八月の冒険

アーラム大学には、古くから入学生のための「八月の冒険」というプログラムがある。「山」と「水」の二種類の冒険があって、どちらも入学式直前の三週間に渡って行われる。山の冒険はユタ州のユインタス山脈のバックパッキング旅行で、水の冒険はカナダの川のカヤック旅行だった。

私は小さい頃からずっとバックパッキングをやりたかった。ハイキングが好きな私はキャンプに行くために、ボーイスカウトに入った。でも、キャンプというのは建前で、本当の目的はバックパッキングだった。そしてとうとう私が高校生の時、私の支部はニューメキシコ州にあるボーイスカウトの専用施設で2週間ほどバックパッキングをすることになった。即座にこれがチャンスだ、と思ったのだが、両親に話すと「絶対ダメ」と言われてしまった。しかし、友達は皆行くことになっていたし、もう一度両親に詳しく説明しようと思って、数日後にまた話を持ち出した。そうしたら、母は物凄く怒って、「そんな大金がどこから出てくると思ってるのよ」と皮肉たっぷりに言った。

だが、大金などいうほど大げさなことではなかった。砂漠でバックパッキングするするのだから、そんなにお金はかからない。それに、弟だってアイスホッケーをやっていた。思わず「大金と言えば、アイスホッケーなら良いんでしょうか」と言い返してしまった。あまりに心が痛くて、そんな口答えをすることしか出来なかったのだ。

もっと辛かったのは、両親が費用を全部出す必要はなかったのに、こんな形で否定されたことだった。自分のアルバイトで稼いだ金で、既に半分位は貯金があった。私が両親から貰いたかったのは、旅行許可書の署名だけだったのだ。しかし、そのペンをちょっと動かせば済むことさえやってもらえなかった。

だから、両親の許可がなくても行けるアーラム大学の「冒険」は喉から手が出るほど行きたかった。入学を決定してから歓迎と入学準備の説明が届いたと同時に、「山」コースを申し込んだ。

費用はちょっと高かったが、自分のアルバイトでせっせと貯金していた預金では十分だった。しかも、折よく特別奨学金をもらったので、半分しか払う必要はなかった。

出発はキャンパスからということになっていた。しかし、大学から連絡には細かい情報が書いてなかったので、どんな交通手段でユタまで行くのかさえわからなかった。それで、キャンパスに着いたとき、隣に座った学生に聞いてみた。彼女は「多分飛行機でしょ。だって、車じゃあ、ユタまでは40時間ぐらいかかるもの。」と答えた。

キャンパスで父と別れの挨拶をしたとき、父が想像していたより悲しそうにみえた。あの、ジェシーの家から遅く帰ってきた夜のように、心配に溢れる顔だった。父を元気づけるような言葉はかけたものの、私達がこれからどんどん離れていくことはよく分かっていた。実は高校時代の私と父はそんなに親しくない関係だったので、その間に逃したチャンスを後悔する気持ちもあった。

すぐオリエンテーションが始まった。プログラムのリーダーが自己紹介した。「皆さん、おはようございます。ネーサンです。」と彼は言った。アーラム大学では、教授でも肩書きに捕われずに直接名前で呼び合う習慣がある。これは、アーラム大学を成立したクエーカー教徒達の、肩書きに頼らない質素倹約な生活への信奉に基づいた習慣だ。

彼は続けた。「皆さんの中にデオドラントを持ってきた人も居ると思うが、それはここにおいて行きなさい。冒険から戻ってから必要だろうが、これから行く所ではいるものじゃない。なによりも、荷物を軽くすることが大事なんだ。」と言った。私の心は踊った。本当の冒険だなと納得した。

ただ一つ困ったのは、コンタクトレンズのことだった。一枚が寝る直前に目から落ちてしまったのだ。寝る時間直前、一枚は目から落ちてしまった。よく探したが、結局見つからなくて、不安だったがそのまま寝てしまった。

翌日の朝、目が覚めたとき、自分の頭のすぐ隣に転がっていたレンズを見つけた。もう、遅すぎるだろうと思ったが、とにかく溶液に入れた。

出発は、飛行機でなく、バンだった。十二席のバンに十二人の学生で、さすがにすし詰めになった感じだった。でも、この冒険を大変楽しみにしていた私は、たとえバンはギュウギュウ地獄でも三日間耐え抜く覚悟が出来ていた。

最初の夜はカンザス州の州立公園にキャンプした。グループの中の一人の誕生日ということで、リーダーは出発前から準備していたケーキを出してきた。誰かの誕生日が旅行中にあたるかどうか、事前にちゃんとチェックしていたのに感心した。

そのとき、自転車に乗っていたおじさんがキャンプ地に現れた。「おい、あんたら。インディアナ州から来たんじゃろう?」それぐらいは大学のバンに書いてあったから、別におかしくに思わなかった。

「ええ、そうですが。」と一人の学生が言った。

「あんたら、キリスト教徒だよね」と彼は続けた。彼がしらふで言っているのか酔っているのか私には判断できなかった。

「ええ、アーラムはクエーカーが建てた大学ですから。」とリーダーのネーサンが受け返した。

「なら、どうしてここで誕生日のお祝いなんてやってるんだね。」と彼は聞いた。

「我々はオリエンテーションプログラムとしてユタ州で三週間バックパッキングをしに行く途中です。この活動は二十年ほどやっています。」とネーサンは言った。

「だが、この娘の誕生祝いなんでやってるどころじゃなかろう。そんな暇なことをしてちゃいかん。あんたらには神様から与えた義務がある。イエス様のことを皆に教えなくちゃ。」

「誕生日ぐらいは許されるでしょう。神様は私達が幸せな想い出を作ることも期待していると思いますよ。」と一人の女性が割り込んだ。ネーサンは苦笑した。

「それは大変な間違いだよ。いい若いもんがこんな所で騒いでるなんて許されない。あんたら皆、地獄に堕ちるぞ。」と彼は大声で宣言した。

彼は確かに酔っていた。だが、彼を酔わせていたのが酒だったのか信仰だったのかは今でもわからない。

そのあと、ネーサンが少し彼と話して、何とか追い払うことに成功した。彼はようやく行きかけたが、振り向いてもう一度、「お前ら、地獄に行くぞ」と叫んだ。そのとき、彼は乗っていた自転車から落ちてしまった。こういうのを「神罰」という。とんでもないことを言ったりしたりすると、すぐに神様が反省を促すために失敗させるという迷信だ。

彼が落ちたとき、思わず笑ってしまった。無論これは笑うべきではんかったことだが、私はそれまでの場面をまるで映画のような気分で見ていたので、笑わずにはいられなかった。笑っていけないときに笑うのは私の悪い癖の一つだ。他の学生のほとんども笑い出したが、すぐネーサンに注意された。

それから夜の準備をした。準備と言っても、寝袋を広げるだけだった。ここでびっくりしたのは、テントが用意されていなかったことだ。防水シートはあったが、それはあくまでも上から被せるだけのものだったから、雨の時にはそんなに役に立たないはずだった。(実は、私達の持ってきた防水シートは漏れやすいタイプだったので、全然約に立たなかった。)

ともかく、星いっぱいの空の下で、変なおじさんのことを考えながらいつの間にかまどろんでいった。

やはりテントがないと朝が来るのが早い。午後になって起きるような生活に慣れていた私にとっては辛かったはずだったが、この旅行が出来ることが本当に嬉しかったので、五時でも平気だった。

冒険の中心はユタということになっていたが、行きすがりにワイオミングで一日岩登りをした。岩登りは初めてだったが、小さい頃からやりたかった私には大変楽しい想い出になる経験だった。ただ、嬉しさに興奮していて、「気をつけろ。無理するな」とネーサンに注意されることもあった。

ユタのことを書く前に、この旅行の一つの特徴であったコンセンサス・ランチ(合同全員一致の昼食)というものについて一言書いておきたい。まず、昼休みにどこかのスーパーでバンを止めてスーパーで休息して、リーダーが学生一人ずつに二ドルを配る。それで何を買って食べるかは自由なのだが、勿論たったの二ドルでランチが買えるわけはない。(ちなみに、たいていのアメリカのスーパーでは弁当など売っていない。)

コンセンサスというのは、皆が意見を交わしながら達する、全員が納得出来る決断ということだ。このランチの場合、好きな食べ物によってグループに別れたうえで(A大学の学生の中には、菜食主義者、またはべガンの人もかなりいる)、各グループの中でコンセンサスを求めて買い物を決めるわけだ。

最初は案外うまくいった。しかし、まだ話を先に飛ばすと、最後までそうは行かなかった。帰りの旅になると殆どの学生は自分の二ドルで自分だけが食べたいものを買うようになった。二ドルはお菓子二つしか買えない額だが、三週間ずっと全ての食べ物を皆と一緒にしていたから、文明社会に戻った途端に自然に身勝手な欲が出てくるのだった。もちろん、同じ仲間と四六時中鼻を突き合わせて三週間以上も暮らせば、コンセンサスが嫌になるのも無理はない。だが、これは帰りのことだ。このまま続けると話がめちゃくちゃになってしまいそうなので、ユタに着いた時点に戻ろう。

バンで三日間の旅の末に、ユタに辿り着いた。アメリカ中西部でユタと聞くと砂漠とモルモン教徒しか連想しない人が多いと思うのだが、ユインタス山脈の辺は森林や草原、緑たっぷりのところである。そして、岩と石。森林、山、草原、どこへ行っても、岩石が点々としていた。バックパッキングに慣れていない私のような者には、これは言うまでもなく非常に危なっかしい状況だった。

山の冒険に参加した学生は二十五人位で、それに上級生二人と教授一人、合わせて三人のリーダーがついていた。最初の十二日間は二つのグループに分けられて、私は赤髭の教授と先輩リーダーがひきいるグループの方だった。多分、野外生活の経験が比較的乏しい学生のグループだったのだろう。

この十五人のグループは、食事や野営の準備のために更に四、五人の班に分かれていた。私は後に親友になった「共謀者」TとG坊主という二人の男性、そしてマリとマリアという二人の女性と一緒の班になった。何故かは知らないが、A大学の行政当局は似たような名前の者を同じ部屋とか組に入らせる癖があった。

共謀者TとG坊主とマリアは私と同じくインディアナ出身だった。マリも隣のイリノイ州のシカゴから来ていたので、それまでの経験は異なっていても、育てられた環境にはそんなに違いはないようだった。

共謀者Tは既に二年間を既にコミュニティー・カレッジで二年間勉強してきた先輩だった。アメリカでは、高校の成績があまりよくない場合、コミュニティー・カレッジに二年間通っていい成績を取れば、それから四年制の大学に編入を申し込むことが出来る。共謀者Tはそういう編入生の一人だった。そして、名の通りいろいろな陰謀に絡んでいたが、それについては後で説明する。

G坊主は背が低く、いつも笑っている男だった。彼は宗教に熱心だったが、信心深いアメリカ人には珍しく、熱心の割に偏見は持ていなかった。哲学にも興味を持っていたので、私達はすぐ親しくなった。

マリも世が低かったが、彼女には誰にも負けない強さがあった。精神的な強さばかりではなく、肉体的にもバッチリだった。筋肉不足の私がバックパックの重さに根をあげていたある日、私の弱さを笑いながら、荷物の一部を背負ってくれた。本当に良い人だったが、マリは一年後にA大学を去ってしまった。

マリアの方は一言で言うと、几帳面な人だった。彼女は自然のまっただ中でも腕時計をはめたままだった。常に時間を気にしていて、私と全く合わない性格だった。責任らしい責任が欲しいタイプでもあったので、私達五人の班長になった。

赤髭の教授が言うには、最初の日は最初ということで、出発は早くとも歩く距離は次の日からに比べてごく短くするということだった。しかしこれは大嘘だった。その日は三週間の中で一番長い距離を歩かされた。坂道を十四マイルほどバックパッキングして、一マイル登った。夕方には疲れで死んだ気分だった。もう、明日は歩けるかどうかさえ不安でいる所へ、「ああ、ご苦労様。今日は一番大変な日になってしまったね。でも、これから後は楽になるから、心配するんじゃないよ」と教授に言われて、自分が死ぬよりも彼の方を殺してやりたい気分になってしまった。なぜこんな嘘を付くのだろう。こんなことを言えば私達学生の意欲をかき立てられると思っているのだろうか。

ある意味では、これはA大学のオリエンテーションとして完璧なものであった。A大学の管理局もよく「学生のために」真実をわざと隠し、デタラメを吐き出した。

出発から五日目のことだっただろうか。三時頃、予定されたキャンプ場に辿り着いた。大きな池のすぐ近くだった。私を除いて全員、すぐに服を脱いで泳ぎに行った。私は子供の頃から裸になることがどうしても恥ずかしかったし、誰か夜のたき火用の薪を集めなければならないので、一人で残った。一時間位枝拾いをして、キャンプ場で持ってきて、炊事の準備を済ました。

皆が池から帰ってくると、さっそく晩飯を作り始めた。私とG坊主の番だったが、冗談をふざけながら仕事をしていたので、何かに大笑いした拍子に火にかかった鍋をひっくり返して地面に落としてしまった。余分な食料はなかったから、仕方なくこぼれた分を手ですくって鍋に戻した。それで『泥んこシチュー』という名物が出来てしまった。これは私達男性軍にとってはさらに笑いの種だったが、女性軍には受けなくて、バカにされた。

いつの間にか、お互いを笑わせている私とG坊主はこの冒険が終わる前に、一緒に大ジョークを作ろうと決めた。私とG坊主はいつもこんなふうに冗談を言い合う仲になっていたが、そのうち、この冒険が終わるまでに一つ、大ジョークを共作しようということになった。それに付いて決めた条件は三つある。一つは当時の米国大統領ブッシュを主人公にすること、もう一つは言うのに最低十分かかること、最後は落ちに「Now that's what I call a mouthful of Bush.」という文を使うことだった。長さは自分たちにとってのチャレンジというだけでな、いつも時間を気にしているマリアを冷やかすためでもあった。

一説によると、三週間も自然の中で暮らしていると、たいていの人間は多かれ少なかれ文明離れをし始めるのだそうだ。せめて少なくとも、くだらないジョークが嫌いなマリアはそう思ったマリアは私達のことをそんなふうに見ていた。だが、どう野蛮に見えようとも、私達に取ってはこれが普通のあり方だったのだ。正直な者はどこへ行ってもあまり人は変わらない。一度マリアにそう言ったら、「くだらない者もそうかしらねぇ」と言い返された。でも、マリアのことは結構気に入った。というのは、私は議論を通してストレスを解消するタイプだから、議論の相手がいないとかえってきちきちになってしまうからだ。

しかし、こうして自然に長くいるうちに正直な者でも話し方や話題がどんどん変わってくる。三週間の間、グループ以外の人間には三人しか会わなかったので、始めは赤の他人同士だった私達はすぐ親友になった。前に書いたように、笑い話もたくさんあったが、日常の付き合いでは絶対に出てこないような話も結構あった。今でもよく覚えているのは、ある晴れた日に、女性達がレイプや性的虐待とかいたずらを受けた経験について話し合ったことだ。もちろんここでは彼女らの話の私的な内容には触れないでおくが、このような話題の妥当性云々はさておき、言論の自由を尊重するアメリカでも普通は口に出さないようなことなので、皆の率直な発言に驚かされた。

神秘的な経験もあった。ある日早くキャンプ場に着いたが、殆どの学生は疲れていたので全員休憩ということになった。だが、私はまだ元気だったので、班の男達と赤髭の教授と一緒に丘に登った。丘の天辺には、大昔の氷河によって形成された、それまで見たこともないほど美しい湖があった。深さは四、五メートルといったところで、底に魚がくっきりと見えるほど澄んだ水だった。

私は一人でこの湖を数十分眺めた。それから、丘の平面から遠くの森林と谷を見渡した。そのとき、風に囲まれてそこにたっていると、「これこそ神様だ」という気がした。宗教心のある人だったら当たり前のことだろうが、信仰の名残しか持っていない私には不思議な経験だった。とにかく、キリスト狂の唯一の神様と違って、私が見た一人の神様はユーフォーのようなもんだ。誰にも見えないユーフォーだが。

バックパッキングをしていると、そのうち歩くことさえ大義になってくる。元気を出すしかない。元気がなくては続けられない。同時に、五感が鋭くなってくる。普段ならまずいと思う食べ物でもお腹が空いている時には非常に美味しくなる。だが、何よりも大切なのは、バックパッキングの目的は歩くことだけで、外部からの圧力は一切ないということだ。この自由を一度でも味わうと人生観が変わる。

話がちょっと抽象的なところへ来てしまったので、冒険の方へ戻ろう。

なぜかわからないが、私は子供の時からずっと火が大好きだった。しかし、残念ながら、火を作るには安全規則というものがある。それに、ユインタスは自然保護区域だったから、火に関する注意事項が多かった。私は出来るだけ規則を守ろうとしたが、それでもある日、「おい、火が高すぎるぞ。潰せ。それ以上薪を足すんじゃない。」と赤髭の教授に注意されてしまった。しかし、私の火遊びが役に立ったこともあった。皆が疲れていて薪集めをしたくない時にはいつも私がそれを買って出て、立派な火を作った。

自然保護区域のこぼれ話をもう一つ。自然保護区域にはちり紙を持ってきてはいけないため、現場調達しかなかった。私は植物の葉っぱを使った。だが、その地域には毒性のある植物もけっこうあったので、葉っぱを探す時はいつも不安な気分だった。赤髭の教授は松かさを薦めたが、見るからに硬そうなので使う気にはなれなかった。

悲惨な事件もあった。ある日、他のグループが、私達と同年代の女性が祖父母と歩いているのに出会ったという話を聞いた。ユインタスで人と出会うのは珍しいことだが、その後なにも事件がなかったら、多分この女性のことはすぐに忘れてしまっただろう。しかし、数日後に彼女のことを聞いてから、大嵐がやって来た。その日をハッキリ覚えている。山の峠を越えるには、午後一時まで位なら大体安全だが、それを過ぎると嵐の危険が非常に高くなる。その日、のんびりと動いていた私達が山越えをしたのは二時頃だった。まだ山にいる間に、雨がピシャピシャ降ってきた。麓に到着する頃には、風が物凄く強くなって、さんざん降りの雨だった。私達は林の中に雨宿りをして、冷たい雨がやむまで十時間位待った。その雨の中で、私と共謀者TとG坊主は奮戦して皆のため火を作った。

その大嵐の日に、他のグループが出会った三人連れが遅くなってから山越えをしようとして孫娘が落雷を受けて死んでしまったということを、冒険の旅が終わった日に新聞で読んだ。この偶然と言えば偶然のような出来事をどう受止めたらいいのか、今でも分からない。私が四年A大学に通った四年間にも、私と同年代の人が三人亡くなった。この女性の場合は実際に会ったこともない他の大学の学生か職員だったので私からは離れた存在だったと思われるかもしれないが、同じ山脈でバックパッキングをしていて同じ大嵐に会った人間として、その日死ぬのは彼女でなくて自分だったのかもしれないという可能性を率直に認めないでは済まないと思っている。

五日目のことだっただろうか。「皆さん、7時15分です。出発は7時50分になっていますから、早く朝ご飯を食べて、準備しましょう。」といつも通りのマリアの宣告で始まった。

出発時間になると、「今日、何か特に話しておくことはありますか」と赤髭の教授が皆に聞いた。

「はい」と私はさっそく答えた。「せっかく自然の中に来ているのですから、もう、現在の時刻とか予定とかを気にしなくてもいいと思います。皆さんはどう思いますか。」

「時間に気をつけていなかったら、遅れてしまうわよ」とマリア。

「でも、そもそも『遅れる』っていうのがどういう意味か考えてみなくちゃ」とG坊主。

「皆の考え次第だな。私は時間を気にしようがしまいがどっちでも良い。投票でで決めなさい。」と赤髭の教授が提案した。

結局、時計の針の動きを気にしていたのはマリアだけだったようだ。

今の私はいつもパソコンに向かって時間を気にするような生活をしている。時間に縛られた自分が嫌なことには変わりない。だからこそ、大自然を旅している間に時計に拘束されるのは御免だった。マリアが甲高い声で時刻を告げるのを止めた日から、私はようやく落ち着いた気分になることができた。

十日目のことだったろうか。山に登る日が来た。バックパックを麓において、頂上へ向かった。雲が少なかったおかげで、素晴らしい眺めだった。皆で写真をたくさん撮った。ちなみに、冒険旅行が終わった後で皆の写真を集めて、スライドショーを作ったのだが、保護者達に披露した時に、頂上から突き出た岩の上であともう一歩で転落死になりかねないような端に立って下界を見下ろしている男の子の写真が出てきた。それを見た途端に母が思わず口を開いた。「あの馬鹿はどこの子かしら。たかが写真のために、あんな危ない所まで行くなんて。」実はその写真に写っていたのは私だったので、「ああ、あれは写真のためだけじゃなかったんだよ」と説明した。母は「あの子」私だと分かった瞬間、私を殴って、真っ赤になった。

それはともかく、山から下りる時は石が多くて大変だった。私は速く歩きすぎたせいで、石に足を取られて転び、捻挫をしてしまった。立ち上がってみると、右足に体重をかけられないのが分かった。

二人の友達に支えられながら、皆の所へ戻った。赤髭の教授は私を見るとすぐ見るや否や矢継ぎ早の質問を浴びせてきた。私が説明し終わると、教授は拾ってきた枝で松葉杖を作ってくれた。それから三日間、私はバックパックを背負いながら松葉杖で進んだ。思ったほど難儀ではなかった。

軽い怪我で済んだことは何よりも有難かった。もう一つのグループの方では、リーダーがひどい風邪にやられて、途中で帰ることになってしまった。旅の真ん中の日に、馬に乗ったカウボーイが食料を持ってきてくれたので、その彼と一緒に戻ったわけだ。

ちなみに、事前に大学から保護者に送られた説明には、「不意の事故等に備えて衛星電話の準備もありますので、ご安心ください」などと書いてあった。しかし、これも大嘘だった。衛星電話があったのは本当だが、文明から遠く離れたユインタスでは使い物になる筈がなかった。赤髭の教授にも聞いてみたところ、「ああ、あの電話?あれは、使える所まで行き着くのに二、三日はかかるな。もし本当に事故が起きたらヘリを呼ぶべきなんだが、電話が通じるまでに時間がかかりすぎるから、実際の話としては応急手当しかないということになるな。」と白状した。

十五、六日目には独りで反省する時間が与えられた。赤髭の教授に貰った「糧食」の小さなプラスチックの袋を持って、一人ずつ別の所へキャンプした。しかし、その袋にはたったの一握りの食料しか入っていなかった。私は自分を抑えて二時間ごとに一口食べるだけにしたが、それでも最初の一日で殆どを食べてしまった。

自己反省の一つの手段として自分宛に手紙を書くことになっていたが、書いた内容は誰にも読ませないという決まりだった。独りの時間が終わると、赤髭の教授は「約束通り内容は読まないが、集めて保管しておこう。そのうちいつか、君らが一年生の間に、送ってやるから。」と説明した。

私は七頁を越える手紙を書き上げた。二日間たいした食べ物もなく、書く以外にやることがなかったからだろう。

そして、寝た。お腹が空いて痛いくらいだった。最初は眠りにつくにも相当な苦労をしたが、二日目になるともうもうペンさえ持てない位疲れていたので、横たわってうとうとしていた。

「おい!大丈夫か!」と赤髭の教授の叫び声が聞こえた。一体何事か、と思ってすぐ立とうとしたが、体がいうことを効かなかった。

教授は「おい!食べろ!」と私にジャーキーを渡した。二週間に初めてありついた肉だった。それを口に入れた途端、全て思い出した。私はユタ州にいる。バックパッキングの旅をしている。昨日は自分への手紙を書き上げた。そして、空腹のあまりずっと寝ていたのだ。

「君を見つけた時は、まさか死んだんじゃないかと思ってしまったよ。」と赤髭の教授は私に告白した。「人を脅かすんじゃないぞ。大丈夫か?」

「ええ、お腹が空いただけです。」

「なら、今夜は楽しんでくれよ。カウボーイがまた食料を持ってきたから、ご馳走が待ってるよ。」

そのご馳走は、チーズだった。本当に美味しかった。

食べ物の話といえば、私は子供のころからずっと母に「食品の消費期限をしっかり守らなくてはいけませんよ」と厳しく言われていた。だが、この冒険で、この「消費期限」というのは嘘のようなものだと分かった。例えば、チーズを冷蔵庫に入れておかないとカビが生えるが、ナイフで切り落とせば残りを食べても害はない。病気になることもない。これは当たり前のことかもしれないが、うるさい母に育てられた私にとっては大きいな発見だった。

最後の四日間は一旦全参加者が再会してから、新たに三つのグループに分かれた。それから歩く距離によって分かれたので、普段の私なら一番きつい旅程のグループに参加する所だったが、まだ足のことが心配だったから、短い距離を歩くグループに応募した。そのグループには男性は私と共謀者Tの二人しかいなかった。他の十二人位は皆女性だった。たいていの男なら嬉しくなるような話に聞こえるかもしれないが、歩いてきた仲間だったので、異性同士というよりは兄弟姉妹という感じだった。

しかしこれは私が勝手に彼女らを姉妹扱いしたというだけのことかもしれない。私達の新しい班にはRアース子という女の子がいた。彼女は、菜食主義者で、戦争が嫌いで、常に環境問題を考えているような人だった。その彼女と共謀者Tはこの四日間で急に親しい仲になった。しかし、他の学生の前で変な真似をするようなことはなかった。これは彼らのとても良いところだった。話は飛ぶが、七年後の今でも二人は一緒だ。これだけずっと続いているので、もうすぐ結婚するのではないかと思う。

とにかく、帰りの旅は簡単だった。リーダーの指導なしに、地図を地図を頼りに公園の入り口に戻る。それでリーダー達が去った。マリアも私達のグループにいたが、一度道に迷った時にパニックして、かわいそうな位だった。彼女はいつも多忙で、些細なことに溺れてばかりいるように見えた。

他にも色々な思い出はあるが、それを書くのはまたの折りにしよう。ともかく、ようやく無事にインディアナ州に帰り着いた。G坊主と二人で作っていたブッシュ大統領のジョークは完成していた。帰った日の晩に、カナダへ行ったグループと合同の発表会のようなものがあったので、そこでこのジョークを十二分に渡って披露した。よく「あ、彼は自然から戻ったからそういうように振舞っているね」と批判されたが、それは間違いだ。普通の私であった。
「あれは、長いこと文明社会から切り離されて気違いみたいになってるんだね」というのが一般の評価だったが、それは間違いで、私は全く正気だった。

これを始めとして、私のユーモアはA大学内ではあまりうけないものだった。