編集者の頃

せっかく大学に来たからには、高校時代と違った趣味を始めようと思った。高校ではずっと生徒新聞をやってみたいと思っていたのだが、指導担当の先生はセクハラをすることにしか興味の無いようなスポーツ狂で、記者連も気に食わない奴らばかりだったので、参加しなかった。(因みに、この教師は私が卒業してから数年後に、ある生徒と関係を持ったことが明るみに出て辞めさせられたそうだ。)

A大学の新聞は全て学生によって制作されているということだった。本当にそんなに自由なら悪戯し放題ではないか、と最初は思ったが、真面目にやることに決めた。記者になるつもりで説明会に行ったのだが、編集者を探しているという話だった。当時の私は権力に憧れていたから、何も考えずに早速申し込んだ。今になって考えると、私が大学で最初の一学期に学んだ主な教訓は「よく考えてから申し込むべし」ということだった。。そんなことは常識だと言われるかもしれないが、私は直接経験を通して常識を身に漬けなければならない性格なのである。

面接には五人の応募者のうち二人しか現れなかったので、そのまま私とKが採用されたKは中西部の出身だがバレーガールのような口調で、ロリコン目当てみたいな格好をした女性だった。編集者には相応しくないタイプだと思う方も少なくないだろうし、正にその通りだった。

ニュース面のになったというものの、それまで新聞を読んだことのない私は出版の知識が全く無かった。肩書きから察するに、相当自由に出来るものだろうと思ったのだが、これは大変な誤解だった。

編集長が私とKに告げた。「残念ながら、去年の記者は殆ど全員辞めてしまったんだ。だから募集しなくちゃならん。君らに期待してるよ。友達とか集めて、記者にしてくれ。」

ピカピカの一年生を相手に「友達とかを記者に」とはよくも言ったものだ。これなら、編集を任せるというのも頷ける。

副編集長は私達に前年の記者のリストを渡してこう言った。「あまり有能な連中じゃないけど、何とかなるかもね。」既に編集長の言葉にうんざりしていた私だが、彼女の嘲るような調子が可愛くて、つい「はい」と答えてしまった。

私はたまに信じられないぐらい女性の前で弱くなることがある。こういう「嘲る可愛さ」はあまり自分のタイプではないと思っているのだが、同時に、女性はどちらかと言えば世を馬鹿にしている位の方が望ましいと感じている。それは、妙な言い方になるが、「幸せ」な人間と一緒に暮らしても意味はないと考えるからだ。別に鬱病が好きという訳でもないのだが、個人的にはディズニー式のハッピーエンドより怖いものは無いので。

状態は早急に悪化し続けた。その昼、Kからメールが届いた。「あたし、忙しいの。記者集め、一人でやってくれる?よろしくね。」共編集者なので、私に指示をしたがる。Kが彼女の「忙しい」は、いつ付いたか知らないが男を断れない癖のせいでしかなかった。

私は七人の元記者達に電話してみた。最初は七人だからラッキーナンバーかも知れないと思ったが、そういう訳でもないようだった。四人は何度かけても繋がらなかった。もう一人はネットで調べて、転校してしまっていると分かった。もう一人の男性は私が「新聞」という言葉を口にした途端に、「興味ない。二度と電話するな。」と遮った。最後の女性は、始めの電話で「いいわよ」と言ってはくれたものの、それ以降消息を絶ってしまった。

実は、この記者探しは私の編集者としての仕事の中で一番簡単なことだった。

毎週月曜日に編集会議があった。最終稿の提出締め切りが水曜の夜だったので、草稿は月曜日までに書くことになっていたが、私の経験ではその時点で二割くらいしか出来上がっていないのが普通だった。

美術面やスポーツ面の編集者は自分の判断でトップ記事や見出しを決める権限があったようなので、私もそう出来るのかと思ったが、これはどうやら誤解だったようだ。何と言ってもニュース面は新聞の顔だから私のような素人の手に任せる訳には行かないとかいうようなことを言われたのだが、それなら何故私を編集者に採用したのか全く理解出来なかった。

記者があまり見つからなかったので、私は自分で記事を書き始めた。新聞は学生達の自己管理のクラスだったから、一単位しかもらえない。必要条件としては記者なら一学期に最低八本の記事を書くことになっていた。編集者については、当然の義務である編集の仕事に加えて記事を四本書けばいいということだった。しかし、私はその学期に十四本の記事を書き上げねばならなかった。

記事のテーマを選べなかったことが状況を更に苦しくした。今の私だったら即座に辞めるところだが、当時は大学の登録取り消し手続きが分からなかったし、まだまだ馬鹿な希望も抱いていた。

十月のある月曜日、私は風邪で編集会議に出なかった。Kに代わりに行ってもらうよう頼んでおいた。火曜日には記者達に電話をしたが、誰も返事が無かった。そして夜になって副編集長から電話がかかってきて、Kが会議に現れなかったことが判明した。その上、今週の一面記事を書く筈の学生が風邪で倒れているということで、「ギリギリだけど、明日の講演をカバーしてくれる?」と頼まれた。それを承諾してしまったのは、馬鹿の骨頂としか言いようがない。

風邪は悪化して熱も出て来たが、水曜日には講演に行き、くらくらする頭を抱えながらやっとのことで記事を書き上げた。オフィスに行ったら、皆がバタバタしていた。ニュース面の記事が四本足りない。一体どうなってるんだ。副編集長が説明してくれた。「Kが急に辞めちゃったから、足りないのよ。あなた、何か書いてくれる?」

結局私はその晩に記事を三本書いてからぶっ倒れてしまった。普段は物凄く元気な私だが、その時は倒れる以外どうしようもなかった。その後二日間熱が続いた。

まだある。十月の中旬の話だ。A大学のある寮の男子トイレで、毎日のように床に大便を残していく学生がいて問題になっていた。そして、ある日、これが一日に四回も起こった。犯人はおそらく精神障害者だったのだろう。学生課の担当者の女性はこの問題にどう対応するべきか考えつかず、妙な計略を実践した。学生新聞に「某寮の全てのトイレにはカメラが設置された」という見出しをでっち上げて、編集長に記事を書かせたのだ。本当にカメラなど付けた訳ではないから、全くのデタラメである。

いかにもアメリカの新聞業界らしい取引だったが、私は勿論この裏工作について何も知らされていなかったから、金曜日に新聞を見た時にはショックだった。私がトップのつもりで書いた記事は二ページ目に移動されて、一面にはこの「トイレにカメラ」という途轍も無い話が載っていた。始めはまさかデタラメとは思わず、編集長のことはよく知っていたにも関わらず、こんな情報を掘り出すとはすごいものだなどと思ってしまった。今思えば当時の私はあまりにもナイーブだった。

次の編集会で真実が明らかになって、副編集長は慌てふためいた。「大変よ。私達、こんな証拠も無い記事を、しかもトップで出しちゃって。学長が物凄く怒ってるんだから。皆、どうしたらいいの。」

私にしてみれば「いや、俺は勘弁してくれよ。『私達』って言うけど、所詮君とあのいい加減な編集長だけの責任問題だよ。君らが辞任すりゃ済むことだろうが。」などと言っても良い所だったが、結局黙って見ていることにした。そして、そのまま中途半端な編集者として学期末まで続けた。

ニュース面の編集者でも自分が話題にしたい記事が書けなかったので、丁度同じコンピュータープログラミングのクラスに居た美術面の編集者に話を持ちかけた。「僕はジャック・ハンディーのような『Deep Thoughts』(深い考え)を書きたいと思ってるんだけど、なんとかそっちに入れてもらえないかな。」

「ああ、いいとも。歓迎するよ。」彼はこう言って笑った。ニュース面がどんなに酷いかよく分かっていたから。

そういうことで、私は美術面に『愚鈍な一言』についての記事を連載するようになった。例としては「食堂の暖炉の上に『彼らは薪を集めて火をおこし、そのまま燃やしておいた』と書いてあるのだが、あの暖炉に火があるのを見たことはない。これは何たる不思議であろう。」などというのが典型的な内容だった。この漫画のようなものは大ヒットで、周りの人によく褒められたりした。これで編集者の仕事が無かったなら、もっと良かったのに。

一学期が終わって、クリスマスの頃に成績通知表が届いた。評価は全部Aになるかと期待していたのだが、封筒を開けてみると「新聞」だけがBになっていて、カチンときた。あのインチキ編集長が、顔を出したことも無い「教授」に告げ口したに違いないと思った。こんな理不尽な仕打ちに黙っている訳には行かない。早速その「教授」に交渉しに行く決心をした。

二学期早々に彼女をオフィスに尋ねたら、掃除をしている最中だった。教授を辞めて出て行くところだと言う。構わず、本題に突っ込んだ。

「前学期の成績ですが、何故私の評価がBになったのか、具体的に説明していただけないでしょうか。」

「え、それは、Bだな、と思ったからよ。」

「そうですか。しかし、なぜBと思われたのですか。」

「貴方の編集した記事から見て、Bぐらいで良いとおもったからよ。」彼女は少女が悪戯した後両親に告白するように、クスクス笑った。

「馬鹿もいい加減にしろ」と言いたかったが、無言で彼女の次の言葉を待った。

「何か文句あるの?」これは教授が口にすべき台詞ではない。厳密に言えば彼女は博士論文を書いたこともないし、教授と呼ぶには及ばない人物だった。単に地元の田舎新聞社で働いたことがあるというだけである。

「はい、文句は幾つかあります。」と私は始めた。そして、私が編集者としてどんなにこき使われ、他の学生の尻拭いまで引き受けて死ぬ程働いたかを説明したが、彼女はイライラした顔で聞き流していた。私が話し終えると、漠然と「まあ、考えときましょう」と片付けようとした。

私はもう完全に嫌気がさしていた。「いや、いいです。次に学長に話しに行くつもりですから。新聞には色々問題があるようですし、特に、例のトイレの記事については、学長も私の言い分に興味を持たれると思うんです。じゃ、お話、有難うございました。失礼します。さようなら。」

「待って待って!」と彼女。全く子供のようだった。「良いわよ、わかった。Aにしておくわ。」

朱に交われば赤くなる、と言うが、私はまだまだ迷宮に入ったばかりの未熟者だった。