大学への道

私が高校二年の夏、祖母が宝くじに当たった。賞金は五万ドル(五百万円)ぐらいだっただろう。インディアナ州で宝くじに当たった場合は、二つの受け取り方から選ばなければならない。全額を手に入れるには二十年かけて少しずつ貰うしかない。インフレを考えに入れると、それでも全額が貰えるとは言えないのだが、一度に貰って高い税金を払うよりはましというところだ。すぐにお金がほしい場合は、六ヶ月以内に貰えるが、半分しか手に入らない上、税金の率が高くなる。出来れば、ゆっくり貰う方が得だったが、祖母は歳のこともあったので、すぐお金を貰うことにした。

祖母は祖父とあまりうまくいっていなかった。母がある時私に父と離婚した理由を説明した。「私が子供の時は、両親が毎日のように喧嘩していたのよ。時には、何日もお互いに口をきかないことまであったの。だから、あなた達四人にそんなひどい経験をさせないように、離婚したのよ。」と言った。特にお金に関しては、祖父母は犬猿の仲のようだった。男が外へ出て稼ぎ女は家で子育てするのが普通の世代だったが、うちは貧乏だったので祖母も子供が幼い頃からパートで働きに出ていた。真面目なカトリックとして育った祖父は元米国海軍の船乗りで、新聞社に勤めていたが、イメージ通りいつも厳しく、怖い人だった。そして、自分が稼いだ金は自分の自由にして当然と思っている人だった。それまでお金に関して一切権利を認められていなかった祖母には、宝くじに当たったことがどんなに幸せに感じられただろう。

祖母はその賞金で家に、祖母は家に一部屋を増築した上、母に黙って私達孫のために大学資金の特別投資口座を開いた。そして、家族でマサチューセッツ州まで車で旅行することにした。インディアナ州から十六時間ほどかかるので、これはかなりの長旅だった。六年前に両親が離婚して以来、私にとっては始めての母方の家族との旅行だった。ちなみに、その前の年には、父と父方の祖父母と一緒にコロラド州に旅行したのだが、これも母方の祖母にとっては嫉妬の種だったのだろう。マサチューセッツ州の旅行もそういうことから始まったのかもしれない。

当時の私は家族とうまくいっていかなかったため、最初は断った。祖父母だけとならよかったのだが、母や兄弟も一緒となると嫌だった。さんざん議論した上で、母が私の断る権利をいつまでも認めてくれないことがわかったので、あきらめて行くことにした。子供は学校で「権利」のことをたくさん教え込まれるが、実際にそれを行使しようとしてもほとんど認められず、すぐに「権利」というものの空しさに気付かされる。これはとても不思議な話だ。

何よりも、家族と一緒に狭い車の中で長い時間を過ごすのが嫌だった。高校生で、何でも嫌な時代でもあった。そんな時にたまたま、母にこれまた嫌いな図書館で待たされている間に奥の部屋で古本セールをやっているのが目にとまった。何もすることがなかったから、見てみようと思って入ったが、売っている本のほとんどは誰も読みたくないくだらないものばかりだとすぐ気が付いた。だが、ちょうどその時、一冊の青い本に目が留まった。

『アイビーリーグより良い大学』(Looking Beyond the Ivy League, Pope) という一目で内容がわかる題名の本であった。当時反骨精神に傾いていた私は、これはぴったりの本だと思って、こっそり買うことにした。母がそのタイトルをみたとしたら、おそらく冷やかしただろう。極秘行動に成功して、ほっとした。これで旅行中に読むものが出来た。どうせ長く車内にいるなら、少しでも知識を得た方が良いだろう、と。

このたった五十セントの本は私の一生で最高の投資になるものだった。まだ死んでいないが、今の所これより良い投資があるとは思えない。

セイントジョンズ大学

その家族旅行は想像していた通りつまらなかった。まあ、強いて言えば、想像していたよりちょっとはましだったかもしれない。とにかく、車内で『アイビーリーグより良い大学』を読み終えた。さらに百校以上の大学紹介するところを何回も読んだ。特に興味を持ったのは、メリーランド州とニューメキシコ州にあるセイントジョンズ大学だった。(注:ニューヨークのセイントジョンズとは別物だ。)

その本には、セイントジョンズについて「アメリカの約三千校の大学の中でもっともイネテリな雰囲気のある学校と言えよう」と書いてあった。セイントジョンズにはほぼ千人の学生が居て、専攻は無い。学生は皆同じ授業を受ける。全ては『西洋文明の基礎文献』関係だ。これは、四年間を通じて有名な文学・理科・哲学などの作品から学生と教授が一緒に選んだ百冊を勉強するということだ。

当時の私は高校にうんざりしていた。他の生徒は何も知らない癖に、勉強しない。学ぶことを楽しまない。いつも先生に「先生、先生!なぜこんなことを勉強する必要があるの」とばかり聞いてやがる。私にとって、コイツ等と勉強するのは、時間の浪費よりむしろ脳髄の腐れであった。彼らは自分を向上する気は全くない。そんな中で、高校の先生はいつも「大学に入ると、全てを学ぶことが出来る」と言っていた。先生を信用していた私の大学に対する希望はどんどん膨らんでいた。そんな私には、セイントジョンズのカリキュラムは夢のように思えた。

高校三年の春休みに、父と運転を交代しながらわざわざセイントジョンズのメリーランド州にあるキャンパスを訪ねた。いわゆる「大学訪問」だ。アメリカの制度では、親がホテルに泊まっている間に生徒が大学のキャンパスで一泊二日の体験生活をすることが出来る。ちょうどワシントンDCで桜が開く時期だった。ちょっとDCを回ってから、セイントジョンズに向かった。

キャンパスに足を踏み込んだ途端、その小ささが感じられた。南西角から北東角まで歩いて九十秒ぐらいしかかからなかった。それに、三面は高そうな骨董屋、北面は海軍基地に面していた。まあ、大学さえ良ければ、これは気にすることではないと思った。だが、位置のことだけを考えるとしたら、まるで監獄みたいだった。大学から休憩できるような逃げ場もなかった。学生用の駐車場さえなかった。

位置は位置だが、十九世紀の建物の雰囲気はとても気に入った。セイントジョンズは北米最古の講堂がある。『西欧文明の基礎』などという偉そうなことを勉強する学生にぴったりだと納得しざるを得なかった。

だが、非常に気になることもあった。私と同じ日に訪問している生徒が三人ぐらいいた。私達には在校生のアルバイトかボランティアのホストが一人づつ付いていて、そのホスト達が色々なところに連れて行ってくれた。ところが、ホストばかりではなく、ホストの友達まで一緒についてきた。六、七人はいただろう。これには妙な気がした。せっかく素晴らしい本をゆっくり読めるところに居るのに、入学希望生に付いて歩く暇などないのではないか、と。我々は別にそんなに面白くもない、ただの高校生だったのに。

夜は美味しい飯を食堂で済ませてから、授業を聴講する機会があった。アリストテレスの生物理論についての授業だった。ただし、セイントジョンズの教授は専門家では無いため、授業というよりも、先生と学生が一緒に議論をしながら、本から学び、お互いを励む、という形式だ。だが、訪問者からは何も学ぶ事が出来ないようだった。授業が始まる前に、ホストは「絶対音を立てるな。観察だけだよ。授業の差し支えになったら、あなたの入学願書は×になる。」と厳重な注意を言いわたした。

それでも、当時の私は感動した。本当に真面目にやっているんだな、と。

その授業は何よりも素晴らしかった。二十人が同じ本を読み、同じテーブルで座り、その本に書いてある思想や理論の意味や感想について議論するのは本物の教育である。セイントジョンズに着いてからだんだん疑惑に溺れ始めていた私は突然ほっとした。この大学に入るのは私の運命である、と。

その後、一人で図書館に行った。『西洋文明の基礎文献』教育をうたう大学には何の本が揃っているかと知りたかった。真面目な本ばかりだった。だが、息抜き用になるような比較的に軽い本もあるかな、と探してみた。軽い本は一切なかった。(初めての大学訪問だったので、まだ大学の図書館に軽い本がある筈はないことは知らなかった。)

図書館についてもう一つ思い出すことがある。私が図書館へ近づいた時、一人の女子学生が先にドアを開けて、後ろに誰かいるかどうかを確かめた。まだちょっとドアまで距離がある私を見てにっこり笑うと、ドアをおさえて待ってくれた。しかも非常に綺麗な女性だった。それまでそんなにフレンドリーではない学生しか出会っていなかったので、彼女のような人物を見つけたことは何よりも嬉しかった。

私は自分の高校の女性には性的な興味しか持っていなかった。それ以上求めても期待外れだけになるから。当時はまだそんなに数多くの頭が切れる女性と出会ったことがなかった。もちろんこれは女性を軽蔑しているということではない。ただ、私の高校では、頭が良い女性はかなりいたけど、友達として哲学・宗教・宇宙の運命などについて話そうとする女性はいなかった。だから、異性の相手はなかった。それだけの話だ。

その後、ホストと再会して、校内の喫茶店でコーラを飲みながらたくさん話した、『不思議な国のアリス』のティーパーティーのように。それからホストの部屋に戻り、すぐぐっすり寝た。目が覚めたときには、ホストは出て行くところだった。朝の挨拶を済ましてから、面接に行った。

面接はうまくいったと思った。話が盛り上がって、面接官が直接私に「まあ、あなたはもうまるでセイントジョンズの学生のようだ」と言ってくれたからだ。

面接を済ました後、インディアナへ帰った。長い車の旅の間に、父と大学のことをよく話しあった。ただ、私はセイントジョンズに対しての興奮をわざと収めるようにつとめた。両親はまだ私が地元の大学に行くと思っていたからだ。だが、父は「自分の好きなところに行っていいよ」と言ってくれた。父は、母と違って、心の中で反対していてもいつも私の決断を支えてくれる人物だ。

当初は本当にセイントジョンズに憧れていた。いや、というよりもむしろ、他に大学訪問しなくてもいい、と思っていた。

だが数ヶ月経つうちに、疑いが出てきた。セイントジョンズは本当にそんなに良いところだろうか、と。才色兼備の女性がドアを開いて待っていてくれるところは他にいくつもあるだろう。それに、本当に本に籠っているだけでいいのだろうか。私はこのプログラムは魅力的と思っていたが、同時にコンピューターのことも一応勉強しておいた方が良いと思った。そして、皆が同じ授業でつまらなくならないかな。何より私をおびえさせたのは、ホストの、受験志願の高校生にさえ友達のように声をかけようという寂しさだった。

追い討ちは、学費が信じられないぐらい高い。高い上に、卒業しても学位は総合学部だからすぐ給料の良い仕事を見つけられるわけがない。うちは貧乏家族だし、コネもないので、そうはいかない。同時に、だんだんコンピューターをもっと勉強したくなってきた。毎日使っているコンピューターの原理や構造は非常に興味深いものだった。そして、留学にも興味を持ち始めた。どことは決まっていなかったが、一応機会さえあれば、どこかに行きたいと思った。だが、セイントジョンズの画一化された教育では、コンピューターの勉強はもとより、留学なんかできない。そんなわけで、最終的にはセイントジョンズに願書も出さなかった。

今考えると、なぜ願書も出さなかったのがちょっと不思議に思える。私は大学六校に申し込んだ。セイントジョンズを加えるのにそんなに手間はなかったが、それにしてもちょっとした努力さえしなかった。おそらく、セイントジョンズに申し込まなかったのは、もし合格してしまったら行きたくて仕方がなくなるだろうと自分で知っていたからだろう。

ニューメキシコ州のではなく、メリーランド州のキャンパスに訪問したことも原因になっただろう。実は、『アイビーリーグより良い大学』を読んだから、ニューメキシコのキャンパスの方に行きたかった。ニューメキシコのキャンパスはずっとひろくて、近くに軍隊基地も無い。東海岸の威厳ぶった雰囲気に比べて、砂漠の民の習慣が君臨している環境は非常に私の気に入ったかもしれない。もし、メリーランドの代わりにニューメキシコのキャンパスを訪問していたら、多分ようやくセイントジョンズに行くことにしただろう。

しかし、父は訪問ついでにワシントンDCを見物したかったし、インディアナ州からニューメキシコ州までは飛行機しか無かった。実はメリーランドへの旅だけでもうちの家計にはキツかったのだ。高校生の私は既に自分の家庭の金不足に気付いていた。私が大金持ちの家族で生まれだったら、セイントジョンズは躊躇無くまっすぐに行ったと思う。だが、結局その方が良かったとは言えない。お金の余裕は色々な悩みの原因ともなるからだ。

インディアナ大学

高校四年の秋、インディアナ大学の一番名誉のある奨学金を申し込んだ。インディアナ大学は両親の母校のみならず父の十一人の兄弟のうち九人の母校だったので、当然私に対しても「インディアナ大学へ行け!」という圧力が強かった。

アメリカの中西部の大学の中では、インディアナ大学の評判は高い方だ。それに、教養課程(liberal arts)の大学なので、私の性格と合っていたとも言えるだろう。特に、認知科学(cognitive science)という学際的な出来たばかりの総合的分野に興味が引かれた。認知科学は哲学・心理学・生物学・コンピューターサイエンスなどから構想された分野で、今でも思い出すだけでワクワクするほど魅力的なものだと思う。しかし、親の足跡を追いたくはなかった。親には失礼だが、親の人生は真似をするほど何ものでもなかった。

アメリカでは、経済格差を補遺するための「必要基盤」(need-based)の奨学金と、努力や才力への報償としての「実績基盤」(merit-based)の奨学金と二種類がある。最近の傾向は必要基盤の方へだが、折よく当時のインディアナ大学のほとんどはまだ実績基盤だった。

その実績基盤の奨学金の中で一番名誉があるのは、旧学長にちなんで名付けられたウェルズ奨学金である。四年間の学費・食費・部屋代・本代を含め、三年目には世界中どこでも好きなところへ行く機会もあたえるという、最高の奨学金である。一人のウェルズ奨学生に聞いたところ、彼は三年生の時、ネパール四ヶ月、バックパッキングでヨーロッパ一ヶ月、オーストラリア四ヶ月と、全て学校の費用持ちで旅行したということだった。本当の話。こんなチャンスは世界中探しても滅多に無いだろう。だからすぐ申し込んだ。

選別過程は三段階で、三段階目は面接だ。五十人面接を受ける中から二十五人が奨学生として選ばれる。運良く、私は面接まで残った。

面接のため、父と一緒にインディアナ大学へ向かった。案の定、凶兆があった。父と珍しく、早めに出ることが出来た。高層道路へ出たところで、父は信号で車を止めた。私達の前にもう一台の車が既に止っていた。信号が赤だったから、待つのは当たり前のことなのだが、父は信号が変わらないうちにエンジンをかけて前へ進もうとした。赤なのに。前に車があったのに。そして、目の前の車に衝突してしまった。情けないことだった。

幸いなことに、誰も怪我はなかった。でも、前の車のドライバーが頭に来たのは勿論だ。父はすぐに裏技で、「急いでいるので警察を呼ばないで欲しい。代わりにこれを受け取ってくれ。」と二万円ぐらいを差し出した。私はいつもこういう手段は不倫的だと思っているが、アメリカではよくある話だ。なぜなら、交通事故を報告してしまうと、加害者の保険料金も被害者のも上がるからだ。ちなみに、二万円では大した額ではないと聞こえるかもしれないが、被害者の車を売っても四万円くらいにしかならないようなポンコツ車だったから、妥当だったのだ。当時私が運転していた車も同じようなものだったから、わかるはずだ。

困ったことに、相手のドライバーは父に「これはハッキリアンタの不注意による事故だから、アンタの保険会社に新しい車を買って欲しい。警察を呼ばなくてはならない。」と怒りたっぷりで言った。インディアナ州では交通事故など日常茶飯事なので、警察はのんびりとやってきた。一時間ほど待たされた。やっと警察が到着したと思ったら、更に面倒なことになった。あの野郎は車保険を持っていなかったのである。これはもちろん違法である。そして、警察は彼を逮捕しなければならなくなった。でも、誰かを逮捕するとなると、さらに時間がかかる。

やっとの思いでインディアナ大学に着いた時、すでに指定された時間より三十分ほど遅れていた。父の下手くそ運転仕方のせいで、全然集中ができなくなってしまった。父を殺してやりたい位だった。

そのまま父と分かれて、他の生徒達と一緒に美術館を見学した。

その後、夕食の支度を待つ間、おやつを食べながら他の生徒と話す時間があった。皆優秀な人ばかりだった。つまらない世間話から話題はとうとう小説に移った。そのとき、テーブルで一番可愛い女の子が突然私の一番好きな本が大好きだと発言した。それまで私の知り合いの中でその本を読んだどころか、聞いたことさえある人は一人もいなかった。だから、彼女が私の大好きな本も大好物だと言ってくれた時は嬉しくてたまらなかった。(ちなみに、その本はNeil Gaiman著の『American Gods』という本だ。あいにく、日本語訳はまだない。)大学生活がずっとこんな調子でいくものなら、どんなに幸せだろう、と思った。

それから夕食に向かった。最初は支度に二時間もかかるというのはどういうことかと思ったが、そのホールを見ると瞭然だった。レストランだったら軽く二万円はするような食事だった。確かフォークが五本並べられていた。今までで豪華だなと思ったディナーはたった二本のフォークが限界だったのに。無論美味しかった。だが実を言うと、私の舌の感覚力を遥かに越えた料理だった。私は二十ドル(二千円)以上のディナーを食べると、美味しいことは美味しいとわかるけれども、自分の舌を超えるから、ご馳走になっても、鑑賞はあまりできない。そんなわけで、豪華な食事に慣れていない私は失礼をしないか大心配で、頑張った。頑張ったというか、自分の自然な真似を収めようとした。今でも成功したかどうかさえわからない。

最後に一人の奨学生が現れ、バイオリンで二曲を奏した。

情けないことだ。地元の州が税金で私如きな者を饗応するなんて許されるべきではない。何のためにここまでしたのか。この面接の日の予算はおそらく大学の一年間と同じ価格になっただろう。「このご馳走なんかしないで、奨学金の数を増え!」と思った。この接待は良過ぎた。私はただよく勉強して、良い成績を取っただけだ。奉仕活動もしたが、それほどしたわけではない。とはいえ、そもそも奉仕活動は報われる目的ですることではない。

これを契機としてハッキリ解ったのは、公立でも大手の大学では教授の待遇が非常に良いということだ。そう思うと違和感を覚えた。

夕食後学部の展覧会があって、教授連と話す機会があった。残念なことに、哲学やコンピューターサイエンスの代表者はいらっしゃらなかった。

それから奨学金プログラムを運営している方とコーヒーとコーラを飲みながら話すことができた。彼はお爺さんっぽく自分の生い立ちを話したが、結構面白かった。彼はいわゆる「高校sweetheart」と結婚した人だった。自分の高校sweetheartを失ってしまった私にとって、妙な論理で彼の担当しているプログラムに参加することが出来るとしたら、その別れた際の痛みを治すことと繋がる、と思った。

それから生徒達はホテルの廊下に集めって雑談をした。競争相手同士で奨学金のことは話せないので、何を話したかというと、『Jackass』という映画のことだった。『Jackass』(バカ野郎)という映画はその二ヶ月前にリリースされて、モラルの悪化しつつある傾向として話題になっていた。なぜなら、その映画の全くバカな場面を真似するやつが数十人出てきて、そのほとんどが怪我で入院になったという始末だったからだ。例えば、坂の頂上からショッピングカートで下までサーフィンするとか、そういう類いのことだ。とんでもないバカな映画であった。私は見ていなかったが、テレビ版を五分ぐらい見て、それで十分に思えた。

ちなみに、この奨学金のファイナル五十人として競争している生徒達はハーバード志願生並みの粒ぞろいだった。大したもんと思ったのもつかの間、『Jackass』の話になってしまった。今まで高校にうんざりしていた私は、大学でなら、頭の切れる人々と話すことが出来、もう今までのように馬鹿者達と下らない会話なんかしなくても良いとおもっていたのだが、その夜に、頭の切れる人間ばかりの集まりでも『Jackass』のようなものが話題になる可能性があることを痛く思い知らされたのである。

情けないことだ。

皆の話は続いていたが、自分は部屋に戻り、寝ることにした。大学の費用で、一部屋に生徒二人ということになっていた。私のルームメートは遠くのノースカロライナ州からわざわざインディアナまで来たという男だった。でも、気取ったやつだったからこれ以上話す気はない。

翌朝は教授達用のビュッフェでとても豪華な朝食だった。大学教授は毎日このような食事が食べられると知らなかった私は、それだけのために教授になろうかと考えてみたりした。

面接はその後だった。この不吉が連続の週末に相応しく、自分の面接官の肩書きをみた途端に嫌な予感を覚えた。彼女は論理学の教授だったのだ。私の願書の専攻希望欄には「哲学・コンピューターサイエンス」と記入したから、大学の方はその教授が最適だと思ったのかもしれないが、私には合わなかった。私の哲学への興味は倫理関係で、論理からはかなり離れている。そのときまだあまり学問に詳しくない私でもそれ位は知っていた。(後で、アメリカの哲学は二つに分かれていることがわかった。一つはcontinental schoolと呼ばれる欧米の考え方の歴史を勉強する学問であり、私の好むタイプの哲学でもある。もう一つはanalytical schoolと呼ばれる論理関係の数学的な哲学である。)

その面接のことはうまく行かなかったという以外ほとんど忘れてしまったが、ひとつだけ質問を覚えている。それは、
「哲学の中で、あなたのもっとも興味深いと思っている点は何ですか。」
「人間は自由意志を持っているか否か、です。」
「持っていると思いますか。」
「持っていると思います。」
ここで、教授の口調が変わった。「もし、あなたが人間が自由ではない証拠を発見したとしたら、どうしますか。」
困った。「私はそれを仮に認めながら、他の方法で自由の意思の根を樹立する可能性を探します。」

これは無論間違いだった。だが、間違いだと知りながら、そう答えた。教授の顔を見れば、彼女が自由意志など童話のようなものだと思っていることはハッキリわかった。しかし、私はなんと答えばいいか他になんとわからなかった。まだ高校生だったので、大学で流行っているくどくどしい言い回しはまだ把握していなかった。それに、たとえできたとしてもそういうような言い回しはしたくない。嫌いだから。奨学金をもらえないことになっても、することとしないことは存在するはずだ。

そう思えながらビートルズの『白いアルバム』を聞きながらうちに帰った。二週間後に通知が届いて、結局私は選ばれなかったとわかった。私が受け取った数十通の不合格通知の中で、それは一番きちんとした、丁寧な手紙であった。でも、一番私をガッカリさせて手紙でもあった。不合格だったから自分で学費を一部払うためお金を稼がなければならないし、海外旅行の特別料金は無料から大金になってしまったからだ。

手紙の最後に合格者の名前が並べてあった。これは「知りたければ、皆さんは合格者を知る権利がある」という、説明会での面接についての約束の通りだった。その晩で一緒になったルームメイトは合格だった。地元の出身ではないのに地元の税金でインディアナ州の州立大学へ通うことになっている。でも、すぐ考え直した。これはあくまでもメリットを元にしているの奨学金だから、不合格というのは、私の能力不足、または実力不足だけだ。他の人を責めても仕方がない。

同じ『American Gods』が大好きだった女の子はあの奨学金をもらって、結局インディアナ大学に行ってしまった。デートする相手にはなれなかった。辛い,辛い。通知が届いたから二ヵ月後、州の学業大会で偶然彼女を目にかけたことがある。すごく話したかったが、適切なセリフを思いつかなかった「おめでとう」は単純過ぎるし、私が不合格だったことはまだ恥に思えた。

無論両親は非常にガッカリした。私にガッカリした。でも仕方がないと思った。自分は出来るだけ頑張った。サボったわけではない。ただ今回は、自分の番ではなかっただけだった

ベロイト大学

私がベロイトへ運転していたときのことだ。セミトレーラーが突然私の車線に割り込んできた。運良く、私は素早く反応してブレーキをかけ、隣の車線に移った。だが、もし移った車線に他の車があったとしたら、とんでもない事故にあってもおかしくない。もうちょっとで死ぬところだった。これは最初の凶兆だった。

その週末ベロイトは生徒奨学金希望者で大変混んでいた。ベロイトには三種類の松竹梅にあたる奨学金があり、その週末に決められることになっていた。

父と分かれ、受付をしてからすぐホストに紹介された。私たちの最初の会話は以下の通りだった。冗談ではない。
ホスト「よう、こんにちは。ジョンと呼んでくれ。マリワナはどうだい?」
私「吸いません。」
「じゃ、タバコは?」
「吸いません。」
「そっか。他のドラッグは?言ってくれれば、俺が探してくるからさ。」
「いや、ドラッグはやらないんです。」
「そっかい?楽しいもんなんだけどな。やらないなんてもったいないよ。試してみろよ。俺、おごるからさ」
「聞いてくれて嬉しいけど、やっぱり結構です。」
「そっか。俺が悪かった。もちろん、やらなくても構わない。俺はただフレンドリーなことをしたかった。分かるだろ?」
「ええ、もちろん。気持ちはありがたいです。」
「世界にはいろいろな人がいるからさ。」
五分間の沈黙。私たちは寮へ向かった。

これはある意味、アメリカの優待精神が極端に現れた例である。違法の世界へ誘うにしても、心から暖かさを込めて、お客さんを接待しようとする。親切なことは親切なのだが、薦めていることが良いか悪いかは別問題だ。

ちなみに、私はドラッグを使ったことがない。タバコも吸ったことがない。煙の匂いは苦手だ。子供の頃、火遊びのは大好きだったが、どうもタバコやマリワナの煙は気に入らない。

彼についてととんでもなく荒廃した寮へ入った。匂いだけはマシだったが。そこで、彼が友達に紹介してくれた。皆は寮の共用ラウンジでティムバートンの『エッドウォード』という映画を見ていた。ご覧になったことがある方にはこの後のシーンの不可思議さが分かると思う。

優しい人ばかりだった。ただ、ドラッグしか趣味ないのような奴らだったので、ボウッとしていてあまり会話の相手にはならなかった。

ドラッグのユーザと暇つぶしをすると、信じられないような会話を聞くチャンスがよくある。今回も例外ではなかった。

ある女性「今夜のビールはもう揃っている?パーティーでいっぱい飲みたいわ」

ジョン「いや、金がない。ラーメン生活だ」

(アメリカのカップラーメンはカップ入りでなくプラ袋包装のものだ。そのすごくまずいラーメンは15円しかしないから、貧乏生活をしている大学生に大人気だ。私の知り合いの一人は、四ヶ月ラーメンばかりを食って倹約に頑張ったが、二ヶ月目あたりから気が狂ったように変になった。)

女性「ダメねえ。あたしお金はあるけど、誰か偽造免許持ってない?

(アメリカの法律では二十一歳から飲酒できる。違法販売の罰金が高いから、ほとんどの店は歳を確認する。そのため、二十一歳未満の学生の中ではこの手段を使うことが多い。)

ある男「ないんだ。持ってたけど警察にとられちゃってさ。」

もう一人の女性「わざわざ買いに行くことないわよ。あたし、母さんに頼むから。」

彼女は携帯電話を取り出した。

「もしもし?ママ?悪いんだけど、今夜のパーティーのビールを買ってくれない?六ケースで足りると思うわ。いい?よろしく。」

本当にそんな当たり前のような一方的会話だった。それに、信じられなかったのは、実際に彼女のお母さんがビールを買ってくれて、二時間後わざわざその寮まで届けてくれたことだった。ちなみに、一般的にケースは二十四缶だ。

それからジョンと彼の友達と一緒に食堂で夕食を取った。他のことはともかくとして、飯は案外美味しかった。

ジョンは哲学やコンピューターサイエンスのことはぜんぜん知らなかったので、できるだけ知り合いを絞って、詳しい人を紹介しようとしてくれた。だが、あまり適切な人は思いつかなかった。結果はどうであれ、本当に優しかった。

その夜は演劇を見る機会があったので、ジョンと分かれ、父と合流して一緒に見に行った。すっかり内容は忘れているけど、とても良かったとだけは覚えている。私は高校で演劇を二、三回やったことがあったので、大学でも演劇やろうかなと思っていた。まあ、ベロイトの良い所の一つと考えればいい。そんなにたくさん良い所があるというわけでもないから。

朝一時頃ジョンの部屋に戻ったら、彼が着替えていたところだった。

「おい、マルディ・グラのパーティーに行くかい?」と気軽に誘ってくれた。
「いや、悪いけど、九時から奨学金の面接があるので。」
「あ、そうか。じゃ、行かない方がいいだろうね。俺たちのパーティーはすごく楽しいのに、残念だな。だったら、こう言うのは悲しいけど、もう君とは顔を合わせないだろうな。俺は多分ベロベロになって彼女の部屋に泊まるから。何時に起きるつもり?」
「八時かな。」
「じゃ、俺の目覚ましをかけておこう。このボタンを押すと音が止まる。目覚まし一つでいいかな?ぐっすり寝るタイプじゃないよね。」
「大丈夫だと思います。」
「よかった。いくつあっても足りない奴もいるからさ。じゃ、頑張れよ。俺も一生懸命頑張ってホストをやったんだよ。実を言うと初めてでね。多分、君にも分かったんじゃないかな。俺は普通ホストなんかしないタイプだけど、人数不足って、入学事務局に頼まれてさ。俺はホストには落第だろうな。」
「いや、大丈夫でしたよ。とても良い経験でした。ベロイトをありのままに見ることができて、感謝しています。」
「なら、いいけど。とにかく、さよなら。楽しかったよ、坊や。面接頑張れよ。シャワーは左側の一番近いドアだよ。絶対ベロイトに来いよな。この場所はすごいだからさ。」
「鍵はどうすればいいですか。」
「放っといていいよ。ここは正直者ばかりだから。じゃ、行くぜ。お休み!」

ある意味、私が訪問した大学の中では、ベロイトは一番すごいところだった。実は、ジョンとの別れは私にもちょっと寂しく感じられたのだった。彼は私と全然性格が合わなかったが、それでもとても親切にしてくれたのだから、今でもそれを評価している。

八時に起き、シャワールームに入った。しかし、それが男女共用のシャワールームとは知らなかった。シャワーに入ったときは誰もいなかったのだが、出た時にはちょっと恥ずかしい思いをした。

それから朝食を食べ、面接に行った。その内容は全然覚えていない。そして、キャンパスを見学した。殆どはすごく古い建物で、設備も優れていなかった。コンピューターサイエンスの専用ラボには八年物のパソコンしかなかった。その後父とうちへ帰った。

数週間後、面接に合格したことがわかった。無論、私はあの訪問以来ベロイトに興味はなくなっていた。通知は記念にフォルダーに入れて、「他の大学に行くことにしました。」というような返事を書いた。まだどこと決めてはいなかったが、ベロイトに行きたくないことだけは確かだったから、すぐ断りの手紙を出した。そうしないと、私に提供された奨学金が次のもっとベロイトに相応しい学生に回っていかないから。

ノックス大学

次もまた奨学金の面接のため、父と二人でノックス大学へ向かった。大学訪問はなかなか楽しくと思い始めた。今まで自分は旅行嫌いだと思っていたのだが、むしろ「家族旅行は好きじゃない」ということに気が付いた。皆と一緒だと喧嘩ばかりするが、父だけなら私は平気だった。

そのとき父がしてくれたことに対する感謝の念は、今になって大きくなるばかりだ。父は仕事を休んで、私と一緒に五校の大学を訪ねてアメリカを回った。だが決断は全部私の自由にさせてくれた。これは何よりも有難いことだった。ちなみに、父が受験生のときにも、祖父が同じように大学訪問に連れて行ってくれたそうだ。父は最初ノートルダム大学に憧れていたが、私のセイントジョンズのように、訪問してからどんどん行きたくなくなったと言う。でも、それから二十五年後、弟がノートルダムに行った。人生は妙なものだ。

うちからノックスまで車で四時間ぐらいかかる。ちょっと遠かったが、父の年間休暇もそう多くないから一日で往復することにした。

ベロイト大学と同じように、ノックス大学はノックスという町にある。そして、ベロイトと同じように、ノックスの町は経済的に苦しい状態にある。アメリカの小さな市町村はほとんどそうだ。

ノックスのことは覚えているが、あまり書く価値のないことばかりのような気がする。別に悪いところではなかったが、ものすごく寂しいキャンパスだった。私が訪問した日にはぴしゃぴしゃの雨が降っていたせいというだけかもしれないが。

ノックスの劇場ステージはその寂しさの象徴のようだった。先端技術を見せびらかさんがために、七十年代に専用の映写機を購入したのだそうだ。どんな背景でも映せるからセットの大道具が要らない代わりに、ステージの後ろに大きな醜い白い画面が聳え立つことになる。劇を上演するときは映画の背景のように場面に合わせて適当なものが映るという仕組みだ。

三十年前だったらこれも画期的な発想だったかもしれない。だが、キャンパスのツアーガイドによると、その装置は二、三年しか使われなかったそうだ。そのあとは普通の劇のスタイルに戻り、映写機のことはすっかり忘られてしまったそうだ。しかし、その巨大な画面は莫大な誤算の証拠として誰の目にも明白に残っているから、忘れられようもない。

それ以外、ノックスの設備は比較的に良く整っていた。私が今まで行った図書館の中では、ノックスのが一番きれいだった。家具や本棚は全部柏材で、千八五十年代の創立以来丹念な手入れで維持されていた。卒業論文を書く四年生専用の小さいオフィスみたいな部屋がいくつかあったのは素晴らしかった。四年生になったらいいよなと思った。しかもこんな綺麗な建物の中に。ノックスの建物で、気楽に感じたのはこの図書館だけだったが、このビルで本当にホットした。

調べてみると、ノックスのコンピューターサイエンス課は良さそうだった。でも、なぜかわからないが、ノックスはどうも気に入らなかった。キャンパスのツアーガイドにはいらいらしたが、それだけで大学に興味をなくすというのはありえないことだ。

ノックスは平均より良いのだが、その良さそのものがまったくもって普通という線を出ない。特徴がないというわけでもないが、これと言って際立つような独得なものもない。その上、寂しいところだった。出身のインディアナポリス市と変わらない。インディアナポリスは千万人以上の人口を持ているが、その割りに娯楽はない。

面接をしてから、雨の降り続く中を帰途についた。実は、この旅で一番強く記憶に残っていることは、ノックスを発ってからのことだ。

私の家族はカトリックだ。当然私はカトリックとして育てられた。だが、カトリック教の習慣はよく身についている割に、信仰そのものはまるでない。両親ともカトリックだが、母の方がより敬虔だ。

この旅をしたのは春だったから四旬節(Lent)だった。それに金曜日だった。そう敬虔でなくとも、カトリックと言えるカトリックは四旬節の間の金曜日には明るい時間に軽い食事だけして一日中肉を食べない。

ノックスへ向かう途中のランチはファストフードで済ました。無論アメリカのファストフードのメニューには肉が入っていないものはほとんどない。だから、ウエンディーズで美味しいベークドポテトとまずいサラダで我慢した。これは私より父の方が苦しかったようだ。

そして帰りはもっと大変だった。二時間ほど高層道路を走ったが、レストランやファストフードの広告さえ見えなかった。私達は普段は六時ちょうどに夕食を取るのに、既に八時だった。父も私も山盛りに食べるタイプだから、昼のサラダとベークドポテトでは食べ終わった時点でも満腹というにはほど遠かった。無論、食事制限をしている筈だからそれでいいのだが、お腹が痛いほど空いていた。突然、「家族レストラン。ここから十マイル。」という広告看板が目に飛び込んできた。高層道路を出て、楽しみにそこへ向かったのだが、店の看板を見ると、そこは「The Beef House」(牛肉屋)というレストランだった。

「まあ、気にしない。気にしない。入っても損はないよ。おそらく菜食主義者向けの食事もあるから。」と父は言って、私たちは車を下りてレストランに入った。だが、メニューを見て、さらにショックを受けた。これは家族レストランじゃない。「家族レストラン」は一般的な家庭の予算で大丈夫な店を指すものだ。ここは神様みたいな値段の「牛肉天国」だった。ざっと一人あたり七十ドル(七千円)というところである。困ったことには、メニューには牛肉以外の物もあった。牛肉ばかりだったら、出ることは簡単な筈だったのに、高級な鮭や鯰(なまず/catfish)もあった。父は「値段を気にするな。ここで食べよう。」と強く勧めた。

しかし、私はどうしてもその値段が気になった。レストランで一人当たり二千円のディナーさえ食べたことがなかった高校生の私には、信仰がなくても四旬節にこんな豪華なご馳走を食べるのは御免だった。「これは無理だよ。」としか言えなかった。父は悲しそうな顔で「値段なんか気にしないでいいよ。大学訪問なんて毎日するもんじゃないんだからさ。本当にいいよ。食べよう。」と納得させようとした。でも断るしかなかった。これを十回位繰り返して、私は父をようやく説得したが、その勝利は良い気持ちのするものではなかった。

それからまた一時間ほど車で走った。九時を過ぎだ。やっと都市郊外に入ると、ファストフォードの店はいくつかあったが、肉が大盛りのメニューばかりで四旬節にしては不適切だった。結局ロング・ジョン・シルバーズに入ることにした。おそらく日本では聞き慣れない名前だと思うのだが、米国で最悪最低のシーフードチェーンだ。二人分あわせてたったの十ドル(千円)で済んだが、犬の飯のような食事だった。たぶん愛犬家に溺愛されているペットの飯の方がうまいだろう。

倹約とは辛いことだ。カトリック教徒のような精神的倹約はさらに厳しい。

カラマズー大学

実はカラマズーに行く気はあまりなかった。でも、アメリカの共通願書は一度に六校まで申し込めるので、入れておいて損は無いと思った。カラマズーは『アイビーリーグより良い大学』によると良い大学だったし、うちからちょっと離れているとしても遠すぎるというほどでもなかった。その上、日本の人には分からないかもしれないが口に出すだけで笑えるような名前だった。まあ、そんなことはどうでもいいだが。

私の高校は三、四年生に毎学期二日の大学訪問休暇を許していた。四年生の春学期にまだ一日残っていたから、カラマズー大学に行くつもりは無くてもここでもう一つ奨学金面接をしておいて損はないと思って、父と一緒に行ってみた。

カラマズー大学も、ベロイト大学とノックス大学のように、カラマズーという町にあった。でも、その二校と違って、カラマズーは結構面白そうな町だった。

残念だが、大学そのものについては私の記憶に何も目立った特徴が残っていない。広い道路で二つに分かれたキャンパスで、西側が学部の建物、東側が寮になっていた。きれいなキャンパスだった。それぐらいしか覚えていない。

A大学

四年生の春に母とA大学を訪ねた。六校のうち、ここだけは母と一緒に行ったが、他は全部父とだった。

私が申し込んだ大学の中ではA大学が一番うちから近かった。これは私にとっては欠点だったが、両親にはそうでなかったようだ。母は運転免許は持っていなかったので、私が運転していった。

近いから半日位で訪問することにした。最初はキャンパスのツアーだった。四人の受験生とその保護者と一緒に、A大学の素晴らしさの説明をくどくどと聞かされた。ガイドは現役の学生だった筈だが、これでいったいどうやって大学生になれたのかと思わざるを得ないような人物だった。

それから母と分かれ、コンピューターサイエンスの教授と三十分ばかり話すことが出来た。ポニーテールにフランネルのシャツと草履と言ういでたちの彼の名はジムだった。A大学では、クエーカー(キリスト教の平和主義派の一つ)の伝統に従って教授でも名前で呼ぶ習慣がある。これでも教授か、と最初は驚いた。だが、話は盛り上がって、三十分に及んだ。ジムは腕時計を見て「あ、授業に遅れてしまった。行こう!」と席を立ったが、特に慌てているようでもなかった。

三年生の授業だったので、内容はほとんどわからなかったが、話がわからなくなるとその前の会話について考えたりして時間を過ごした。

それから母と合流して昼食を取った。訪問した大学の食堂の中で、一番美味しかった。

そして面接時間になった。と言っても、A大学には正式な実績基盤の奨学金制度がないので、普通の受験面接だった。そして、私の面接官は大学職員ではなくてボランティアだった。一体どういうことだ。二十五万ドル(約二千五百万円)の学費をとっているところで、面接はボランティアなんてあり得ないと思った。でもそうだったのだ。

面接官の女性はA大学について何も知らないようだった。アメリカ式の面接は、始めに面接官がいくつかの質問をした後で志願者の方から質問するという形をとる。ところが、私の基本的な質問に対して彼女は「すみませんが、分かりません。」の一点張りだった。

そんな無茶苦茶な面接をともかく終えて、帰途についた。

ちなみに、その日のツアーグループには一人の美人の女の子がいた。母に言わせると「彼女、あなたのことが気に入ったよ。あなたが面接に行った時、彼女のお母さんが「しっかりした息子さんねぇ」って言ってくれたのよ。二人ともA大学に入れるといいわね。」なんだそうだ。まあくだらないことを、母親っていうのはよく言うもんだよね。

母はA大学に行くことを薦めたのはそれっきりであった。

アンティオク大学

アンティオク大学のことは書かなくても良い、忘れた方が良いと思っていた。だが、この後を説明するためにどうしても思い出す必要がある。そこからとても重要なことを学んだからだ。

アンティオク大学は『アイビーリーグより良い大学』を読んで気に入った大学の一つだった。その本によれば、アンティオクはアメリカのもっとも左翼に偏っている大学らしかった。専攻の代わりに分野を広く勉強する制度になっていて、授業は全て参加者の相互協力を基盤とした形で行われていた。在学中の海外留学もよく行われていた。そこで、インターネットでカタログを頼んだ。カタログというのは、志望者のための学校の説明書だ。授業のリストまで書いてあるので、学校を調べるにはとても役に立つ一冊である。

他の大学と比べて、アンティオクのウェブサイトはプロが作ったものには見えなかった。正直なところ、ウェブサイト作成が趣味の自分でももっと良いものが作れるだろうと思うくらいのありきたりなサイトだった。それはともかく、「すぐカタログを送ります」という確認メールが届いたので安心した。しかし、二ヶ月経ってもまだ届かない。そこへアンティオク現役の学生から電話があった。

「カタログをご覧になりましたか。まだアンティオクに興味をお持ちでしょうか。」
「あ、興味はありますよ。でも、カタログがまだ来てないんです。」
「そうですか?それは失礼しました。すぐに発送しますので、よろしくお願いします。」

それからさらに二ヶ月待ったが、カタログは行方不明のままだった。そこでもう一度電話がかかってきた。相手は違う学生だったが、会話の内容は全く同じだった。

それからまた三ヶ月経ってもまだカタログは届かなかった。仕様が無いので、もう一度ウェブサイトで請求した。確認メールはまたすぐ来たが、カタログは現れなかった。高校三年の一年間ずっとアンティオクを追いかけたあげくの果てがこれで、とうとう私はうんざりして諦めた。

しかし、四年生になって高校の大学入試指導官と話していて、ふとアンティオクのことを思い出した。こんなことが普通にあるのかどうか聞いてみた。もちろん私は普通じゃないと思っていたが、仕方がないとあきらめていた。でも彼は「そりゃ、信じられない話だ。でも、すぐ解決できるさ。俺が話してみよう。」と、その場でアンティオクの入学事務局に電話してくれた。最初にかけた番号は間違いで、大学の総事務局で聞いてからかけなおさねばならなかった。私はその間ずっと待っていた。ようやく入学事務局に繋がったと思ったら、「少々お待ちください」と更に20分ほど待たされたのを覚えている。

それから一週間のうちにカタログが第一種郵便で届いた。開けてみると、ユニークで面白そうな授業ばかりだったが、私を行きたいと思わせるには既に遅かった。右翼に偏っている町に育った私には左翼に偏っている大学に行くことが魅力的に思えたが、それにしても経営がこんなにだらだらしているところは御免だった。

それから二年後、ある友達からアンティオクの入学事務局は学生によって運営されているのだと聞いた。

そして、アンティオクはついに二年前に破産してしまった。それまでにも破産しかけたのだが、毎回、いつも誰かが救いに来た。だが、今回は違った。大金持ちの融資者は誰も現れなかった。

150年の歴史を誇ったアンティオク大学も、もうこの世にない。

大学への希望

大学に願書を出した頃の私は、学校にうんざりしていた。なぜそんな気持ちになったかは、その頃の自分でもはっきり分かっていた。それは、通っていた学校の中途半端な能力別クラス分けのせいだった。

私は小学生の頃、授業時間のほかに勉強をしなかった。4年生になってから宿題がでるようになったが、大したものではなかったので、先生の授業を聞きながら済ませた。

「中学校は小学校と違うのよ」と母によく言われたものだ。「小学校では成績は関係ないけれど、中学校からは大事になってくるのよ。」

中学校から優等コースと普通コースに分かれたが、私が入学した年は制度が変更されたばかりだった。以前の制度は、必要科目(英語・数学・理科・社会)の 中から自分が得意なものをいくつか選び、二年分の内容を一年で勉強するようになっていた。優秀な生徒はこうして中学から学習内容を先取りするので、高校卒業までずっと特別コースを進むという仕組みだった。

この制度なら満足できたろう。しかし、新制度は違っていた。

余談だが、なぜ旧制度のことを知っているかと言えば小学校六年生のときに調べたからだ。ほかにそんなことを調べた子はまわりにいなかっただろう。これは私の人生によくあることだ。早く調べて準備するのだが、本番で制度が変わってしまっていることに気付いて結局ガッカリさせられる。大学のカリキュラムについてでもそうだったが、その話は後にする。

私が中学校に入った時には、高等科目は英語と数学しかなくなっていた。英語では、普通の授業に参加しながら二倍のレポートを書く。数学では、一年目の成績が良ければ次の年には高校レベルの特別授業を受けることが出来る。そして うまくいけば高校入学の時点で英語と数学を飛び級して二年生の授業から始められる。同じように、選択科目にスペイン語を選べば飛び級が出来る可能性がある。

理科の高等コースは高校からになった。高校一年では生物が必修だったが、成績が良ければ二年生の地学は飛ばしてもいいことになっていた。長くなるので制度の説明はこのぐらいにしておこう。

新旧制度の最も大きな違いは、一言で一言で片付けてしまえば、優等生と他の生徒の関係だ。専用の特別授業があった時には、優等生が他の生徒と一緒になるのは体育とか、バンド(演奏部のことだが、アメリカでは部活ではなくて選択授業だ)などの選択授業だけだった。それが改革後は優等生と普通の生徒が一日中一緒ということになった。

校長の説明によると、旧制度では優等生に過剰な優越感を持たせ、逆に普通の生徒には劣等感をを植え付けてしまうという欠点があったという。また、優等生を別クラスに隔離することは、普通の生徒からよい手本をうばうことにもなり、授業の質が下がり、成績も下がる、乱暴などに走るという問題もあった。

まあ、これはまったくのたわいごとでもない。でも、この問題の解決案をみてみよう。一般生徒に劣等感を感じさせないために、と称して、年下の優等生を一般授業に入れる。当然、その優等生は年上のクラスメートより良い成績を取る。誰がそれは普通の生徒の自信向上に繋がると思うのか。博士号まで持っている校長が、こんな「解決案」しか考えつかなかったというのはおかしなことだ。

同じクラスのなかで、年下の優等生が大した勉強もせずに満点をとる一方、普通の生徒はいくら頑張っても落第するという光景はなんともいえない気持ちになる。誰にとっても不幸な制度だ。

子供の頃の私はずっと感情的だった。今でも、この学校改革について考えながら流した涙を覚えている。

中学校、高校を通して、私は特に勉強する必要がなかった。高校三年の物理や三角法、四年の微積分ではテスト前に勉強したが、それ以外はそうするほど難しいと思わなかった。私が特に頭が良かったというのではない。優等生の友達もしている様子は見られなかった。

私たちは、毎回のように、授業の間ずっと本を読んでいた。教科書ではなく、好きな本ばかりだった。無論先生達は嫌だったろうが、私達としては、先生の説明を聞かなくても宿題が出来るのだから文句をいわせる余地はないという態度だった。

私は特にSFを愛読していたが、学校でそればかりでは申し訳ない気がして、様々な分野から本を選ぶことにした。伝記に歴史、哲学にコンピューター説明書、どんなものでも読み漁った(あさった)。

読書とバンド演奏は私の学校生活でただ二つの確実な楽しみだった。

ここで正直に言ってしまおう。私は中学校時代から馬鹿な人間と一緒にいるのは大嫌いになった。よその国ではどうか知らないが、現代のアメリカは反知性的な精神に溢れている 。特にプロテスタント(新教)の宗派では本気で「学問は災難のもと」と思っている人が少なくない。

私は成績が良すぎるという理由で毎日学校でイジメられた。小学校の時に「エッグヘッド」というあだ名を付けられたが、付けた奴に言わせると「お前の頭は卵の形をしているから」だそうだ。だが一般的な英語では「egghead」は教授などのインテリ層を侮蔑する表現だ。そいつがそれさえ知っていたのかどうか疑問だ。情けない話だ。

よく苛められたが、私はあまり気にしていなかった。なにかやられる度に、二倍やり返した。 時には向こうも一時的にイジメを止めるぐらいひどい仕返しをしたこともある。

中学生になった頃から、苛めの方法はあだ名付けから詰問に変わった。「なんで俺は赤点なのに、お前は満点なんだよ」「学校でいい子ぶりやがって。」「なんで学校のことばっか気にすんだよ。」「お前のせいで授業のペースが速くなる。学校から出て行け!」どいつもこいつも、なんと想像力の乏しいセリフしか言えないんだろう。

要するに学校は私にとって世界一つまらないところだったわけで、毎日適当なことしかしなかったが、創造性をを活かすようなプロジェクトを与えられた時だけは別だった。たまにテストの代わりに、個人かグループでそれぞれの得意な能力を活かせる自由研究課題が出ることがあった。このときだけは一生懸命頑張った。例えばあるとき、友達と一緒に45分ほどの映画を6週間以内で作成した。私は映画が大好きだったので友達には演技をさせ、自分では監督、編集、脚本の三役をこなし、張りきった。他のグループはポスターを一枚作るといった程度の熱の入れようだったのに。

当然、私たちは怠け者の生徒達に嫌われた。成績の評価基準は比較的なものだから、頑張るものが誰もいなければ落第するものも出ない、という考え方だ。落第のことをいつも心配している生徒はかなりいた。気の毒と言えば気の毒だが、私としては彼らのせいで学校が更に学ぶ雰囲気から遠ざかってしまって、情けなくて仕様が無い。学校に学ぶことを奨励するどころか、学びたい生徒を馬鹿にする。教育ではなく調教だった。

そんな私に、大学は最後のチャンスにみえた。大学は義務教育ではないから志望者を選ぶ権利があったし、学費がとても高いから、学びたくないものが行く筈がないところだと思っていた。無論そんな私はまだたくさんの残酷なことを経験から学ばなければならなかった。

今考えてみると、中学、高校時代の私は、なんて嫌なやつだったのだろう。文句ばかりで、おまけに高慢だった。でもここで弁解を述べるつもりはない。「己を知る」と書いてあるが、私はそもそも「知る」ということは言葉を並べる、つまり言語で表現することに値すると考えている。そして、己について「何故」という質問を考えるにつれて気が狂っていく。「何故」は謎だらけだ。

「なぜ私はここにいるか。」から「なぜ私はなぜ私がここにいるかを考えているのか。」へと追って行くうちに、そうして追って行く過程そのものが一番興味深くなってくる。そして、知るために、こうして書く。だが経験から「今度こそ知り得た」と思う時ほど危ない時はないと分かっているので、この「己を知る」というのは実現不可能な夢ではないかということも認知している。なぜ、それでも、敢えて書き続けるのか。

決断

これまでの話は大学訪問の旅行記だったのでちょっとバラバラになったようだ。ここでもう一度最初から纏めてみよう。ところどころ繰り返すことになるが、視点を変えることによってまた新しい要素が見えると思う。

高校四年の秋学期、感謝祭(十一月の下旬)の頃に六校の大学に申し込んだ。インディアナ大学、アーラム大学、ノックス大学、カラマズー大学、ベロイト大学とオバーリン(Oberlin)大学の六校だった。

注:オバーリンのことは今まで書かなかったが、私の志望した大学の中で、一番良い評判であった。当然入るのも一番難しかった。しかし、私にはもっともつまらなそうなところにみえたので、訪問さえもしなかった。それなのになんで申し込んだかと言えば、難しい大学に入れるかどうかを確かめたかっただけのことだ。他の五校はそう大した難関でもなかったから。しかし後になってこの考え方は失敗策だったことに気付いた。

アメリカには地元の組織の後援による奨学金がたくさんある。そしてそういう奨学金の申込書には申し込んでいる大学をリストする欄がある。私の成績でハーバードに入れたかどうか分からないが、ちょっとみたところでは絶対無理というわけでもなさそうだった。そういう意味では、オバーリンなどよりもハーバードに申し込んだ方がマシだったかもしれない。それでもアイビーリーグに申し込まなかったのは、そういうところに行く人種とはうまくやっていけないと思ったからだ。アイビーに代表されるような知的優越主義者の仲間になりたくなかったのである。でも人生は皮肉なものだ。話は先に飛ぶが、当時のそう言った気持ちにも関わらず結局私もそのような人間になってしまった。

ハーバードに申し込みさえしていれば、地元奨学金の申込書に堂々とそう書くことができた筈だ。そうすれば、私の出身地ではハーバードへ行こうなどという学生は滅多にいないから、そんな素晴らしい生徒ならぜひ優遇しなければ、と思ってもらえただろう。結局としてもっと奨学金をもらえたかもしれない。申し込むだけ申し込んでおいて入学許可が出てから断ればいいのに、ハーバードでなくオバーリンに申し込んでしまった私だった。

まあこういった策略をその時にすぐ思いつかなかったのは私の性格の善さの証拠だと言えるかもしれない。しかし後からにせよ思いついたことは確かなので、この辺が私の狡猾(こうかつ)さの中途半端なところとも言えよう。

本題に戻ろう。六校に申し込んだのは、入学できるかどうかよりも学費のほうが心配だったからだ。アメリカでは二月に国の大学支援金プログラム(FAFSA)に申し込んで、自分と保護者の収入と財産に基づいた自己負担分の見積もりを出してもらう。大学には政府からこの額が通知され、それから先の交渉は大学次第ということになっている。基金の足りない大学では見積もり額より多く払えと言うところもあるし、インディアナ大学のウェルズ奨学金のように優等生に特別待遇を提供するところもある。だから、私はいろいろな良い大学に申し込んで、一番経済的負担が軽いところを選ぼうと思っていた。

結局、六校全てに合格した。十二月中旬には五校の合格通知が届いていた。アーラム大学だけは二月中旬まで待たされた。全部合格したのは有難かったが、同時に困った。これまでに書いたように、特に行きたい大学がなかったからだ。(もちろん、ウェルズ奨学金をもらえてたとしたら、話は別だったろうが。)だから、四月上旬まで待つことにした。

アメリカでは、もし秋に大学に申し込めば冬の内には合否が分かるのだが、国・州・大学からの援助金をどれくらいもらえるかが決まるのはそれより後のことだ。国の援助金の申し込みをするのが一月から二月で、その結果が分かるのは三月下旬になる。そういうことで、どの大学へ行くかの最終決断の締め切りは五月の初めということになっている。入学は八月または九月になる。

ようやく四月になった。援助金の通知は既に届いていたが、六校のうち四校の自己負担額がたったの二万円くらいしか違わない結果だったので、私は迷った。インディアナ大学は無料だったが、他の四校は一年あたり20万円くらいだった。そして全校(インディアナ大学を含む)は年50万円の学生ローンがついていた。20万円でも高校生の私にとっては大金だったのだが、大学は一生に一回の経験だし、どうせ120万円のローンを背負わなければならなかったし、さらに80万円(20万円の四年分)をかけたところで大した違いはないだろう。

父が私の大学費用のために作った投資口座にはちょうど8万ドルくらいあった。その二年前には二倍くらいあったのだが、インターネットバブルが弾けたせいで、半額になってしまっていた。

六校のうちでオバーリンは例外だった。私はオバーリンの名前付きの奨学金を提供されたが、それでもたった25万円だった。(ベロイトの名前付き奨学金の180万円や、ノックスの約150万円とは比べ物にならない額だった。)だからオバーリンに行くとしたら、毎年20万円どころか120万円も払わなければならないということだった。もちろんそんなお金はなかったし、私は 特に行きたいわけでもなかったから、オバーリンのことはすぐ忘れた。

以前に書いた訪問の結果、ベロイトも問題外だった。インディアナ大学も、面接がうまくいかなくてウェルズ奨学生にえらばれなかったので、行くのは御免だった。当時自分に物凄く誇りを持っていたから、無料でもある意味で私を拒んだ大学には学費がただでも行きたいと思えなかった。それに、インディアナ大学には知り合いが何人か行くことになっていた。だが、私は誰も知らないところへ行きたかった。友達と一緒ならましだっただろうが、それまでの人生を切り捨てて 思い切って新鮮なスタートをしたかった。

これで、ノックスとカラマズーとアーラムが残った。三校とも全て教養課程を中心とする小さい私立大学であった。

このなかで、訪問の印象が一番悪かったのはアーラムだった。医者をしている叔父はアーラム卒だったが、私の相談に「行っても行かなくてもそう変わりない」と答えた。私のかかっていた医者もアーラム出身だったので、聞いてみたら「行かない方が良いんじゃないかな。...どうも変な生徒が多いですよ。やり直しが出来るものなら、僕も違うところに行くと思いますね。」という返事だった。

おまけに、私と二年ほど付合った末に裏切った女がアーラムに行くと決めたので、母はそれ以来反対から大反対になった。

よく調べると、カラマズーはコンピューターサイエンスがとても弱いようだった。それに哲学部も標準より低いようだった。カラマズーの良い点はどうであれ、何よりもコンピューターサイエンスと哲学を勉強したかった私にとっては、これではまずい。だから、すぐカラマズーにも断りの手紙を送った。

ノックスの第一印象は非常に寂しいものだったが、訪問の後に入学事務局と現役の学生からそれぞれ二回電話があった。それがとても優しく心強い印象を与えたので考え直した。ノックスの卒業生からのEメールも届いた。非常に丁寧なメールで、私もそういうような教育を受けた方が良いかなと思った。

二週間頭を絞っても納得出来る決断に達しなかった。あげくの果てに、とんでもないバカなことをした。故意に「自分に一番似合わないところに行こう。」と決めたのだ。理由は二つあった。一つには、学生の一人一人にただ一つぴったりな大学が存在するというのは大学受験コーチの私益のためにあげられた神話にすぎない、という考えだった。キリスト教の「この世に必ずただ一人の最良の伴侶が待っている」という結婚神話のようなものだ。もう一つは、自分に合わないところへいって成功すれば、それだけ自分を強く出来るはずだという理屈だった。

でもこれは両方とも当時の建前で、言い訳でしかない。そのときの私にはどうしても自分を騙す必要があった。

でも実は、なぜ私がそれをやったのか理解するのは、私には不可能だ。

説明しづらいが、私は故意に全く非論理的なことをしたかった。人間の99%以上は、人生の大切な決断(例えば、大学とか結婚とか)にに直面するにあたって、自分の利益しか考えられない。無論、尺度は個人によって異なるが、原則として自分が良いと思う方向に事が運ぶことを望むに決まっている。利他的だとか自己中心的だとかいう以前に、自分が「良い」と感じることをするのが当たり前だ。この道からズレるのは考えられないことだ。

この「考えられない」というところが私の気に入った。なぜ考えられないのだ。人はよく「考えられない、信じられない」と無意識に言う。私もそうだ。でも、考えられない、信じられないものは本当にあるのだろうか。これが私の疑いだった。だから、本当の意味で無理をしようと思った。

人生が平凡に終わってしまうことを心配するあまり、それよりも自殺するほうがましだなどと思っていた自分は、岐路に立っていた。心理分析したら、そのときの私の心理を分析してみれば、それまでの自分にけじめをつけて新しい自分を築こうとしていたのだと言えるだろう。でも、当時の私はそんなことを全く感じていなかった。

言い換えてみよう。高校生の私は、世の中をバカにしていた。なぜそんな人間になったかを説明するためには私の生い立ちを詳しく書かねばならないが、それはまた後の機会にまわそう。ここでは大学決定の話を続けたい。ただ、私の当時の心理を理解するためには、皆さんが世間に恨みや憎しみを感じたときのことを思い出していただきたい。誰でも何らかの絶望を経験したことはある筈だ。

全く非論理的なことをしたかったなら、なぜ大学に行くのを止めてしまわなかったのか、と疑問に思われる方もいるだろうが、当時の私は単純だったのでそこまで考えていなかったのだ。

結局、私はアーラム大学に入学した。