になってしまったね。でも、これから後は楽になるから、心配するんじゃないよ」と教授に言われて、自分が死ぬよりも彼の方を殺してやりたい気分になってしまった。なぜこんな嘘を付くのだろう。こんなことを言えば私達学生の意欲をかき立てられると思っているのだろうか。

ある意味では、これはA大学のオリエンテーションとして完璧なものであった。A大学の管理局もよく「学生のために」真実をわざと隠し、デタラメを吐き出した。

出発から五日目のことだっただろうか。三時頃、予定されたキャンプ場に辿り着いた。大きな池のすぐ近くだった。私を除いて全員、すぐに服を脱いで泳ぎに行った。私は子供の頃から裸になることがどうしても恥ずかしかったし、誰か夜のたき火用の薪を集めなければならないので、一人で残った。一時間位枝拾いをして、キャンプ場で持ってきて、炊事の準備を済ました。

皆が池から帰ってくると、さっそく晩飯を作り始めた。私とG坊主の番だったが、冗談をふざけながら仕事をしていたので、何かに大笑いした拍子に火にかかった鍋をひっくり返して地面に落としてしまった。余分な食料はなかったから、仕方なくこぼれた分を手ですくって鍋に戻した。それで『泥んこシチュー』という名物が出来てしまった。これは私達男性軍にとってはさらに笑いの種だったが、女性軍には受けなくて、バカにされた。

いつの間にか、お互いを笑わせている私とG坊主はこの冒険が終わる前に、一緒に大ジョークを作ろうと決めた。私とG坊主はいつもこんなふうに冗談を言い合う仲になっていたが、そのうち、この冒険が終わるまでに一つ、大ジョークを共作しようということになった。それに付いて決めた条件は三つある。一つは当時の米国大統領ブッシュを主人公にすること、もう一つは言うのに最低十分かかること、最後は落ちに「Now that's what I call a mouthful of Bush.」という文を使うことだった。長さは自分たちにとってのチャレンジというだけでな、いつも時間を気にしているマリアを冷やかすためでもあった。

一説によると、三週間も自然の中で暮らしていると、たいていの人間は多かれ少なかれ文明離れをし始めるのだそうだ。せめて少なくとも、くだらないジョークが嫌いなマリアはそう思ったマリアは私達のことをそんなふうに見ていた。だが、どう野蛮に見えようとも、私達に取ってはこれが普通のあり方だったのだ。正直な者はどこへ行ってもあまり人は変わらない。一度マリアにそう言ったら、「くだらない者もそうかしらねぇ」と言い返された。でも、マリアのことは結構気に入った。というのは、私は議論を通してストレスを解消するタイプだから、議論の相手がいないとかえってきちきちになってしまうからだ。

しかし、こうして自然に長くいるうちに正直な者でも話し方や話題がどんどん変わってくる。三週間の間、グループ以外の人間には三人しか会わなかったので、始めは赤の他人同士だった私達はすぐ親友になった。前に書いたように、笑い話もたくさんあったが、日常の付き合いでは絶対に出てこないような話も結構あった。今でもよく覚えているのは、ある晴れた日に、女性達がレイプや性的虐待とかいたずらを受けた経験について話し合ったことだ。もちろんここでは彼女らの話の私的な内容には触れないでおくが、このような話題の妥当性云々はさておき、言論の自由を尊重するアメリカでも普通は口に出さないようなことなので、皆の率直な発言に驚かされた。

神秘的な経験もあった。ある日早くキャンプ場に着いたが、殆どの学生は疲れていたので全員休憩ということになった。だが、私はまだ元気だったので、班の男達と赤髭の教授と一緒に丘に登った。丘の天辺には、大昔の氷河によって形成された、それまで見たこともないほど美しい湖があった。深さは四、五メートルといったところで、底に魚がくっきりと見えるほど澄んだ水だった。

私は一人でこの湖を数十分眺めた。それから、丘の平面から遠くの森林と谷を見渡した。そのとき、風に囲まれてそこにたっていると、「これこそ神様だ」という気がした。宗教心のある人だったら当たり前のことだろうが、信仰の名残しか持っていない私には不思議な経験だった。とにかく、キリスト狂の唯一の神様と違って、私が見た一人の神様はユーフォーのようなもんだ。誰にも見えないユーフォーだが。

バックパッキングをしていると、そのうち歩くことさえ大義になってくる。元気を出すしかない。元気がなくては続けられない。同時に、五感が鋭くなってくる。普段ならまずいと思う食べ物でもお腹が空いている時には非常に美味しくなる。だが、何よりも大切なのは、バックパッキングの目的は歩くことだけで、外部からの圧力は一切ないということだ。この自由を一度でも味わうと人生観が変わる。

話がちょっと抽象的なところへ来てしまったので、冒険の方へ戻ろう。

なぜかわからないが、私は子供の時からずっと火が大好きだった。しかし、残念ながら、火を作るには安全規則というものがある。それに、ユインタスは自然保護区域だったから、火に関する注意事項が多かった。私は出来るだけ規則を守ろうとしたが、それでもある日、「おい、火が高すぎるぞ。潰せ。それ以上薪を足すんじゃない。」と赤髭の教授に注意されてしまった。しかし、私の火遊びが役に立ったこともあった。皆が疲れていて薪集めをしたくない時にはいつも私がそれを買って出て、立派な火を作った。

自然保護区域のこぼれ話をもう一つ。自然保護区域にはちり紙を持ってきてはいけないため、現場調達しかなかった。私は植物の葉っぱを使った。だが、その地域には毒性のある植物もけっこうあったので、葉っぱを探す時はいつも不安な気分だった。赤髭の教授は松かさを薦めたが、見るからに硬そうなので使う気にはなれなかった。

悲惨な事件もあった。ある日、他のグループが、私達と同年代の女性が祖父母と歩いているのに出会ったという話を聞いた。ユインタスで人と出会うのは珍しいことだが、その後なにも事件がなかったら、多分この女性のことはすぐに忘れてしまっただろう。しかし、数日後に彼女のことを聞いてから、大嵐がやって来た。その日をハッキリ覚えている。山の峠を越えるには、午後一時まで位なら大体安全だが、それを過ぎると嵐の危険が非常に高くなる。その日、のんびりと動いていた私達が山越えをしたのは二時頃だった。まだ山にいる間に、雨がピシャピシャ降ってきた。麓に到着する頃には、風が物凄く強くなって、さんざん降りの雨だった。私達は林の中に雨宿りをして、冷たい雨がやむまで十時間位待った。その雨の中で、私と共謀者TとG坊主は奮戦して皆のため火を作った。

その大嵐の日に、他のグループが出会った三人連れが遅くなってから山越えをしようとして孫娘が落雷を受けて死んでしまったということを、冒険の旅が終わった日に新聞で読んだ。この偶然と言えば偶然のような出来事をどう受止めたらいいのか、今でも分からない。私が四年A大学に通った四年間にも、私と同年代の人が三人亡くなった。この女性の場合は実際に会ったこともない他の大学の学生か職員だったので私からは離れた存在だったと思われるかもしれないが、同じ山脈でバックパッキングをしていて同じ大嵐に会った人間として、その日死ぬのは彼女でなくて自分だったのかもしれないという可能性を率直に認めないでは済まないと思っている。

五日目のことだっただろうか。「皆さん、7時15分です。出発は7時50分になっていますから、早く朝ご飯を食べて、準備しましょう。」といつも通りのマリアの宣告で始まった。

出発時間になると、「今日、何か特に話しておくことはありますか」と赤髭の教授が皆に聞いた。

「はい」と私はさっそく答えた。「せっかく自然の中に来ているのですから、もう、現在の時刻とか予定とかを気にしなくてもいいと思います。皆さんはどう思いますか。」

「時間に気をつけていなかったら、遅れてしまうわよ」とマリア。

「でも、そもそも『遅れる』っていうのがどういう意味か考えてみなくちゃ」とG坊主。

「皆の考え次第だな。私は時間を気にしようがしまいがどっちでも良い。投票でで決めなさい。」と赤髭の教授が提案した。

結局、時計の針の動きを気にしていたのはマリアだけだったようだ。

今の私はいつもパソコンに向かって時間を気にするような生活をしている。時間に縛られた自分が嫌なことには変わりない。だからこそ、大自然を旅している間に時計に拘束されるのは御免だった。マリアが甲高い声で時刻を告げるのを止めた日から、私はようやく落ち着いた気分になることができた。

十日目のことだったろうか。山に登る日が来た。バックパックを麓において、頂上へ向かった。雲が少なかったおかげで、素晴らしい眺めだった。皆で写真をたくさん撮った。ちなみに、冒険旅行が終わった後で皆の写真を集めて、スライドショーを作ったのだが、保護者達に披露した時に、頂上から突き出た岩の上であともう一歩で転落死になりかねないような端に立って下界を見下ろしている男の子の写真が出てきた。それを見た途端に母が思わず口を開いた。「あの馬鹿はどこの子かしら。たかが写真のために、あんな危ない所まで行くなんて。」実はその写真に写っていたのは私だったので、「ああ、あれは写真のためだけじゃなかったんだよ」と説明した。母は「あの子」私だと分かった瞬間、私を殴って、真っ赤になった。

それはともかく、山から下りる時は石が多くて大変だった。私は速く歩きすぎたせいで、石に足を取られて転び、捻挫をしてしまった。立ち上がってみると、右足に体重をかけられないのが分かった。

二人の友達に支えられながら、皆の所へ戻った。赤髭の教授は私を見るとすぐ見るや否や矢継ぎ早の質問を浴びせてきた。私が説明し終わると、教授は拾ってきた枝で松葉杖を作ってくれた。それから三日間、私はバックパックを背負いながら松葉杖で進んだ。思ったほど難儀ではなかった。

軽い怪我で済んだことは何よりも有難かった。もう一つのグループの方では、リーダーがひどい風邪にやられて、途中で帰ることになってしまった。旅の真ん中の日に、馬に乗ったカウボーイが食料を持ってきてくれたので、その彼と一緒に戻ったわけだ。

ちなみに、事前に大学から保護者に送られた説明には、「不意の事故等に備えて衛星電話の準備もありますので、ご安心ください」などと書いてあった。しかし、これも大嘘だった。衛星電話があったのは本当だが、文明から遠く離れたユインタスでは使い物になる筈がなかった。赤髭の教授にも聞いてみたところ、「ああ、あの電話?あれは、使える所まで行き着くのに二、三日はかかるな。もし本当に事故が起きたらヘリを呼ぶべきなんだが、電話が通じるまでに時間がかかりすぎるから、実際の話としては応急手当しかないということになるな。」と白状した。

十五、六日目には独りで反省する時間が与えられた。赤髭の教授に貰った「糧食」の小さなプラスチックの袋を持って、一人ずつ別の所へキャンプした。しかし、その袋にはたったの一握りの食料しか入っていなかった。私は自分を抑えて二時間ごとに一口食べるだけにしたが、それでも最初の一日で殆どを食べてしまった。

自己反省の一つの手段として自分宛に手紙を書くことになっていたが、書いた内容は誰にも読ませないという決まりだった。独りの時間が終わると、赤髭の教授は「約束通り内容は読まないが、集めて保管しておこう。そのうちいつか、君らが一年生の間に、送ってやるから。」と説明した。

私は七頁を越える手紙を書き上げた。二日間たいした食べ物もなく、書く以外にやることがなかったからだろう。

そして、寝た。お腹が空いて痛いくらいだった。最初は眠りにつくにも相当な苦労をしたが、二日目になるともうもうペンさえ持てない位疲れていたので、横たわってうとうとしていた。

「おい!大丈夫か!」と赤髭の教授の叫び声が聞こえた。一体何事か、と思ってすぐ立とうとしたが、体がいうことを効かなかった。

教授は「おい!食べろ!」と私にジャーキーを渡した。二週間に初めてありついた肉だった。それを口に入れた途端、全て思い出した。私はユタ州にいる。バックパッキングの旅をしている。昨日は自分への手紙を書き上げた。そして、空腹のあまりずっと寝ていたのだ。

「君を見つけた時は、まさか死んだんじゃないかと思ってしまったよ。」と赤髭の教授は私に告白した。「人を脅かすんじゃないぞ。大丈夫か?」

「ええ、お腹が空いただけです。」

「なら、今夜は楽しんでくれよ。カウボーイがまた食料を持ってきたから、ご馳走が待ってるよ。」

そのご馳走は、チーズだった。本当に美味しかった。

食べ物の話といえば、私は子供のころからずっと母に「食品の消費期限をしっかり守らなくてはいけませんよ」と厳しく言われていた。だが、この冒険で、この「消費期限」というのは嘘のようなものだと分かった。例えば、チーズを冷蔵庫に入れておかないとカビが生えるが、ナイフで切り落とせば残りを食べても害はない。病気になることもない。これは当たり前のことかもしれないが、うるさい母に育てられた私にとっては大きいな発見だった。

最後の四日間は一旦全参加者が再会してから、新たに三つのグループに分かれた。それから歩く距離によって分かれたので、普段の私なら一番きつい旅程のグループに参加する所だったが、まだ足のことが心配だったから、短い距離を歩くグループに応募した。そのグループには男性は私と共謀者Tの二人しかいなかった。他の十二人位は皆女性だった。たいていの男なら嬉しくなるような話に聞こえるかもしれないが、歩いてきた仲間だったので、異性同士というよりは兄弟姉妹という感じだった。

しかしこれは私が勝手に彼女らを姉妹扱いしたというだけのことかもしれない。私達の新しい班にはRアース子という女の子がいた。彼女は、菜食主義者で、戦争が嫌いで、常に環境問題を考えているような人だった。その彼女と共謀者Tはこの四日間で急に親しい仲になった。しかし、他の学生の前で変な真似をするようなことはなかった。これは彼らのとても良いところだった。話は飛ぶが、七年後の今でも二人は一緒だ。これだけずっと続いているので、もうすぐ結婚するのではないかと思う。

とにかく、帰りの旅は簡単だった。リーダーの指導なしに、地図を地図を頼りに公園の入り口に戻る。それでリーダー達が去った。マリアも私達のグループにいたが、一度道に迷った時にパニックして、かわいそうな位だった。彼女はいつも多忙で、些細なことに溺れてばかりいるように見えた。

他にも色々な思い出はあるが、それを書くのはまたの折りにしよう。ともかく、ようやく無事にインディアナ州に帰り着いた。G坊主と二人で作っていたブッシュ大統領のジョークは完成していた。帰った日の晩に、カナダへ行ったグループと合同の発表会のようなものがあったので、そこでこのジョークを十二分に渡って披露した。よく「あ、彼は自然から戻ったからそういうように振舞っているね」と批判されたが、それは間違いだ。普通の私であった。
「あれは、長いこと文明社会から切り離されて気違いみたいになってるんだね」というのが一般の評価だったが、それは間違いで、私は全く正気だった。

これを始めとして、私のユーモアはA大学内ではあまりうけないものだった。

大学の始まり

ようやく大学の入学式の日がやって来た。朝御飯を食べてからテントを片付け、バンでキャンプ場からキャンパスへ向かった。キャンパスで父が待ってい た。父と話しながら、「八月の冒険」のキャンプ用具を倉庫に戻しに行った。それに大分時間がかかったので、式の開始時間ぎりぎりになって講堂に着いた。も のすごい数の生徒と両親で、もう空席は残っていなかったから、三階へ上って、後ろの階段に座り込んだ。つまらない挨拶を聞くふりをしながら、それまでの三 週間、つまり、山の冒険のことを考えていた。

私達はA大学の百五十年以上の歴史において一番大きい新入生のクラスだった。四百人が限度の所に、その年には四百五十人以上の学生が来てしまったか らだ。次の年にも同じ様な予測はずれが起こった。しかし、これが特に悪いことだという気はしなかった。当時の私はまだナイーブで、「頭数を増やすために水 準を落とす」という論理にあまり慣れていなかったのだ。

目が覚めたら、学校行政の事務員が私達新入生についていろいろな統計を紹介しているところだった。あまりにもバカな話だったが、一つだけ今でも覚え ていることがある。それは、ある学生が願書の「将来の夢は?」という質問の答えに、「ジェダイナイトになりたい(スターウォーズのヒーロー達の一員)」と 書いた学生が居たということだった。そんなバカバカしいテーマでエッセイを書き上げて、私と同じ大学に合格出来た奴がいたことに驚いた。スターウォーズの 台詞を丸暗記してきた私でさえも、本音はどうであれ、ある程度真面目なふりをする必要があると思っていたので、これはあまりと言えばあまりの話だった。

しかし、A大学は変人の楽園だ。それというのも、A大学の教授も学生も他ではあまり見かけないような人間ばかりが集まっているからだ。小中高で苛め られた学生が多かったから、当然社交的に問題のある者も少なくなかったが、A大学の学生のとても良い点は誰もが少なくとも一つは特技をもっていることだっ た。例えば、一見普通の医学校志望の学生が、夜になると腹話術のショーを演じる。または、言語学専攻の学生がファイヤーダンスを披露する。しかもサーカス 並みの腕前である。芸術を全く理解しない警備員が現れるまでのことだったが。また、昼間に社会学を勉強する一方、夜になると荒廃したビルを探検している学生もい た。(実はこれはG坊主とT共謀者の趣味の一つだった。)

式が終わると入居時間になっていた。寮へ向かうところで、不吉なことに、Hと彼女のお母さんが声をかけてきた。

「旅行はどうだった?」とHは尋ねた。彼女はとんでもなくだらしない服を着ていた。似合うどころの話ではなかった。ファッションに疎い私は、それこそ本当に酷い格好になっている時でないと「似合わない」と気が付かない。

「大学の初日に、なぜそこまで露出する必要があるんだよ」と突っ込んでやりたかった。「自分を売るのに四年もあるから充分だろ。お母さんの前では焦ってないみたいに振舞いたがる癖に。」と言ってやりたかった。だが、「まあ、楽しかったよ。」とだけ答えた。

「あたしも行きたかったわ」と彼女。しかし、これはどう見えても嘘だった。Hは運動オンチで、虫が嫌いだった。それによく文句を言う癖があるから、すぐに新しい友達が出来ない性格だった。

「いや、お前じゃあ、多分楽しめなかったと思うよ。」

「とにかく、アンタと一緒に大学に行くのをすごく楽しみにしていたのよ。」

父とふと見て不味いに思った。適切な答えが思いつかなかったが、会話を早く終わらせたくて適当に言葉を濁した。「まあ、僕もここを選んでよかったと思ってるよ。悪いけど、まだ部屋の準備があるから、話は後にしよう。」

「そうね。後でゆっくり話しましょう」と彼女。私はゾッとした。

ちなみに、インディアナ州には、地元に本社を構える大手の「偉い百合」製薬会社の提供による州出身の学生のための奨学金があった。その奨学金は州の 九十郡の人口に比例して振り分けられ、州内の大学なら公立でも私立でも四年間の学費と寮費全額に加えて毎学期五百ドルの生活費まで出してくれるというもの だった。奨学生の専攻にあたっては「偉い百合」はは口を出さず、各郡の組織に任せていた。

インディアナ州の九十群のうち、八十九群は一番優秀な生徒にその奨学金を与えていた。しかし、私が住んでいた群だけは、「優秀な生徒に与えるが、一番優秀な者は除く」という方針だった。私は成績が良すぎたせいで、申し込もうにも申し込めなかった。

Hはその「偉い百合」の奨学金をもらっていた。確かに、私には羨ましいことだった。怒りも覚えた。それは、Hが四年間の大学教育が完全に無 料なのにも関わらず一年生の時から二つのバイトを始めたことが気に触ったのだ。彼女は本当にお金が必要だったのではなく、ただ遊ぶ金のために働いていた。 だが、いわゆる「完全四年無料」奨学金の主目的は、優秀な学生がバイトなどをせずに勉強に集中出来るようにする、ということだ。飲み食いや車代のためにバ イトなどをする学生は、そういった奨学金の意義を台無しにしてしまう。

A大学は一般のアメリカのほとんどの大学のように寮制だった。学生の九割以上は寮に住んでいて、特別許可をもらっている三、四年生だけがキャンパス外に住んでいた。この許可を貰うには、醜い寮の行政管理局長と一夜を過ごす位の努力が必要だった。

私が住むことになっていたのは「静かな寮」という建物だった。当時の私はよく大学のことを知らなかったが、「多分寮はうるさいところだろう」と思っ ていたので、A大学で唯一の静かな寮を選んだわけだ。寝るのにどうしても静かな環境が必要で、騒ぐ時は友達の寮へ行けばいいと思っていた私にとって、この 選択肢があったことは小さな幸せだった。

しかし、現実に直面すると幻滅することはよくある。「静かな寮」がそう指定されていた本当の理由は、個々の学生の好みを尊重するためではなく、単に壁が物凄く薄いから、ということだった。だから、皮肉なことに、現実には普通の寮よりちょっとうるさい所だった。

後で、母が始めてその寮を見た時に言った。「あれ?あそこに住んでるの?あれじゃ、寮っていうより安モーテルみたいよ。」安モーテルとの共通点は外面だけ ではなかった。例えば、その年には、二階建ての寮の一階に住んでいる学生の殆どがセックス狂だった。それだけだったら普通の学生と大した違いはないかもし れないが、同じ寮内の人間としか関係を持たない学生が多いのが目立った。私の部屋は二階だったが、百人を上回らない人数の寮の中で、二学期にもなると階下 の人間関係がややこしくて情けないありさまだった。そういうわけで、以下、この「静かな寮」を「安モーテル」と呼ぶことにする。

私が部屋に付いた時には、ルームメートのDCは既に自分の半分を片付けていた。私達は赤の他人からすぐ友達になった。大学の四年間に一緒に暮ら した四人のルームメートのうちで、一番うまくいった相手だった。他のルームメートは全て私が自分で選んだにも関わらず、DCの方が良かったというのは不思 議なことだ。

DCと私は、見かけも似ていた。これはA大学の変なところの一つだった。ルームメートを決める際、出来るだけ顔が似ている学生を選んで組み合わせる という癖があった。そして、DCもインディアナ出身だった。なるべく似たような経験のある者同士を組み合わせれば、あまり喧嘩にもならないだろうという考 え方らしい。

初めて部屋を見た時にはその狭さにガッカリしたが、これはあくまでも第一印象に過ぎず、すぐに考え直した。大学では別に広い部屋は必要ない。それよ りパソコンだ。私はパソコンを持ってきていなかった。大学に入ってから買うつもりだったのだが、初日は忙しくて、注文する時間さえなかった。

HとDC

Hはいつの間にか私達の部屋の常連になっていた。閉まっていたドアを開けたら、彼女がDCと並んで彼のベッドに座っていた。普段彼が部屋に居る時はドアを開けておく習慣だったので、本当にびっくりした。とっさに「不味いな」と思った。まさかこの女は彼にちょっかいを出しているのだろうか、と。

そう気付いたからには無視するわけにいかなかった。時間がたつにつれて、彼らは親しくなりつつあるように見えた。部屋にいてもいつもDCと話していたから私の邪魔になるわけではなかったが、やはりルームメートのことだから気になった。会ったばかりのDCのことはあまり知らなかったから、どのように彼に忠告すれば良いのか分からなかった。

だからある夜Hに「ちょっと時間をくれないか。外で話そう」と促した。

寮の狭い廊下で立った彼女は尋ねた。「何?」

「俺のルームメートに手を出すなよ」

「アンタ、最近変だと思ったら、それかあ。全く、アンタって、バカみたいに分かりやすいんだから。」

「冗談で言ってるんじゃねぇよ。彼をどう思ってるか知らないが、俺達がはルームメートである限りちょっかいを出すのはよしてくれ。そうじゃなきゃ、俺はお前と一切縁をきるぞ。」

「アンタ、何言ってんの。バカバッカみたい。あたしがDCと話しているのは、アンタを待っているだけだよ。アンタに会いにきてもあんまり居ないから寂しくってさ。それで丁度DCが居るし…」

「お前、俺がそんなこと信じるようなバカだと思ってるのか」

「本当だよ、本当のことを言ってるだけだよ。」

ここらで周りの学生の目に気付いて、どうにも廊下でこの会話を続けることは出来なくなってしまった。「庭に行こう。」彼女は私の要求に従った。

歩道を歩きながら話を続けた。普段の私は議論をしながら歩くのが結構好きな方だが、これはそういうのとは別物だった。私が好きなのは知的な議論だけだ。こういう個人的な感情問題で口論するのは苦手だった。

「夏に友達でいようと約束した後で、こんなバカな手を使うなんて許せない。本当に友達だったら、俺のルームメートにちょっかいを出すなんてことをする筈がない。」

「あたしがDCにちょっかい何か出していないわ。なぜそう思っている、理由を聞かせてくれないかしら?」

「ちょっかいなんかだしてないったら。なんでそんなこと言うのよ。」

「彼のベッドに一緒に座って、膝に乗るくらいひっついてるじゃないか。それに、昨日電話してきた時俺が忙しいって言ったら、『アンタはいいの。DCと話したいわ』って言ったのはどこの誰だよ。」

「それはDCに生物の宿題を手伝ってもらってるからよ。彼は優しいし、本当に頭が良いわよ。まるでもう医者みたい。」

「念のため、ちょっと教えといてやろう。DCはお前に惚れてなんかいねぇぞ。昨日、あの電話の後で、俺達がどういう関係か聞かれたんだ。俺が元の彼女って答えたら、彼は、『じゃ、僕にはデートの対象外ってことになるな』って言ったんだ。勘違いするなよ。大事なのはその後だ。彼が続けて言うには、こうだ。『君には失礼だが、恥かきついでに聞いてしまおう。実は、ずっと前から気になっていたんだが、何と言うか、その、彼女の女性としての品格なんだけどね。いや、君に悪い意味で言ってるんじゃないんだ。君がしっかりした男だってことは分かってる。ただ、まあ、どう見ても、彼女はちょっとだらしないタイプのように見えるんだ。』お前が言う通り、DCは本当に頭が良いんだ。だから、お前の下手な芝居なんかすっかりお見通しだぜ。」

「嘘つき。DCがそんなこと言う筈ないよ。紳士だもん。」

「紳士でも真実だったら、たとえ醜くいことでも、言う時には言うもんだ。お前は、根っから真実って言葉が苦手みたいだけどな。」

「アンタ、何よ、それ。じゃ、ハッキリ言うわよ。あたしは自由。自分が好きなようにどう動こうと、あたしの勝手。それこそ大学での自立って言うもんよ。」私はこれはどう考えても間違いだと思ったが、彼女は自分の口から出る言葉を理解しないまま矢継ぎ早に続けた。「DCとデートしようが何しようが、それはあたしの自由じゃん。アンタの言い分なんか聞く必要ないよ。だいたい、もう彼氏じゃないんだから、アンタには私が男を作るのを止める権利なんかありゃしない。」

「お前はバカだ。そういうとこ、お袋さんにそっくりだぜ。」彼女が何よりも怖がっていたのは、自分のお母さんのようになることだった。十分あり得ることだったから、無理もない。「いつも男にひっ付いてやがる。最初は俺達は違うと思ったけど、それはご存知の通り大きな勘違いだったよな。俺と付合う直前まで他の男が居て、俺を振ってから一週間もしないうちに次の彼氏を作ったんだ。で、奴にお前が振られた時は、よく覚えてないが、二週間位保ったかな。」

「アンタ、何が言いたいんだよ。」

「お前は人生を無駄にしてるんだよ。いつも男が居なくちゃダメで、それが何でか、全く解っちゃいない。
最初に付合った時は、お前をその悪循環から救い出してやりたかったんだ。あの頃はお前が本当に美しく見えたし、本当にお前を愛していた。だけど、お前は救いようのない女なんだ。お前はいつも自滅的な方向を選ぶんだ。高校卒業記念に一緒に作った『No One Dies a Virgin』の映画のラストーシーンを覚えてるだろ。俺は、お前のためにあれを書いたんだぞ。」

(これは、映画の主人公の守護精(fairy godmother) が最後に現れてすべてを説明するという、いわゆる、デウス・エクス・マキナ (deus ex machina) の急場解決のシーンである。その守護精の解説によると、誰でもいつか必ず人生で一番重要な選択に直面する時が来る。そこで、「白いドアと黒いドアのどちらかを選んで、その世界へ踏み込む」という決断をしなければならない。守護精は続ける。「白いドアの向こうは、あなたの永遠の幸せが待っている楽園です。友達も皆いて、悩み事もほとんどありません。黒いドアの向こうは全くその逆で、開けたら二秒もしないうちに誰かにぶん殴られるような目に遭います。そして、その後の状況は悪化する一方です。私の説明は以上です。あとはあなた次第ですよ。」そう言い残して、守護神は黒いドアを開けて暗闇に消える。)

私はHに説明を続けた。「俺は頑張ったけど、二年が限界で、うんざりしちまったんだ。それでも、お前もいつか男を追いかけるのに飽きるだろう、と思ってたんだが、間違いだったな。情けない女だよ。俺は預言者じゃないが、お前の将来を予測してやろう。何十人もの男と付合った末に誰かと結婚するかも知れんが、どのみち離婚になるのは決まってるぜ。そして、中年から独りぼっちになっちまうんだよ。今のお前のままだったらな。お前はまともな人間関係が保てないんだ。いつも欲張って、相手に嫌われるような形で誘惑しやがる。鬱病のせいかなんか知らんが、もう、俺にはお前を助けることなんか出来ない。それどころか、今の状態じゃ友達でいても何も良いことがないみたいだ。もう、俺から離れてくれ。そして、俺のルームメートにも手を付けるな。」

彼女はしくしく泣いていた。「あたし、本当にお母さんみたい?」

「ああそっくりだ。遺伝には逆らえないもんだな。『蛙の子は蛙』って言えば分かるだろ。」彼女はこの陳腐な決まり文句にすくみ上がった。それを見て、私はさらに情けなくなった。

「あたしはいつもずっとアンタのことを愛してるけど、アンタがもう同じように思ってないことはハッキリだね。さよなら。」

しかし、話はこれで終わらなかった。休戦状態に入ったところで、彼女が話し続けた。「あたしを一日でも本当に愛したことはあったの?」等々、いろいろ感情的なことを言っていたのだが、このあたりは省略して差し支えないだろう。ただ、はっきりしておきたいのは、私達二人とも、これが最後の会話だと知っていたということだ。いつまでも嫌い合っているだけではいられないから、将来の平和的共存のためにお互いにちょっと慰め合っていて話が長びいたと言えるだろう。

その日から私達は挨拶さえ交わすことはなかった。今考えると、私も少々言い過ぎだったかとも思う。彼女をそこまで傷つける必要はなかったかもしれない。でも、後悔しているわけでもない。彼女が私を裏切ったから、彼女は私を裏切ったのだから、復讐には手を選ばないという環境に育った私には当たり前の行動だった。今でこそそうした考え方は非常に危ないものだと思えるのだが、当時の私はまだ分かっていなかった。

全くの白紙状態で大学生活を始めたかった私には、彼女のような高校からの大荷物は邪魔だった。無論前にも 言ったように復讐の考えもあった。でも、彼女をそこまで憎んでいたというわけでもない。ただ、罰を科してしかるべきだと思っただけである。

小さい大学の中に住んでいたからしょっちゅう出合うのは避けられなかったが、その日から声をかけることはなくなった。

JJさん・「コンピューター・プログラミング一○一」

初級コンピュータークラスを担当していたJJさんは前年に学部を卒業したばかりの講師で、教授の研究生だった。

当時のA大学の学費は一単位あたり約八百ドルの計算になっていたので、最初はこの三単位、二千四百ドルというクラスに教授が現れないのを不満に思った。だが、JJさんは正教授でなくとも教え方が大変上手で、面白い授業だった。

Jjさんの長所は、いつも口から様々なトリビア(雑学知識)がこぼれてくるような、好奇心の強い人だったことである。トリビアのゲームが大好きな私にとっては、とても楽しい雰囲気だった。

Jjさんもユーモアのセンスも凄く気に入った。

例えば、ある日、彼は私の腕の長さより広い直径の赤い中折帽子を被って、当たり前のような顔で教室に入ってきた。しかも自分の馬鹿馬鹿しい様子に全く気付いていないように。それは、「レッド・ハット・リナックス」を紹介するためだった。

私は別に授業が楽しくなくても構わないタイプだが、JJさんの授業は始めに思ったよりずっと良かった。

だから、彼のクラスでは結構勉強出来た。

因みに、私が授業の楽しさ云々を気にかけるのは、祖父の影響である。

祖父は心理学者で、博士論文を書いていた時、時に色々な実験をしたのだが、その一つに「楽しい」授業と「つまらない」授業の効率を比べるというものがあった。

簡単に言うと、生徒に「楽しい」と評価されるのはイベントとかゲームが多い授業で、「つまらない」と思われるのは講義だけの授業なのだが、祖父の研究の結果は、後に生徒がよりよく覚えているのは「つまらない」授業の内容の方だということだった。

これは実験を始めた当初の仮説とは反対の結果で、「楽しい」授業を受けた生徒の殆どはその楽しさや特定のイベントを覚えているだけだということが判明した。

まあ、余談はこのくらいにして、話しに戻ろう。

実際の所、JJさんは次の学期のJ先生より教え方がうまかった。

アメリカの大学教授というのはあくまで専門家なので教授法を勉強していないからだろうと考えられる方も多いだろうが、私に言わせれば、それだけのことからくる違いではないと思う。教授法を勉強したからといって良い先生になるとは限らない。まして教育理論そのものがどんどん痴呆化しつつあるこの頃では、そういった教授法の訓練は出来るだけ避けた方が良いと思う。大学教育のレベルでは、学生と教授がお互いに大人として論議しながら授業を進めるというのが好ましいと思う。

十月にマイケル・Mooreがインディアナポリス市で講演をすることになった。

その講演のスポンサーの一員だったA大学の学生にも限定数の無料入場権が配られた。

しかし、私は大学の連絡網から漏れていたので、もしJJさんの授業を受けていなかったら、マイケルをライブで見る機会は得られなかっただろう。

講演があったのはブッシュとケリーの大統領候補者ディベートの直前で、大変混んでいた。

インディアナ州でそれだけの数のリベラルが集まったのを未だ曾て見たことがなかった。

マイケルをライブで見て時、閃いた。

有名人が講演する時は、新しい面白い情報を提供するよりは、誰もが既に知っている過去のことを繰り返し並べ上げるのというのが一般のやり方なのだ、と。マイケルは特に話しが下手というわけでもなく、どちらかと言えばうまい方だったが、それでも私には何か物足りなかった。

A大学で過ごした四年間で知名の学者や有名人の講演を数十回聞きに行く機会があったが、内容がどんなに素晴らしい時でも、いつもちょっとガッカリした気分で帰った。

句先生・「日本文学入門」

当時のA大学の規定では、一年生の必修に文系クラスが二つということになっていた。「読み書きの基本」をテーマにした内容で、私が入学する前の年までは、一年生全員が同じ四冊の本を読み、各クラスの教授がそれぞれ一冊選んで授業に使う、という制度だったのだが、これは「帝国主義的な教育法」だという批判のもとに廃止されてていた。初めてこの「帝国主義」の批判を聞いた時には別に変に思わなかった。しかし時が経つにつれ、何でも「帝国主義のお化け(名残)」のせいにするという習慣が嫌になった。

新制度では、各教授の興味にそって出されたテーマの中から一番受講したいクラスを四つ選び、バランスを考えた上で振り分けられることになっていた。事務局のうたい文句では自由に選択出来ることになっていたのだが、私は既に専攻と趣味の関係でコンピュータープログラミング、日本語、哲学、の三クラスを取ることに決めていたので、必修の文系クラスが十ある中で空き時間に組み込めるのは日本文学とアメリカ原住民の歴史の二つしかなかった。あり難いことに、日本文学は私がその十クラスのなかで一番面白そうだと思っていたものだった。更に運良く、入ることが出来た。

最初の授業で教室に入った途端後悔し始めた。他の学生の会話を聞いていると、オタクばかりのようだった。これは、アニメを一本も見たことのなかった私にとっては大変不安なことだった。アニメに詳しくなくても文学を勉強するには関係ないというのはハッキリ分かっていたつもりだが、周りの学生達はそんなことを考えているようではなかった。

確か句先生はその最初の授業に遅刻した。A大学では、教授でも遅刻する人が多かった。謝りながら、句先生は自己紹介をしてくれた。研究範囲は文学・フェミニズム・アニメだった。「ちょっと待って、アニメは専門のが本当か?」と思った。本当だった。それで更に不安になった。

句先生は日本人で、アメリカに滞在して数年になっていたが、まだ日本訛が強くて、woman の始めの w が聞こえない程度だった。 (余談だが、どうせwが消えるなら、Wとあだ名される二代目ブッシュ大統領が消えてくれる方が良かった。)そして、セミナー式の授業だったのに、あまりディスカッションの扱いがうまくなかった。とんでもなくバカなことを言う学生も叱らない。そのうち、課題に出される文献を読んでこない学生の数もどんどん増えてきた。

言うまでもなく、句先生の第一印象は非常に悪かった。私はそれでもともかく課題は全部やったが、最初のレポート論文はあまり真面目に書かなかった。彼女はそれほど英語が出来ないから、努力しても多分無駄だろう、とも思った。

しかし、馬鹿なのは怠けている私の方だったということが明白な結果になった。そのレポートの評価はB-だった。 評価としてはそれほど悪くはなかったのだが、返却された紙面は赤ペンで覆われ、出血過多で死にかけている患者のようだった。その日から、私は宿題を全部真面目にやるようになった。

アメリカの大学では教授が特定の時間に自分の部屋で生徒の質問や相談を受けるためのオフィスアワーズというものがある。教授によって予約式のこともあるが、句先生は立ち寄り式だった。

一学期のうちに、私は先生の部屋の常連となった。授業の間になかなか出来ない深い話が、オフィスアワーズで双方から出てくるようになった。そのうちに、先生に対する第一印象は完全に外れていたということが分かってきた。

授業そのものは決して上手いと言えなかったが、それほど悪いという程でもなかった。それは、句先生の授業のおかげで、大学でも映画を作ることができたからだ。

C先生・日本語一○一

C先生のことを考えると、いつも初めての日本語のクラスを思い出す。そのクラスはA大学で一番新しいビルの教室を使っていた。他の建物の殆どは五十年程の歴史があるものだったが、そのビルだけは十年くらい前に建てられたものだった。外装はキャンパスに調和していたが、残念なことに内装はいい加減な醜いデザインだった。後日、キャンパスの建築計画委員会に参加して分かったことだが、このとんでもないビルの建設計画に関与した委員達は皆そのデザインに満足していた。一人不満だった私は彼らと大げんかをすることになってしまった。

C先生は、きちんと整った服装でその教室に立っておられた。他の大学の教授はおそらく皆きちんとした格好をしているのが普通だと思うが、A大学ではそうではなかった。たいていの教授はジム先生のように、Tシャツにサンダルの姿でクラスに現れる。そんなわけで、C先生を始めて見た時には、先生もキャンパスに来てからまだ日が浅いのだろう、と推測した。

実際、そうだった。これは後から分かったことだが、A大学の日本語教授の任期は二年に限られていたらしい。この制度については、また詳しく書くつもりだ。とりあえず、ともかく、C先生のことを考えるたびにその最初の日を思い出すのは、出席を取った直後にこうおっしゃったからである。「今日の所はさておき、明日からは、明日からは授業の全てを日本語で行うつもりですので、ご了承下さい。」

その瞬間、私は日本語をやめようと思った。私は自分を挑戦するため日本語を選んだのだが、クラスが始まる前に耳に挟んだ話の様子では、既に一、二年勉強したことがある学生が半分以上らしかった。もしそんなクラスを日本語だけで教えられたら、自分が皆のペースに付いて行けるかどうか、疑問だった。

寮に向かいながらしばらく考えたが、すぐに自分を叱り始めた。「これは、今まで大嫌いな高校生活を生き抜くためには必要な態度だったかもしれない。だが、自分の正気を守るために学校関係のことを最小限にとどめるというのは、もう通用しない。義務教育でなく、自分の選択で来た大学なのだから、本当にここに居たいなら、こういう逃避思考の癖は断ち切るんだ。」

次の日は早く起き、ちゃんと朝飯を食べてから授業に向った。C先生は宣告通りずっと日本語でお教えになったが、教科書には所々英語の説明も付いていたので、あまり困難ではなかった。むしろ非常に勉強のためになった。先生は解説が丁寧で、お若い割には教え方が上手だったので、そのクラスはすぐに私の大きな楽しみの一つとなった。

私はいつもC先生のことをちょっと気の毒に思っていた。なぜなら、C先生は若くて、一目で分かる美人だったからだ。そしてアニメ狂のアメリカ人に溢れるクラスを教えていた。

A大学の日本語科は結構有名なものだった。A大学のサイズで日本語科があるというだけでも、アメリカでは稀である。重ねて、優れた教授陣がきちんと指導をしていたのだから立派という他にない。このようにA大学の日本語科は相当しっかりしたものだったが、九十年代からの欧米のアニメブームで日本語の授業にそういう連中が押し掛けてきた。

高校時代の私はいつも大学受験のことを考えて、より難しい選択科目を選んでいた。いくら女狂いの連中でも、先生の容色でクラスを決める者は一人も居なかったように思う。でも今になって考えると、高校では若い先生はあまり居なかったから、そういうチャンスが無かったというだけのことかも知れない。

しかし大学では全く話しが違っていた。A大学では、最初の一週間が「聴講期間」で、その金曜日までに正式な登録を行えばよいことになっていた。だから、登録するクラスが決められない者はその一週間で興味のある授業を訪問してから最終決断をする。聴講期間中の日本語クラスは大変な数の男子学生で賑わっていた。中でもパーティー屋Fという非行少年と源氏というセックス狂が最低だったが、この二人ほどでないにせよ嫌な奴らは他にもたくさん居た。

因みに、当時はRateMyProfessor.comという、学生による教授の評価を見ることが出来るウェブサイトが大人気だった。大学ごとのリストがあって、各教授に電子掲示板がついていた。

こういったサイトは必須の科目で数人の教授がクラスを出している場合などには役に立つかもしれない。無論、これは、真面目な学生が熟考した評価が見られるのだったら、という話である。しかし、RateMyProfessor.comでの評価は全て匿名のコメントによるものだった。そのサイトでは、「授業の分かり易さ」や「課題の量」などに加えて、「セクシーさ」(Hotness)という欄があって、検索するとセクシーな教授の名前には唐辛子が一個、非常にセクシーな教授には二個、と付いて現れるようになっていた。

私の知り合いの中に、このサイトの情報で全てのクラスを選んだ学生が居た。バカにも程がある。閑話休題。

そんな若い男共のヨダレを避けながら、C先生は授業を進めた。在り難いことに、C先生は物凄く厳しかった。遅刻など当たり前という風潮の大学だったが、彼女は怠惰な学生が許せなかった。そして、クラスの人数は時が経つにつれてどんどん減って行った。これは、成績の悪いクラスでも、学期の最後の月の始めにある「撤回期限」までに登録を取り消せば記録に残らないで済むためだった。そこで落とさないで学期末に落第点が付いたら、永久に記録されてしまうし、総合成績(GPA)にも影響が及ぶ。

魔先生・理性主義と経験主義101

アメリカの大学では、二年目の終わりまでに専攻を決めれば良いことになっている。だが私は高校三年生の時から既に哲学を専攻すると決めていたので、早く専門コースをとり始めたかった。それで、普通なら二年生以上の学生が受講する「理性主義と経験主義」というクラスに申し込んだ。

学年制限があったので、前もって教授に許可を得ないと登録出来ない。担当で哲学科長の魔先生のオフィスに入って、妙な気分になった。本がたくさん並んでいた。そう小さくもない部屋だったが、溢れるような量の本のおかげで非常に狭く感じた。それだけのことなら何も変に思わなかったが、私が妙に感じたのはそれらの本のタイトルだった。

哲学関係の本はあまり見当たらず、レイプ防止やセクハラ理論などに関係するタイトルが殆どだった。それはそれで良いのだが、学科長のオフィスともなればさぞかしたくさんの哲学の本があるだろうと想像していた私には、ちょっと予想外の光景だった。

魔先生は哲学者というイメージにふさわしい白髪の方だった。一般的なイメージでは教授の白髪も当たり前かも知れないが、A大学で私が出会った教授のほとんどはまだ30代だった。まだ永久常勤の資格(tenure)がない若い教授連は、教え方がテキパキしている。失礼に聞こえるかも知れないが、魔先生の進み方は、お年なりのペースだった。

面接が始まった。

「なぜ哲学を勉強なさりたいのですか。」

「人間の考え方を勉強したいんです。」

「人間の考え方というと?」

「人間の発想の歴史とか、そういうことです。」

「これまでに哲学の勉強をしたことがありますか。」

「高校の授業ではなかったんですが、政治学のクラスを取ってました。あと、暇なときには哲学の本を読んでいます。例えば『禅とモーターバイクの手入れ』とか。この夏には聖オーガスチンの『告白』を読みました。」

「『禅とモーターバイク』は哲学とは言えませんね。勿論、オーガスチンの方は大丈夫ですが。で、論議の経験はありますか。」

笑いを抑えるのに大分苦労した。「はい、あります。」

「それにしても、哲学は難しいですよ。始めてすぐに止めてしまう人も多いです。」

「私は哲学を専攻にするつもりですから、止めるわけには行きません。」

「それなら、いいですけどね。じゃ、サインしましょう。」

私はこうして「理性主義と経験主義」のクラスに入った。

「理性主義と経験主義」は私が大学で最初の学期に取った中で一番好きなクラスとなった。なによりも、皆が真面目にやっていることに刺激されて学習意欲を高められた。十二人の学生が、一学期間にデカルト、スピノザ、ライブニッツ、ロック、バークレー、ヒュームの名作の抜粋を読んで論議したこのクラスが人生の方向を変えた。

クラスの星はEEさんだった。同じ都市の出身で、聡明な、学生の鑑みたいな人だった。彼女が同郷だと分かった日のことは今でもハッキリ覚えている。その時だけは故郷に誇りを持てたからだ。

しかし、向こうは私のことが気に入らなかったようだ。私が議論を始めると、すぐに私を睨みつけ、時には呆れたように目をグルグル回して見せた。これは私達の政治的見地が違いすぎていたからかも知れない。彼女は根っからの急進的自由主義者で、私は同じ自由主義でもどちらかと言えば保守的な方だった。そして、彼女が私より世慣れていたことも関係していたと思う。

余談だが、私は小学生の頃からずっとこのように考えている。マナーというのは大切なものだ。しかし、理由がはっきりしない規則や「当たり前だから」というだけの規則に関しては、その妥当性を疑ってしかるべきだ。疑わしいと思うものは検討するべきで、その結果として正当な理由が見つけられなかったら、無視しても構わないと思う。例えば、体が不自由な人に席を譲ることは正しいマナーだが、もし誰かがこの規則を疑ったとしても、ちょっと考えてみればすぐに譲ることの正しさが分かるだろう。恩人にはきちんと礼を言わなければならないという慣例についても同様である。こうしたマナーは誰もが守るべきだ。

しかし、女性の厚化粧などは単なる慣習の部類で、決してマナーとは呼べないと思う。綺麗な女は化粧をしなくても綺麗だし、そうでない女は化粧をしたところでそう変わるものでもない。するだけ無駄のような気がする。しなくても良いどころか、しない方がマシかも知れない。自分の見かけを良くする為に毎朝一時間もかけている女など、見られたものではない。その余裕があったら、勉強とか仕事した方が良いに決まっている。

EEさんはメークを使わない方だった。一概に言って、A大学の女性の殆どは化粧に関心がなかったようだ。これはA大学の良い所の一つだろう。そして、アメリカの大学にしては珍しいことに、学生達があまりファッションに踊らされていない。こういう現象は今までA大学でしか経験したことがないが、とても素晴らしいことだと思う。

無論、何事にも一長一短がある。A大学の短所は、シャワーを滅多にシャワーを浴びない者が驚くほど多かったことだ。大学に行くまで、シャワーで体を洗うのは世界的な常識だと信じていた。少なくとも、先進国でちゃんと冷温水の配管がある所なら、当たり前のことだと思っていた。私自身、八月の冒険に参加した時には一度もシャワーを使わずに三週間過ごしたが、これは生まれて初めてのことで、はっきりした理由があってのことだった。

だが、A大学には何十人ものシャワー回避主義者がいた。最初は、こいつらは皆ヒッピーの親に育てられたんだろうか、と思ってしまった。「ああ、水を節約しようって奴らは臭いんだよな」と冗談のように説明する先輩も居たが、私は人の言うことは信用しないタイプなので、その辺で「自然の香水」を漂わせている者に直接聞いてみることにした。

「あ、俺?いや、水が体にかかる感触がどうも好きじゃないんだ。それだけのことさ。」どうも彼は本気らしかった。

これにはどうも納得がいかなかったし、個人差もあるだろうと思って、もう一人聞いてみることにした。

「水の節約とは関係ないわよ。あたしはただ、シャワーが嫌いなの。」

「なんで嫌なんだい?」返事はあまり期待出来なくても、訊かざるを得なかった。

「嫌なものは嫌だってだけのことよ。水が嫌いだからシャワーを浴びないの。分かるでしょ。」

本人達には当たり前でも、私には到底理解出来ない習慣だった。三年間考え続けて、とうとう、三年生の時のルームメートに尋ねた。

「失敬な質問かも知れんが、聞かせてくれ。お前、なんで週に一回しかシャワーを浴びないんだ。」

「別に失敬なことはないよ。ただ、俺は物凄く時間がかかるから、毎日やってたら時間がもったいないだろ。だから、余裕のある週末にしか浴びないんだよ。お前は早いから、毎日シャーワーを浴びても大丈夫みたいだけど、俺はそうはいかない。匂いが気になるって言うんなら何とかしないでもないが。」確かに彼のシャワーは長かった。平均二時間ぐらいだったろうか。

彼らにとっては、滅多にシャワーを浴びなくて当たり前だったらしい。カルチャーショックとでも言おうか、私にはアメリカが以前より広く見えるようになったことの一つだった。

臭い人間が多い一方、化粧した顔が少ないのは有難いことだった。素顔で人前に出るのは良い習慣だと思う。私は、束(つか)の間の美貌を追っている人を見るといつも嫌な気分になって落ち着かないし、決してそういう人を気に入ることもない。テレビばかり見ている人についても同じである。要するに、時間を無駄に過ごしている者が許せないのだ。

まあ、他人がどういう生き方をしようが私の知ったことではない、と言ってしまえばそれだけだが、それにしても、頭を使わないことに時間を費やしている人間を見ると不愉快になることは確かだ。頭の良し悪しの問題ではない。人間は考える葦だという格言の通り、どんな頭でも、自分について最低限考えることをしなくては人間でいる意味がないだろう。

個人的には相容れなくても、EEさんは私にとって大切な存在だった。彼女の手本がなかったら、私は学生として駄目な人間になってしまったかも知れない。

魔先生の教え方はお世辞にも上手いと言えるものではなかった。最初の授業はこういう調子で始まった。「私はこの時代の哲学者はあまり好きではありません。人類の思想が古い昔の西欧系のお爺さん達の考えだけに代表されているというのは不平等な話ですから。しかし、彼らが歴史的に重要な思想家であることは確かなので勉強しなくてはなりません。とは言っても、結構好きなんですけどね。実は、昔パソコン関係の仕事をしていた時にこの哲学者のお爺さん達に出合ったのが、哲学を研究する契機になったんです。」論理学を教えていらしたのだが、先生の論理能力がたまに気になるようなこともあった。

魔先生の授業で、初めて本物のPC病に出くわした。その学期、他のクラスではPC病を見かけなかったのに、この、最も古い学問である哲学のクラスが感染していたのは不思議なことだった。高校を出たての私としては、せめて哲学は機械に免疫があるだろうという印象を持っていたのだが、少なくともA大学ではそういうことでもないらしかった。

魔先生はディスカッションの指導があまりお上手ではなかったが、クラスでの論議はうまく進んだ。特に楽しかったのは、週一度の班に分かれて行う論議だった。「理性主義と経験主義」は四単位のクラスだったが、一単位あたり週一時間という計算では四時間やる筈の所に三時間しか授業がなかった。残りの一時間は十二人の学生が三つの班に分かれて話し合いをすることになっていた。実は私にはこちらの方が授業らしい授業よりも興味深かった。

私はEEさんとJ君と赤髭の山男と一緒の班になった。半メートル程の赤髭を生やした山男も、八月の冒険の経験者だった。専攻は宗教で、牧師を目指していたらしいが、どうもまだまだという感じだった。酒が大好きな上、日本に留学中、他のA大学の学生達と一緒に公園で大きなたき火をして逮捕されたこともあったそうで、強制送還は免れたものの、相当な騒ぎだったらしい。

J君はアフリカからの留学生で、専攻ではないにせよ哲学に深い興味を持っていたようだ。あまり話さないタイプだったが、たまに誰よりも鋭いことを言った。

全員がしっかり課題をやってくるクラスだったので、これでやっと学ぶということが当たり前の世界に辿りついた気分だった。後になってみればこれもまた私の勘違いに過ぎなかったのだが、当時は物凄く嬉しかった。これからのクラスが全部このように進んでくれれば何の問題もない、と思った。

学期の半ばに、各班がクラス全体を相手に一回ずつ授業をする段階に入った。私達の班はロックの「人間と動物の違い」についてのディスカッションを指導することになり、授業の計画を立てるために集まった。私達が指導することになっていた課題の最初の一節は、「Brutes abstract not.」(動物は人間と違って、抽象的に考えられない。)だった。普段は真面目にやっていた私だが、この文章に出くわした途端に集中が効かなくなってしまった。ロックのあまりにも古めかしい言い回しに加えて、「brutes」というのを想像するだけで可笑しくてたまらなかった。これは私だけではなかった。J君も「brutes」という言葉を読もうとする度に笑ってしまった。そして笑いは赤髭の山男にも広がった。EEさんはイライラした声で私達を叱りつけた。「貴方達、ちゃんとしてよ。もうそんなに時間がないんだから。」

しかし、そう言う彼女も結局笑ってしまった。

学期の成績は出席率、レポートが四本、そして班の評価の合計で決まることになっていた。二番目の、スピノザについてのレポートを提出した時のことである。長さは五ページから七ページという規定だったので、五ページ書いたのだが、先生の返却コメントには「次回はもう少し書いた方が良いでしょう。議論の展開にそって、出来るだけ詳しく書いて下さい。」とあった。

次のライブニッツについてのレポートは八ページから十ページと指定されていたが、出来るだけ詳しくという先生の言葉を真に受けて、二十七ページに及ぶ怪物を書き上げた。それを提出しに行ったら、「何これ?」と聞かれた。

「私のレポートです。よろしくお願いします。」

これは内容的に自信があるものだった。私にしては珍しく、皮肉なことは全く書かなかった。二十ページを超えるとなると、結構時間がかかる。だからこそ、先生はその努力を認めて褒めてくれるに違いない、と素直に信じていた私は単純そのものだった。

結果としては、Bの評価だった。先生の説明はこうである。「確かにもっと長くとは言いましたが、ここまで長くなるとレポートというより論文に近くなってしまいます。内容的には A ですが、長すぎるのでBにしました。全部読むのは面倒なので、勘弁して下さい。規定要項に示された範囲を守るように気を付けて下さい。」先生の手書きを読みのに大分苦労した。

若気の至りの失敗だった。なによりも、「読むのは面倒」という言葉に傷ついた。興味深い議論を書いたつもりだったのに、「面倒だから勘弁してくれ」と片付けられてしまったら、元も子もない。「内容的にはA」はまだマシだとしても、それなら読むのが面倒と言うことはない筈じゃないか、とも思わざるを得なかった。

レポートを返却するのに六週間以上かかる方だった。最後のレポートは次の学期になってから返すとおっしゃったので、二学期の十二週めになって取りに行ったら、「あら、無いわ」だった。レポートが自分で勝手にどこかに行ったはずがないと思うのだが。

どうしてそんなことになったのかは覚えていないが、なにはともあれ、魔先生はその後私の指導教官になった。

昔々の日本の話

日本文学のクラスでいつの間にかD君と親しくなった。D君は背が低く、女性が大好きな上、勉強に集中出来ないタイプだったが、いつも誰よりも元気で、要領が悪くても憎めない人だった。

D君の高校時代の趣味も映画製作だった。入学してから一ヶ月位のある日、彼は「一緒に映画を作ろうよ」と提案して来た。私はとりあえず賛成したが、D君はあまり本気ではなさそうだった。いや、本気だったが、D君の本気は普通の人のとは違っていた。

そのクラスは午後一時からだったので、私はいつも早くランチを食べて、クラスの十五分前には教室に入った。一方, D君はいつも遅刻ギリギリか明らかに遅刻という調子だった。ギリギリに飛び込んで来た日は私の隣に座る習慣だった。授業では色々な討論が行われたが、私の記憶している限りでは彼が課題をやって来たためしは無かった。そして、クラスが終わるといつも違う女性と出て行ってしまう。そうやって気ままに遊んでいる風だったので、彼がいくらクラスで熱心に発言していても、私にははったりのようにしか見えなかった。

それでも、映画を作りたいと思った。もう大学生なのだから、内容に関して学校の規則を気にする必要も無い。こう言うと変に聞こえるかも知れないが、当時の私は法律さえ守れば、問題にはならない、と思っていた。わざわざ悪質な映画を作るつもりだったわけではなく、単に、私は小さい頃からどちらかと言うと下らない話の方が好きだったということである。これは、ただ説教をするよりも下らない話を通してメッセージを伝える方が、優れた手法だと思うからだ。哲学者に例をとって言えば、私はカントよりニーチェを好む。

私は色々な映画を想像してみた。当初の目的が単に「映画を作る」ということだったので、可能性が広すぎて、六週間かけてもなかなかこれという筋も思い当たらなかった。高校時代に作った映画の事を考えてみると、その殆どはスペイン語のプロジェクト(私のスペイン語クラスは試験の代わりに自主プロジェクトをすることが出来る制度だった)だった。今度は日本文学入門のクラスで知り合ったD君となので、ある日、「忍者の映画はどうだろう」と提案してみた。彼は、一つだけ条件を付けてきた。忍者だけでなく、侍も入れなければならない、と。

その日の授業が終わった所で、「忍者映画を作るために俳優を募集します。参加したい方は、どのような役割(悪人、善人)、それから主役・脇役のどちらかを選び、私達までメールを下さい。」とクラスの皆を誘ってみた。私達が決めたやり方では、脚本を書いてから俳優を募集するのではなく、それぞれの人に合わせた役を書き上げるということが強みとなっていた。そうでもしなかったら、絶対六週間で白紙から始めてDVDを仕上げるなどということが出来るものではない。

その次の水曜日の昼には、D君と一緒に脚本を書き上げることになった。「一緒に」とは言ったものの、D君のことだから、彼は二時間遅刻して来た。非常に悲惨な日だった。ずっと雨が降っていて、もう太陽がこの宇宙から去ってしまったような感じの日だった。

D君はようやく私の部屋に現れたが、私が既に一人で脚本を始めていたことに気付くや否や、侮辱を受けたように怒りだした。やはりD君は天気によって性格が変わるような男だった。普通なら私も友人としてもっと気を配るべきだったが、この時は一学期の期末試験までたったの六週間しか残っていず、翌日から撮影を始めたとしても間に合わないかも知れないという所だった。だから、共産主義でやって行こうなどといっている余裕はなかった。私のこういった説明で、D君もすぐに納得してくれた。

そうして、たったの四時間で脚本を書き上げた。

筋はごく簡単なものだった。先生から刀を守る使命を受けている三人の侍兄弟が大学のパーティーに出席する。そこで、酒を飲み過ぎて、背が低い忍者に刀を奪われてしまう。前年大ヒットした『臥虎藏龍」のように、寮の屋根から屋根と飛んで逃げる忍者を追いかけるが、忍者は三人の追跡を逃れて『消しゴム』という悪玉に刀を届けることに成功してしまう。三人の侍は先生に叱られて、刀の歴史を聞かされる。話が盛り上がって、興奮した先生は心臓発作で倒れてしまう。先生は誰に殺されたわけでも無いのだが、それでも侍兄弟は復讐を誓い,消しゴムと対決に向う。消しゴムの居る公園へ途中で浪人に逢う。偶然にも彼もその刀を探しており、彼らに自分の生い立ちを語る。このシーンは余計だったが、『マトリックス」のような背広姿のクローンの戦いを見せることに挑戦してみたかった。そして、正念場に入る。三十人を超える敵との乱闘の末、浪人と消しゴムが向かい合い、刺したがえて死んでしまう。フェードアウト。三人の侍はベンチに座って、次の冒険に話し合っているうちに、一番酒好きな兄弟が「この刀を、先生の所に持って帰ろう。きっと喜ばれるぞ。」と言うと、もう一人が「お前、覚えてないのか。先生は亡くなられたんだよ。」と遮る。そして「ああ、そうだった。悲しいな。しょうがない。飲もう。」で終わる。四時間で書ける脚本としては、まあ、こんなところだろうか。

実際に映画を作るのには大分苦労した。まず、私はまだ日本語を始めてから二ヶ月半でしかなかった。D君も、高校で二年間勉強してきたといってもまだ同じクラスのレベルだったから、大した知識は無いようだった。だから、私達の書いた脚本をC先生のところへ持って行って、翻訳をお願いした。先生は初め妙な顔をなさったが、それは私達の日本語があまりにも下手だったので通じなかったからかも知れない。「映画を作りたいのですが、翻訳をお願い出来ませんでしょうか」などと言ってくる学生が毎日居るわけがない。しかし、結局先生は私達の夢に翼を付けてくれた。

でもそれからが大変だった。日本文学のクラスから募った俳優の半分ぐらいは、日本語を一切知らない学生で、勉強している者でも、大多数は私と同じように二ヶ月ちょっとの初心者だった。そんなわけで、発音は通じないぐらい下手だった。彼らの発音を上達させる為に一応私が指導しようとしてみたが、自分も下手だったので、一学期の終わりまでに発表するのが目的なら、仕方がないと思い、諦めた。

今になってその映画を見てみると、苦笑いせざるを得ない台詞ばかりだが、たまに面白いのも出て来る。例えば、先生役の学生が刀の歴史を語っているシーンで、「刀」が「かたな」と発音されているのは三割くらいで、あとは「カタカナ」になってしまう。映画をご覧になった後で、C先生はこうおっしゃった。「よく頑張りましたね。感心しました。でも、この次は、もっと日本語の言葉に気を付けてください。」 その通りだ。

この映画を作る上で問題になったのは言語ばかりではなかった。脚本を書いた時には当たり前のように色々な特撮を使うことにしたのだが、実は私は特撮の技術に全く疎かった。撮り始めた時点では、グリーンスクリーンという物の名さえ知らなかった。だから、最終的に屋根から屋根へ飛ぶシーンや、数十人のクローンと戦うシーンが出来たのは、奇跡としか言いようがない。

D君とAエージェントからグリーンスクリーンのことを聞いてからインターネットでちょっと調べて、スーパーでそれ用に張り紙を十六枚買って来た。配管修理に使う強いテープで張り合わせて、夜になって誰もいない教室の壁に貼付けた。どうやって付けたかはあまり話さない方がいいだろう。

その背景で、一時間かけて、クローン役のAエージェントと浪人の戦闘シーンを撮った。早速パソコンで編集にかかった。優れた機能のソフトのおかげで、緑色を消すのはごく簡単で、三時間位で何とかなりそうだった。ただ、照明が良くなかったから、全部綺麗に消すことは出来なかった。それは、撮ったビデオに照明が不規則だったからだ。まともな照明をするにはそれなりの投資が必要なのだが、予算は百ドルくらいしかなかった。そもそも私がバイトで稼いだ金だったから、出来れば予算ゼロでやりたいくらいの所だったのだ。D君は大金持ちらしかったが、自分も金を出そうと言い出してくることは無かった。

屋根から屋根を飛ぶシーンはもっと大変だった。全身を映す必要があったのに私が作ったグリーンスクリーンが狭かったことに加えて、教室ではなく食堂の別館で撮ったので照明がますます悪くなってしまった。その上、合成画の背景に使う場面を撮る時に三脚を使わなかった。これは失計としか言いようがない。

私が当時ビデオ編集に使っていたのは12インチのパワーブックG4で、合成画を完成させるのにずいぶん時間がかかった。例えば、この二分間の屋根上の追跡シーンをゲラ上げするのに、二、三時間は必要だった。これに時間を取られた関係で、もっと色々な技術を駆使して微妙な編集をしたくても、そこまで手が回らなかった。そうは言うものの、私はもともと撮影技術よりも脚本に拘るタイプなので、たとえ今のような合成画を一瞬に完成出来るパソコンが有ったとしても、出来上がりの質に大した変わりはなかったかも知れない。

全部で十シーンあるうち、D君が監督したのは一つで、最終シーンを一緒にやった以外、あとは全て私が一人で取り仕切った。初めに共同監督としてやっていこうという考えに賛成したことは確かだが、私の想像したとおりの結果になってしまった。しかし、これは私がD君に失望したとかいうことではなく、ただ、イライラしたということだ。私はD君を、映画を完成させるのにかけがえの無い支えと思っていた。だが、しばらくしてD君の方から「俺の役割は、何でお前の半分なんだよ」と聞いて来た時にはさすがに頭に来て、爆発してしまった。

「そんなこと言って、いつもちょっかいを出してるじゃないか。なんで監督の仕事が足りないと思うんだよ。」

「お前は最初から俺をのけ者にしてるだろう。」

「何言ってやがる。お前は最初から遅刻だっただろ。俺はただ、今学期中に終わらせたいんだよ。それも分かんないのか。」因みに、いつも授業に遅刻している 学生が、必ずしも映画作りに不真面目だとは限らない。俳優をやっていた者達の殆どは学生として不合格だったが、撮影には皆ちゃんと時間どおりに現れた。だが、それはおそらく、そうでない者を首にしたからだろう。考えてみれば、教授も同じように生徒を選別した方が良いかも知れない。

「お前は最初から俺のアイデアなんか必要ないみたいに振る舞ってるじゃないか。」まあ、これはまんざら外れでもなかった。

「私だって一人でやりたかったわけじゃないぜ。お前がズルして、自分の分をやらなかっただけだろ。それでこうなったんだよ。」

ここで、とうとう彼の本音が出て来た。「俺は一緒に編集したいんだよ」

「いや、それは無理だ」

「なんで」

「編集は一番重い責任だからさ」

「だから一緒にやろうって言ってるんじゃん。」Dくんは、怒ると声が女みたいに甲高くなる癖があった。

「駄目だ。私はもう最終版に入ってるんだし、無理だ。」

「そんなこと言わないで、頼む。俺にも仕事をくれよ。」

映画を作っている間に、こんな議論を何回も繰り返した。実はこれは最終的なケリがつくまでに三年かかる問題だった。

大詰めのシーンを撮影する前日に、日本文学の授業の後でちょっと打ち合わせをした。「明日で最後のシーンだから、皆、迫っている期末試験に負けないで頑張ろう」などと、適当にキャストを励ました。D君もなかなかうまい言葉で彼らを応援してくれた。

そろそろ解散にしようかと思っていた所へ、突然主役から質問が出た。

「監督、明日は何か準備した方がいいですか。持って来て欲しいものとか、有りますか。」

ああ、彼は何と立派な俳優だったか。私は冗談まじりで答えた。「まあ、忍者スーツがあればこしたことはないが、それ以外は大丈夫だろう。武器はもうエージェントAが揃えてくれてるし。」アメリカで自分の忍者スーツを持っている人間なんて、そうざらには居ないだろう、と思っての発言だった。

「あ、それなら簡単だよ。忍者スーツなら二着持ってるから。」と彼は答えた。

「何?それなら私も持ってるから、着てもいいわよ。」と女優の一人。

「ああ、俺も持っている。」ともう一人の俳優。

「忍者スーツ?もっと早く言えば良かったのに。俺も二着持っている。」とD君。

これにはまいった。そこに居た七人のうち、四人が忍者スーツを持って大学に来ていた。武芸をやってる者も居ないのに、一体いつどこでそんな物を仕入れたのだろう。聞きたいことはたくさんあったが、時間もなかったので「じゃ、明日は忍者スーツで頑張ろう。」としか言えなかった。A大学が増々おかしな所に見えて来た。これでは米国の「変な大学ベストテン」に入るのも無理はない。

翌日の土曜日は、朝飯をしっかり食べてから撮影に入った。食堂のすぐ近くで撮影したので、寝ぼけマナコの学生が数人うろうろとしながら見物していた。勿論、カメラを見るや否や足早に通り過ぎようとするパラノイアみたいな学生もいたが。私はどちらのグループもあまり気にしないで、撮影に集中した。

しかし、いくら私が働くことが好きでも、キャストの方をたまには休ませないと反乱が起こることになるのは分かっていたから、時々休憩をとった。カメラを止めた所へ、後から声がかかった。「もう少し役者が要る?」振り向くと、私の寮に住んでいる学生が男女二人並んでいた。廊下で挨拶を合わす程度の顔見知りに過ぎなかったが、映画に出演したいというならこっちが困るわけでもない。

だから「ああ、良いよ。台詞はないが、台詞は無いけど、アクションなら歓迎だ。適当に暴れてくれ。」と答えた。

女の子の方がチェシャーキャットのようにニコニコした。「じゃ、ニコニコして「わあ、嬉しい。忍者スーツを取りに行くから、ちょっと待っててね。」と言ったかと思うと、彼の手をとって寮へ向って走り出した。

衣装まで持って来たのはその二人だけだったが、結局その日の撮影には十五人ほどのエキストラが参加することになった。武器も色々なものがあって、50の拳に加えて、ゲームのコントローラーが一個、オレンジが二つ、本物の六尺棒が一本、竹刀(しない)が三本、そして本物の刀が二本出て来た。あるトルコ人の留学生は興奮のあまり、寮の建物によじ上って二階から戦いのまっただ中に飛び込むという離れ業をやってのけた。コンクリート舗装の戦場だったから、彼が無傷で済んだのは全くの幸いである。因みに、A大学はアメリカでも珍しい「国際平和研究」という専攻があるような大学で、今考えてみると、忍者スーツよりもこういった本物の武器が出て来たのは妙なことだと思う。しかし何故か、当時はあまり気にならなかった。

大した理由も無く映画を作りたがっていた自分のことを棚に上げて言うのもなんだが、「A大学の学生は、一体どうなってるんだろう」と思うことが何回もあった。何故ああも変な行動に偏っていたのか、さっぱり分からない。

A大学にはちゃんとした劇場がなかったので、映画の公開にはプロジェクターが揃っている理科学部の講義室を使った。初日は想像以上の入りで、百人強の定員のホールに空席はそう多く残らなかった。そして映写中は爆笑の渦が続いて、馬鹿馬鹿しい映画に相応しい雰囲気だった。実を言うと、皆がジョークに反応して笑っているのかそれとも映画の質があまりに酷くて笑っているのか、私にははっきりしなかったのだが、たった35分の、芸術のために作ったわけでもないコメディーとしては大成功だと思えた。

観客の興味を引っかかった映画の運命は、十分見られたあげく、その交際から続きが生まれることだ。

私が政治家になった日

九月中旬に学生委員会の選挙が行われた。私は高校時代に何度か生徒会長選に挑戦したが、いつも学校で可愛い優等生の女の子に勝利を奪われた。最後の年にはギリギリの差で負けたのだが。初恋のことは後で書くつもり。

A大学では、各寮から二人ずつ代表者が選ばれることになっていた。他の寮の人口は平均200人位だったが、私の安モーテルのような寮には90人しか住んでいなかった。そんなチンピラの巣からも、代表者を二名出すことになっていた。まあ、アメリカの政府に基づいた学生委員会だった。

私は何も考えずに冗談のつもりで早速キャンペーンを始めた。公約はたった一つだった。「俺が当選したら、何もしない。俺は学生委員会は何もしない方が良いと思っているからだ。よろしく。」そして、芸術のセンスが皆無の自分には格好いいと思えた張り紙やチラシをたくさん印刷した。こういった印刷料は学費に含まれていたから、当時の私はそのお金を無駄にせず活用するに超したことはないと思っていた。

冗談のつもりだったが、私の寮では候補者が二人しか出なかったので、結局当選してしまった。

そして代表者の義務として一泊二日のワークショップに行かなければならないことになった。それは年間の活動予定を立てるためのワークショップだったのだが、私は「何もしない」という公約の下に当選したので、「何か提案はありませんか」と聞かれても、「いや、一つもありません。実のところ、私は、何もしない方が良いと思っています」と言うしかなかった。

同じテントで野宿したことのあるマリアも学生委員だった。しかも、山登りの時と同じように、リーダーになっていた。彼女は私を見て最初は笑ったが、私の発言を聞いた瞬間しかめっ面をした。同郷の美人を敵に回したくないとは思いつつ、私は自分の舌を抑えられなかった。よくあることだ。

他の委員達も一応うわべだけは真面目な顔をしているような人ばかりだった。だから私がいくら「何もしないと公約した」と言い張っても、聞き入れてくれなかった。当たり前のことではあるが、これは民主主義の妙なところではないだろうか、と思い始めた。一般の政治家は公約など守ろうともしない。そして、私のようにちゃんと自分の公約を守ろうとする者は爪弾きの運命に遭う。

まあ、私の態度の方が悪いというのは確かだ、とは思っても、生来の気性はそう変えられるものでもない。本当は学生委員会になど参加したくなかったということもあるが、それ以上に、公約を守りたいという気持ちが強かった。幼児的な考え方だと言われれば否定も出来ないが、当時の私は何事に付け約束は守るべきだと信じていた。私はHに裏切られて以来増々強くそう思うようになっていた。

「皆と一緒に学ぼう!」と彼女は吐き出した

一学期の授業の殆どは夢のようだった。教授が堪能な上、物知りの同級生が多く、ようやく知識の楽園に辿り着いた気がした。しかし、この楽園でさえ、既に有害な薬剤が導入され始めていた。

大学のオリエンテーションの一環として一年生に必修だったのが、左翼思想の流行の先端を行く「皆と一緒に学ぼう!」というあまりにも間抜けなタイトルのクラスだった。

このクラスに関連して、入学する前の夏に宿題があった。日本の学校では夏休みに宿題があるのが普通らしいが、アメリカでは夏休みに宿題をやらされるのは落ちこぼれだけだ。

だが、まあ良かろう。真面目な大学に行くのだから真面目にやらなくては、と自分に言い聞かせた。それに課題はジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読むというものだったから、この興味深い作品を使う授業なら「皆と一緒に学ぼう!」というタイトルにもかかわらず大丈夫ではないか、と思った。

しかしながら、結局このクラスは、私に大学を辞めるべきかどうかを検討することを余儀なくさせるほど低質のものだった。冬休み中に熟考した結果、辞めないことには決めたものの、まったく酷い経験だった。

この馬鹿みたいなクラスは丁度その年から新規に設けられたもので、私達はいわば実験台のモルモットだった。私のそれまでの学校生活で既にお馴染みのパターンである。

それまでの一年生必修のクラスは、各教授に15人位ずつ学生がついて一緒に五冊の本を読むという形式で、その五冊の中一冊は個々の教授が選び、あとは学年共通ということになっていた。

教授達は全員これをやらされたので、どうしても自分の専門分野以外の話題を教えることに戸惑ったり、子供のようにお手上げになるケースも多かったらしい。そういうことで、制度の「改革」が求められた。

新制度の基盤となったのは、教授連以外の大学職員に新入生を指導させようという「名案」だった。

要するに、食堂のマネジャーとか、心理カウンセラーとか、宗教顧問などが「先生」の名を借りて教壇に立つ、という訳の分からないデタラメな話だった。

因みに、当時のA大学の授業料は一単位あたり800ドルで、私が始めて買った車より高い値段である。

ミルの『自由論』については、ちょっと難しいテキストだったから、授業担当の職員も他の新入生達もあまり読んで来なかったようだ)

ともかく、授業が始まった。私の当たった「先生」は学生擁護関係の人だったと思うが、今では詳しく思い出せない。彼女の初日の発言はこうだった。

「皆さん、もう『自由論』は読まれましたね。今日はちょっとだけその話をして、次回から教科書に入りますから、買っておいて下さい。」

その教科書というのはプリンストン大学出版社発行の『大学生活入門』という白痴的な怪物だった。こんなものが生まれることもあるから、妊娠中絶の合法化が必要なのだ。

この本のことを思い出すだけで、今でも怒りを覚える。「新聞記事は、大抵見出しから始まります。」とはどういう文章か。馬鹿にするのもいい加減にしろ。

著者と、A大学でこの本を教科書に選んだアホな連中に直接聞いてみたかった。「我々学生達をどこまで痴呆扱いすりゃ気が済むんだ。」

そう文句をたらしたら、A大学信奉者達にこう言われた。「そりゃあ、大げさですよ。文脈の問題だし、誰も貴方を馬鹿にしてなんかいませんよ。貴方の方こそ、そういう態度は改めるべきです。」

しかし、「じゃ、読み手が馬鹿にされてると思わないような文脈を作ってくれませんか。出来たら、100ドル払ってもいいです。」と言い返したら、誰も挑戦に乗って来なかった。

このアホが書いた本からの抜粋をもう一つ披露しよう。「大学とい
うのは、貴方がご両親から離れ始める時期です。寮に住んでいても、毎日御両親と一緒に暮らしていても、貴方と御両親の関係は、おそらくいつの間にか変わって行く筈です。」

この本の感じをお分かりになって頂くにはこれで充分だろう。いくら何でも、A大学は新入生にこの本が必要なほど駄目な大学ではない。アメリカの大学の中では、上等な方である。

もし大学生にもなってこの本が必要だという人が居るとしたら、無駄な夢を捨ててバイトでもして生活するほうが良かろう。小学生でも分かる内容である。年上の兄弟が居なくても、大学に行く頃には親離れをするものだというのは、いつも素晴らしい真実を報道しているテレビからでも学べることだ。

800ドルの授業料を払ってこれでは、困惑しない者は居ないだろう。果たしてその通りで、全然課題をやって来ないような怠惰な学生の間でも、この「皆と一緒に学ぼう!」のクラスには不平の声が絶えなかった。

一学期の幕が閉閉じたところで、礼拝堂の裏でA大学150余年の歴史上初の焚書が行われた。地獄の炎に飲み込まれて行ったのがどの本だったかはあえて書く必要はないだろう。

しかし私は、生来の放火狂であるにも拘らず、このゴミ焼きに参加することを差し控えた。それどころか、問題の本を実家へ持ち帰って金庫にしまった。過ぎた過去の犯罪を忘れようとするのは良くないと思ったからだ。インチキな連中の愚行から生じた惨事を水に流してしまったら、人生の意味なんて無いじゃないか。人間は、動物と違って考えることが出来るからこそ人間なのだ。とは言っても何も考えていない輩も多いのだが。ともかく、馬鹿に踊らされて付いて行く者は、当の本人よりも更に愚かである。

そういうことで、その本は私の宝物になった。こんな悲劇の種でも、埋めて育てる義務はあるだろうと思った。すぐに枯れるだろうから生を与えない、という価値判断は神様にしか無い権限ではないか、という理論である。私はその頃既に無宗教のつもりだったが、まだまだカトリック教思考の癖から抜けていなかった。

冬休み

やっと冬休みになったが、丁度学期末に『昔々の日本の話』の映画が出来上がった興奮で、あまりキャンパスを去る気がしなかった。しかし、休みの間は留学生以外は寮に居残れない決まりだったので、仕方なく実家に帰った。

高校生の時は母の家の地下の部屋に住んでいた。私が大学に行ってからは妹がその部屋に移ったが、けっこう広い部屋だったので、三分の一はまだ私のスペースということになっていた。

だが、元の自分の部屋に足を踏み入れた途端、壁の隅々まで女の子っぽい絵で覆われているのに驚かされた。それだけならまだしも、自分の机の椅子にもペンキがベ
タベタ付いていることに気が付いた。

追い掛けて来た妹は微笑んだ。「兄さん、どう?私が描いたのよ。上手でしょ。兄さんの方は、兄さんの好きなものばっかりよ。」そう言われて見ると、私の側には、
仏様、蛙、スターウォーズ、金魚などが並んでいた。今になって考えてみるとそう突拍子も無い発想でもないのだが、椅子に垂れたペンキのことしか頭に入らなかった当時の私は兄失格だった。

「どういうつもりだよ。」はっと気付くと、私の本棚に開けっ放しの化粧品がバラバラ置いてある。大切な本を押しのけんばかりに。そして、蝋燭の匂いがした。「
お前、蝋燭か何か燃やしたのか。」

「うん。お母さんが良いって言ったから。」

その後のシーンを思い出すと、正直な所、ちょっと後悔せざるを得ない。今思うと、私はあまりにも幼稚だったし、まだ子供だった妹に罪は無かった。ただ、当時の私は、まだ自分の領域を守ることに精一杯だったのである。

頭の中で赤信号が点滅し始めた。夏休みに帰省する時には、もっと大変なことになるのではないか。一旦家を出たら、そう簡単に元の生活には戻れないというのは本当だった。しかし、夏休みのことは先の話だ。

変人だと呼ばれたことは星の数ほどあるが、中でもよく言われる理由は私が「ホームシックにならない」からだそうだ。自分でもこれは妙なことだと思う。回りの人々は皆「寂しい」と言うのに、なぜ私はそう感じないだろうかと考えたことは稀ではない。

しかし、これにはちゃんとした理由がある筈だ。一つには、両親には大変悪いが、私の育った家庭環境はあまり良いものではなかった。父も母もそれぞれ頑張って自分なりの形で愛を込めて育ててくれようとした。だが、これは上手く説明出来ないのだが、その愛の形が私には向いていず、かえって物凄い抵抗を引き出す結果となった。これは単に私の反抗的な性格のせいかも知れないし、理想主義のあまり周囲の人間がすべて落第者に見えたのかも知れない。まあ、これはこれで説明として筋は通る。しかし、私がホームシックというものを知らない理由は、他にもあると思う。

小学校五年生の私がボーイスカウトのキャンプに行った時のことである。一週間のキャンプで、二日目にもなると殆どの子が「お母さんやお父さんに会いたい」などと幼稚園児のようなことを言い始めた。私はそんなことは感じなかったし全然家へ帰りたいとも思わなかったので、反対に帰る二日前から気が滅入って来た。私は家族を愛してはいるが、正直、あまり会いたくはない。

幼稚園の先生をしていた母に言わせると、たいていの子供は初日に母親が部屋を出る時に泣くものらしい。だが、私は部屋に入った途端に「ママ、大丈夫だよ。すぐ帰ってよ。」みたいなことを言ったそうだ。自分ではあまりはっきりした記憶も無いのだが。確かに幼稚園時代の思い出と言えば全て他の子供とやったことだけで、母には悪いが彼女のことは何も覚えていない。

家族に対してだけでなく、私は一概にあまり「人寂しさ」というものを知らない。いつも会っていたいという気持ちになった相手は今までの人生でたった二人しかいない。勿論、この二人は愛した恋人だった。だが、彼女らと別れた後で「空しい」とは感じても、あまり「寂しい」とは思わなかった。

空しさは寂しさとは別物である。どう違うかというと、後者が「相手が居なくて悲しいから帰って来て欲しい」という感情であるのに対して、前者は「出て行った者は仕様が無い。戻って来て欲しいとは思わない。」という諦めの姿勢の悲しみだからだ。これが私には最も相応しい姿勢なのだろう。

私のこういった態度は私の強い好奇心にも関係があると思う。新鮮なことにしか興味を示さず、月並みになっ
たものにはすぐ飽きる。だから次を探すしか無い。これは、私自身が思うには、移り気ということではない。私は何事に関しても表面的な知識では満足出来ず徹底的に調べるタイプなのだが、ただ、その底が見えた途端に興味が消え失せてしまう。そうなると、もう分かったから次に進もう、という気持ちが抑えられない。)

だから次の話に移りましょう。

編集者の頃

せっかく大学に来たからには、高校時代と違った趣味を始めようと思った。高校ではずっと生徒新聞をやってみたいと思っていたのだが、指導担当の先生はセクハラをすることにしか興味の無いようなスポーツ狂で、記者連も気に食わない奴らばかりだったので、参加しなかった。(因みに、この教師は私が卒業してから数年後に、ある生徒と関係を持ったことが明るみに出て辞めさせられたそうだ。)

A大学の新聞は全て学生によって制作されているということだった。本当にそんなに自由なら悪戯し放題ではないか、と最初は思ったが、真面目にやることに決めた。記者になるつもりで説明会に行ったのだが、編集者を探しているという話だった。当時の私は権力に憧れていたから、何も考えずに早速申し込んだ。今になって考えると、私が大学で最初の一学期に学んだ主な教訓は「よく考えてから申し込むべし」ということだった。。そんなことは常識だと言われるかもしれないが、私は直接経験を通して常識を身に漬けなければならない性格なのである。

面接には五人の応募者のうち二人しか現れなかったので、そのまま私とKが採用されたKは中西部の出身だがバレーガールのような口調で、ロリコン目当てみたいな格好をした女性だった。編集者には相応しくないタイプだと思う方も少なくないだろうし、正にその通りだった。

ニュース面のになったというものの、それまで新聞を読んだことのない私は出版の知識が全く無かった。肩書きから察するに、相当自由に出来るものだろうと思ったのだが、これは大変な誤解だった。

編集長が私とKに告げた。「残念ながら、去年の記者は殆ど全員辞めてしまったんだ。だから募集しなくちゃならん。君らに期待してるよ。友達とか集めて、記者にしてくれ。」

ピカピカの一年生を相手に「友達とかを記者に」とはよくも言ったものだ。これなら、編集を任せるというのも頷ける。

副編集長は私達に前年の記者のリストを渡してこう言った。「あまり有能な連中じゃないけど、何とかなるかもね。」既に編集長の言葉にうんざりしていた私だが、彼女の嘲るような調子が可愛くて、つい「はい」と答えてしまった。

私はたまに信じられないぐらい女性の前で弱くなることがある。こういう「嘲る可愛さ」はあまり自分のタイプではないと思っているのだが、同時に、女性はどちらかと言えば世を馬鹿にしている位の方が望ましいと感じている。それは、妙な言い方になるが、「幸せ」な人間と一緒に暮らしても意味はないと考えるからだ。別に鬱病が好きという訳でもないのだが、個人的にはディズニー式のハッピーエンドより怖いものは無いので。

状態は早急に悪化し続けた。その昼、Kからメールが届いた。「あたし、忙しいの。記者集め、一人でやってくれる?よろしくね。」共編集者なので、私に指示をしたがる。Kが彼女の「忙しい」は、いつ付いたか知らないが男を断れない癖のせいでしかなかった。

私は七人の元記者達に電話してみた。最初は七人だからラッキーナンバーかも知れないと思ったが、そういう訳でもないようだった。四人は何度かけても繋がらなかった。もう一人はネットで調べて、転校してしまっていると分かった。もう一人の男性は私が「新聞」という言葉を口にした途端に、「興味ない。二度と電話するな。」と遮った。最後の女性は、始めの電話で「いいわよ」と言ってはくれたものの、それ以降消息を絶ってしまった。

実は、この記者探しは私の編集者としての仕事の中で一番簡単なことだった。

毎週月曜日に編集会議があった。最終稿の提出締め切りが水曜の夜だったので、草稿は月曜日までに書くことになっていたが、私の経験ではその時点で二割くらいしか出来上がっていないのが普通だった。

美術面やスポーツ面の編集者は自分の判断でトップ記事や見出しを決める権限があったようなので、私もそう出来るのかと思ったが、これはどうやら誤解だったようだ。何と言ってもニュース面は新聞の顔だから私のような素人の手に任せる訳には行かないとかいうようなことを言われたのだが、それなら何故私を編集者に採用したのか全く理解出来なかった。

記者があまり見つからなかったので、私は自分で記事を書き始めた。新聞は学生達の自己管理のクラスだったから、一単位しかもらえない。必要条件としては記者なら一学期に最低八本の記事を書くことになっていた。編集者については、当然の義務である編集の仕事に加えて記事を四本書けばいいということだった。しかし、私はその学期に十四本の記事を書き上げねばならなかった。

記事のテーマを選べなかったことが状況を更に苦しくした。今の私だったら即座に辞めるところだが、当時は大学の登録取り消し手続きが分からなかったし、まだまだ馬鹿な希望も抱いていた。

十月のある月曜日、私は風邪で編集会議に出なかった。Kに代わりに行ってもらうよう頼んでおいた。火曜日には記者達に電話をしたが、誰も返事が無かった。そして夜になって副編集長から電話がかかってきて、Kが会議に現れなかったことが判明した。その上、今週の一面記事を書く筈の学生が風邪で倒れているということで、「ギリギリだけど、明日の講演をカバーしてくれる?」と頼まれた。それを承諾してしまったのは、馬鹿の骨頂としか言いようがない。

風邪は悪化して熱も出て来たが、水曜日には講演に行き、くらくらする頭を抱えながらやっとのことで記事を書き上げた。オフィスに行ったら、皆がバタバタしていた。ニュース面の記事が四本足りない。一体どうなってるんだ。副編集長が説明してくれた。「Kが急に辞めちゃったから、足りないのよ。あなた、何か書いてくれる?」

結局私はその晩に記事を三本書いてからぶっ倒れてしまった。普段は物凄く元気な私だが、その時は倒れる以外どうしようもなかった。その後二日間熱が続いた。

まだある。十月の中旬の話だ。A大学のある寮の男子トイレで、毎日のように床に大便を残していく学生がいて問題になっていた。そして、ある日、これが一日に四回も起こった。犯人はおそらく精神障害者だったのだろう。学生課の担当者の女性はこの問題にどう対応するべきか考えつかず、妙な計略を実践した。学生新聞に「某寮の全てのトイレにはカメラが設置された」という見出しをでっち上げて、編集長に記事を書かせたのだ。本当にカメラなど付けた訳ではないから、全くのデタラメである。

いかにもアメリカの新聞業界らしい取引だったが、私は勿論この裏工作について何も知らされていなかったから、金曜日に新聞を見た時にはショックだった。私がトップのつもりで書いた記事は二ページ目に移動されて、一面にはこの「トイレにカメラ」という途轍も無い話が載っていた。始めはまさかデタラメとは思わず、編集長のことはよく知っていたにも関わらず、こんな情報を掘り出すとはすごいものだなどと思ってしまった。今思えば当時の私はあまりにもナイーブだった。

次の編集会で真実が明らかになって、副編集長は慌てふためいた。「大変よ。私達、こんな証拠も無い記事を、しかもトップで出しちゃって。学長が物凄く怒ってるんだから。皆、どうしたらいいの。」

私にしてみれば「いや、俺は勘弁してくれよ。『私達』って言うけど、所詮君とあのいい加減な編集長だけの責任問題だよ。君らが辞任すりゃ済むことだろうが。」などと言っても良い所だったが、結局黙って見ていることにした。そして、そのまま中途半端な編集者として学期末まで続けた。

ニュース面の編集者でも自分が話題にしたい記事が書けなかったので、丁度同じコンピュータープログラミングのクラスに居た美術面の編集者に話を持ちかけた。「僕はジャック・ハンディーのような『Deep Thoughts』(深い考え)を書きたいと思ってるんだけど、なんとかそっちに入れてもらえないかな。」

「ああ、いいとも。歓迎するよ。」彼はこう言って笑った。ニュース面がどんなに酷いかよく分かっていたから。

そういうことで、私は美術面に『愚鈍な一言』についての記事を連載するようになった。例としては「食堂の暖炉の上に『彼らは薪を集めて火をおこし、そのまま燃やしておいた』と書いてあるのだが、あの暖炉に火があるのを見たことはない。これは何たる不思議であろう。」などというのが典型的な内容だった。この漫画のようなものは大ヒットで、周りの人によく褒められたりした。これで編集者の仕事が無かったなら、もっと良かったのに。

一学期が終わって、クリスマスの頃に成績通知表が届いた。評価は全部Aになるかと期待していたのだが、封筒を開けてみると「新聞」だけがBになっていて、カチンときた。あのインチキ編集長が、顔を出したことも無い「教授」に告げ口したに違いないと思った。こんな理不尽な仕打ちに黙っている訳には行かない。早速その「教授」に交渉しに行く決心をした。

二学期早々に彼女をオフィスに尋ねたら、掃除をしている最中だった。教授を辞めて出て行くところだと言う。構わず、本題に突っ込んだ。

「前学期の成績ですが、何故私の評価がBになったのか、具体的に説明していただけないでしょうか。」

「え、それは、Bだな、と思ったからよ。」

「そうですか。しかし、なぜBと思われたのですか。」

「貴方の編集した記事から見て、Bぐらいで良いとおもったからよ。」彼女は少女が悪戯した後両親に告白するように、クスクス笑った。

「馬鹿もいい加減にしろ」と言いたかったが、無言で彼女の次の言葉を待った。

「何か文句あるの?」これは教授が口にすべき台詞ではない。厳密に言えば彼女は博士論文を書いたこともないし、教授と呼ぶには及ばない人物だった。単に地元の田舎新聞社で働いたことがあるというだけである。

「はい、文句は幾つかあります。」と私は始めた。そして、私が編集者としてどんなにこき使われ、他の学生の尻拭いまで引き受けて死ぬ程働いたかを説明したが、彼女はイライラした顔で聞き流していた。私が話し終えると、漠然と「まあ、考えときましょう」と片付けようとした。

私はもう完全に嫌気がさしていた。「いや、いいです。次に学長に話しに行くつもりですから。新聞には色々問題があるようですし、特に、例のトイレの記事については、学長も私の言い分に興味を持たれると思うんです。じゃ、お話、有難うございました。失礼します。さようなら。」

「待って待って!」と彼女。全く子供のようだった。「良いわよ、わかった。Aにしておくわ。」

朱に交われば赤くなる、と言うが、私はまだまだ迷宮に入ったばかりの未熟者だった。