大学への希望

大学に願書を出した頃の私は、学校にうんざりしていた。なぜそんな気持ちになったかは、その頃の自分でもはっきり分かっていた。それは、通っていた学校の中途半端な能力別クラス分けのせいだった。

私は小学生の頃、授業時間のほかに勉強をしなかった。4年生になってから宿題がでるようになったが、大したものではなかったので、先生の授業を聞きながら済ませた。

「中学校は小学校と違うのよ」と母によく言われたものだ。「小学校では成績は関係ないけれど、中学校からは大事になってくるのよ。」

中学校から優等コースと普通コースに分かれたが、私が入学した年は制度が変更されたばかりだった。以前の制度は、必要科目(英語・数学・理科・社会)の 中から自分が得意なものをいくつか選び、二年分の内容を一年で勉強するようになっていた。優秀な生徒はこうして中学から学習内容を先取りするので、高校卒業までずっと特別コースを進むという仕組みだった。

この制度なら満足できたろう。しかし、新制度は違っていた。

余談だが、なぜ旧制度のことを知っているかと言えば小学校六年生のときに調べたからだ。ほかにそんなことを調べた子はまわりにいなかっただろう。これは私の人生によくあることだ。早く調べて準備するのだが、本番で制度が変わってしまっていることに気付いて結局ガッカリさせられる。大学のカリキュラムについてでもそうだったが、その話は後にする。

私が中学校に入った時には、高等科目は英語と数学しかなくなっていた。英語では、普通の授業に参加しながら二倍のレポートを書く。数学では、一年目の成績が良ければ次の年には高校レベルの特別授業を受けることが出来る。そして うまくいけば高校入学の時点で英語と数学を飛び級して二年生の授業から始められる。同じように、選択科目にスペイン語を選べば飛び級が出来る可能性がある。

理科の高等コースは高校からになった。高校一年では生物が必修だったが、成績が良ければ二年生の地学は飛ばしてもいいことになっていた。長くなるので制度の説明はこのぐらいにしておこう。

新旧制度の最も大きな違いは、一言で一言で片付けてしまえば、優等生と他の生徒の関係だ。専用の特別授業があった時には、優等生が他の生徒と一緒になるのは体育とか、バンド(演奏部のことだが、アメリカでは部活ではなくて選択授業だ)などの選択授業だけだった。それが改革後は優等生と普通の生徒が一日中一緒ということになった。

校長の説明によると、旧制度では優等生に過剰な優越感を持たせ、逆に普通の生徒には劣等感をを植え付けてしまうという欠点があったという。また、優等生を別クラスに隔離することは、普通の生徒からよい手本をうばうことにもなり、授業の質が下がり、成績も下がる、乱暴などに走るという問題もあった。

まあ、これはまったくのたわいごとでもない。でも、この問題の解決案をみてみよう。一般生徒に劣等感を感じさせないために、と称して、年下の優等生を一般授業に入れる。当然、その優等生は年上のクラスメートより良い成績を取る。誰がそれは普通の生徒の自信向上に繋がると思うのか。博士号まで持っている校長が、こんな「解決案」しか考えつかなかったというのはおかしなことだ。

同じクラスのなかで、年下の優等生が大した勉強もせずに満点をとる一方、普通の生徒はいくら頑張っても落第するという光景はなんともいえない気持ちになる。誰にとっても不幸な制度だ。

子供の頃の私はずっと感情的だった。今でも、この学校改革について考えながら流した涙を覚えている。

中学校、高校を通して、私は特に勉強する必要がなかった。高校三年の物理や三角法、四年の微積分ではテスト前に勉強したが、それ以外はそうするほど難しいと思わなかった。私が特に頭が良かったというのではない。優等生の友達もしている様子は見られなかった。

私たちは、毎回のように、授業の間ずっと本を読んでいた。教科書ではなく、好きな本ばかりだった。無論先生達は嫌だったろうが、私達としては、先生の説明を聞かなくても宿題が出来るのだから文句をいわせる余地はないという態度だった。

私は特にSFを愛読していたが、学校でそればかりでは申し訳ない気がして、様々な分野から本を選ぶことにした。伝記に歴史、哲学にコンピューター説明書、どんなものでも読み漁った(あさった)。

読書とバンド演奏は私の学校生活でただ二つの確実な楽しみだった。

ここで正直に言ってしまおう。私は中学校時代から馬鹿な人間と一緒にいるのは大嫌いになった。よその国ではどうか知らないが、現代のアメリカは反知性的な精神に溢れている 。特にプロテスタント(新教)の宗派では本気で「学問は災難のもと」と思っている人が少なくない。

私は成績が良すぎるという理由で毎日学校でイジメられた。小学校の時に「エッグヘッド」というあだ名を付けられたが、付けた奴に言わせると「お前の頭は卵の形をしているから」だそうだ。だが一般的な英語では「egghead」は教授などのインテリ層を侮蔑する表現だ。そいつがそれさえ知っていたのかどうか疑問だ。情けない話だ。

よく苛められたが、私はあまり気にしていなかった。なにかやられる度に、二倍やり返した。 時には向こうも一時的にイジメを止めるぐらいひどい仕返しをしたこともある。

中学生になった頃から、苛めの方法はあだ名付けから詰問に変わった。「なんで俺は赤点なのに、お前は満点なんだよ」「学校でいい子ぶりやがって。」「なんで学校のことばっか気にすんだよ。」「お前のせいで授業のペースが速くなる。学校から出て行け!」どいつもこいつも、なんと想像力の乏しいセリフしか言えないんだろう。

要するに学校は私にとって世界一つまらないところだったわけで、毎日適当なことしかしなかったが、創造性をを活かすようなプロジェクトを与えられた時だけは別だった。たまにテストの代わりに、個人かグループでそれぞれの得意な能力を活かせる自由研究課題が出ることがあった。このときだけは一生懸命頑張った。例えばあるとき、友達と一緒に45分ほどの映画を6週間以内で作成した。私は映画が大好きだったので友達には演技をさせ、自分では監督、編集、脚本の三役をこなし、張りきった。他のグループはポスターを一枚作るといった程度の熱の入れようだったのに。

当然、私たちは怠け者の生徒達に嫌われた。成績の評価基準は比較的なものだから、頑張るものが誰もいなければ落第するものも出ない、という考え方だ。落第のことをいつも心配している生徒はかなりいた。気の毒と言えば気の毒だが、私としては彼らのせいで学校が更に学ぶ雰囲気から遠ざかってしまって、情けなくて仕様が無い。学校に学ぶことを奨励するどころか、学びたい生徒を馬鹿にする。教育ではなく調教だった。

そんな私に、大学は最後のチャンスにみえた。大学は義務教育ではないから志望者を選ぶ権利があったし、学費がとても高いから、学びたくないものが行く筈がないところだと思っていた。無論そんな私はまだたくさんの残酷なことを経験から学ばなければならなかった。

今考えてみると、中学、高校時代の私は、なんて嫌なやつだったのだろう。文句ばかりで、おまけに高慢だった。でもここで弁解を述べるつもりはない。「己を知る」と書いてあるが、私はそもそも「知る」ということは言葉を並べる、つまり言語で表現することに値すると考えている。そして、己について「何故」という質問を考えるにつれて気が狂っていく。「何故」は謎だらけだ。

「なぜ私はここにいるか。」から「なぜ私はなぜ私がここにいるかを考えているのか。」へと追って行くうちに、そうして追って行く過程そのものが一番興味深くなってくる。そして、知るために、こうして書く。だが経験から「今度こそ知り得た」と思う時ほど危ない時はないと分かっているので、この「己を知る」というのは実現不可能な夢ではないかということも認知している。なぜ、それでも、敢えて書き続けるのか。