インディアナ大学

高校四年の秋、インディアナ大学の一番名誉のある奨学金を申し込んだ。インディアナ大学は両親の母校のみならず父の十一人の兄弟のうち九人の母校だったので、当然私に対しても「インディアナ大学へ行け!」という圧力が強かった。

アメリカの中西部の大学の中では、インディアナ大学の評判は高い方だ。それに、教養課程(liberal arts)の大学なので、私の性格と合っていたとも言えるだろう。特に、認知科学(cognitive science)という学際的な出来たばかりの総合的分野に興味が引かれた。認知科学は哲学・心理学・生物学・コンピューターサイエンスなどから構想された分野で、今でも思い出すだけでワクワクするほど魅力的なものだと思う。しかし、親の足跡を追いたくはなかった。親には失礼だが、親の人生は真似をするほど何ものでもなかった。

アメリカでは、経済格差を補遺するための「必要基盤」(need-based)の奨学金と、努力や才力への報償としての「実績基盤」(merit-based)の奨学金と二種類がある。最近の傾向は必要基盤の方へだが、折よく当時のインディアナ大学のほとんどはまだ実績基盤だった。

その実績基盤の奨学金の中で一番名誉があるのは、旧学長にちなんで名付けられたウェルズ奨学金である。四年間の学費・食費・部屋代・本代を含め、三年目には世界中どこでも好きなところへ行く機会もあたえるという、最高の奨学金である。一人のウェルズ奨学生に聞いたところ、彼は三年生の時、ネパール四ヶ月、バックパッキングでヨーロッパ一ヶ月、オーストラリア四ヶ月と、全て学校の費用持ちで旅行したということだった。本当の話。こんなチャンスは世界中探しても滅多に無いだろう。だからすぐ申し込んだ。

選別過程は三段階で、三段階目は面接だ。五十人面接を受ける中から二十五人が奨学生として選ばれる。運良く、私は面接まで残った。

面接のため、父と一緒にインディアナ大学へ向かった。案の定、凶兆があった。父と珍しく、早めに出ることが出来た。高層道路へ出たところで、父は信号で車を止めた。私達の前にもう一台の車が既に止っていた。信号が赤だったから、待つのは当たり前のことなのだが、父は信号が変わらないうちにエンジンをかけて前へ進もうとした。赤なのに。前に車があったのに。そして、目の前の車に衝突してしまった。情けないことだった。

幸いなことに、誰も怪我はなかった。でも、前の車のドライバーが頭に来たのは勿論だ。父はすぐに裏技で、「急いでいるので警察を呼ばないで欲しい。代わりにこれを受け取ってくれ。」と二万円ぐらいを差し出した。私はいつもこういう手段は不倫的だと思っているが、アメリカではよくある話だ。なぜなら、交通事故を報告してしまうと、加害者の保険料金も被害者のも上がるからだ。ちなみに、二万円では大した額ではないと聞こえるかもしれないが、被害者の車を売っても四万円くらいにしかならないようなポンコツ車だったから、妥当だったのだ。当時私が運転していた車も同じようなものだったから、わかるはずだ。

困ったことに、相手のドライバーは父に「これはハッキリアンタの不注意による事故だから、アンタの保険会社に新しい車を買って欲しい。警察を呼ばなくてはならない。」と怒りたっぷりで言った。インディアナ州では交通事故など日常茶飯事なので、警察はのんびりとやってきた。一時間ほど待たされた。やっと警察が到着したと思ったら、更に面倒なことになった。あの野郎は車保険を持っていなかったのである。これはもちろん違法である。そして、警察は彼を逮捕しなければならなくなった。でも、誰かを逮捕するとなると、さらに時間がかかる。

やっとの思いでインディアナ大学に着いた時、すでに指定された時間より三十分ほど遅れていた。父の下手くそ運転仕方のせいで、全然集中ができなくなってしまった。父を殺してやりたい位だった。

そのまま父と分かれて、他の生徒達と一緒に美術館を見学した。

その後、夕食の支度を待つ間、おやつを食べながら他の生徒と話す時間があった。皆優秀な人ばかりだった。つまらない世間話から話題はとうとう小説に移った。そのとき、テーブルで一番可愛い女の子が突然私の一番好きな本が大好きだと発言した。それまで私の知り合いの中でその本を読んだどころか、聞いたことさえある人は一人もいなかった。だから、彼女が私の大好きな本も大好物だと言ってくれた時は嬉しくてたまらなかった。(ちなみに、その本はNeil Gaiman著の『American Gods』という本だ。あいにく、日本語訳はまだない。)大学生活がずっとこんな調子でいくものなら、どんなに幸せだろう、と思った。

それから夕食に向かった。最初は支度に二時間もかかるというのはどういうことかと思ったが、そのホールを見ると瞭然だった。レストランだったら軽く二万円はするような食事だった。確かフォークが五本並べられていた。今までで豪華だなと思ったディナーはたった二本のフォークが限界だったのに。無論美味しかった。だが実を言うと、私の舌の感覚力を遥かに越えた料理だった。私は二十ドル(二千円)以上のディナーを食べると、美味しいことは美味しいとわかるけれども、自分の舌を超えるから、ご馳走になっても、鑑賞はあまりできない。そんなわけで、豪華な食事に慣れていない私は失礼をしないか大心配で、頑張った。頑張ったというか、自分の自然な真似を収めようとした。今でも成功したかどうかさえわからない。

最後に一人の奨学生が現れ、バイオリンで二曲を奏した。

情けないことだ。地元の州が税金で私如きな者を饗応するなんて許されるべきではない。何のためにここまでしたのか。この面接の日の予算はおそらく大学の一年間と同じ価格になっただろう。「このご馳走なんかしないで、奨学金の数を増え!」と思った。この接待は良過ぎた。私はただよく勉強して、良い成績を取っただけだ。奉仕活動もしたが、それほどしたわけではない。とはいえ、そもそも奉仕活動は報われる目的ですることではない。

これを契機としてハッキリ解ったのは、公立でも大手の大学では教授の待遇が非常に良いということだ。そう思うと違和感を覚えた。

夕食後学部の展覧会があって、教授連と話す機会があった。残念なことに、哲学やコンピューターサイエンスの代表者はいらっしゃらなかった。

それから奨学金プログラムを運営している方とコーヒーとコーラを飲みながら話すことができた。彼はお爺さんっぽく自分の生い立ちを話したが、結構面白かった。彼はいわゆる「高校sweetheart」と結婚した人だった。自分の高校sweetheartを失ってしまった私にとって、妙な論理で彼の担当しているプログラムに参加することが出来るとしたら、その別れた際の痛みを治すことと繋がる、と思った。

それから生徒達はホテルの廊下に集めって雑談をした。競争相手同士で奨学金のことは話せないので、何を話したかというと、『Jackass』という映画のことだった。『Jackass』(バカ野郎)という映画はその二ヶ月前にリリースされて、モラルの悪化しつつある傾向として話題になっていた。なぜなら、その映画の全くバカな場面を真似するやつが数十人出てきて、そのほとんどが怪我で入院になったという始末だったからだ。例えば、坂の頂上からショッピングカートで下までサーフィンするとか、そういう類いのことだ。とんでもないバカな映画であった。私は見ていなかったが、テレビ版を五分ぐらい見て、それで十分に思えた。

ちなみに、この奨学金のファイナル五十人として競争している生徒達はハーバード志願生並みの粒ぞろいだった。大したもんと思ったのもつかの間、『Jackass』の話になってしまった。今まで高校にうんざりしていた私は、大学でなら、頭の切れる人々と話すことが出来、もう今までのように馬鹿者達と下らない会話なんかしなくても良いとおもっていたのだが、その夜に、頭の切れる人間ばかりの集まりでも『Jackass』のようなものが話題になる可能性があることを痛く思い知らされたのである。

情けないことだ。

皆の話は続いていたが、自分は部屋に戻り、寝ることにした。大学の費用で、一部屋に生徒二人ということになっていた。私のルームメートは遠くのノースカロライナ州からわざわざインディアナまで来たという男だった。でも、気取ったやつだったからこれ以上話す気はない。

翌朝は教授達用のビュッフェでとても豪華な朝食だった。大学教授は毎日このような食事が食べられると知らなかった私は、それだけのために教授になろうかと考えてみたりした。

面接はその後だった。この不吉が連続の週末に相応しく、自分の面接官の肩書きをみた途端に嫌な予感を覚えた。彼女は論理学の教授だったのだ。私の願書の専攻希望欄には「哲学・コンピューターサイエンス」と記入したから、大学の方はその教授が最適だと思ったのかもしれないが、私には合わなかった。私の哲学への興味は倫理関係で、論理からはかなり離れている。そのときまだあまり学問に詳しくない私でもそれ位は知っていた。(後で、アメリカの哲学は二つに分かれていることがわかった。一つはcontinental schoolと呼ばれる欧米の考え方の歴史を勉強する学問であり、私の好むタイプの哲学でもある。もう一つはanalytical schoolと呼ばれる論理関係の数学的な哲学である。)

その面接のことはうまく行かなかったという以外ほとんど忘れてしまったが、ひとつだけ質問を覚えている。それは、
「哲学の中で、あなたのもっとも興味深いと思っている点は何ですか。」
「人間は自由意志を持っているか否か、です。」
「持っていると思いますか。」
「持っていると思います。」
ここで、教授の口調が変わった。「もし、あなたが人間が自由ではない証拠を発見したとしたら、どうしますか。」
困った。「私はそれを仮に認めながら、他の方法で自由の意思の根を樹立する可能性を探します。」

これは無論間違いだった。だが、間違いだと知りながら、そう答えた。教授の顔を見れば、彼女が自由意志など童話のようなものだと思っていることはハッキリわかった。しかし、私はなんと答えばいいか他になんとわからなかった。まだ高校生だったので、大学で流行っているくどくどしい言い回しはまだ把握していなかった。それに、たとえできたとしてもそういうような言い回しはしたくない。嫌いだから。奨学金をもらえないことになっても、することとしないことは存在するはずだ。

そう思えながらビートルズの『白いアルバム』を聞きながらうちに帰った。二週間後に通知が届いて、結局私は選ばれなかったとわかった。私が受け取った数十通の不合格通知の中で、それは一番きちんとした、丁寧な手紙であった。でも、一番私をガッカリさせて手紙でもあった。不合格だったから自分で学費を一部払うためお金を稼がなければならないし、海外旅行の特別料金は無料から大金になってしまったからだ。

手紙の最後に合格者の名前が並べてあった。これは「知りたければ、皆さんは合格者を知る権利がある」という、説明会での面接についての約束の通りだった。その晩で一緒になったルームメイトは合格だった。地元の出身ではないのに地元の税金でインディアナ州の州立大学へ通うことになっている。でも、すぐ考え直した。これはあくまでもメリットを元にしているの奨学金だから、不合格というのは、私の能力不足、または実力不足だけだ。他の人を責めても仕方がない。

同じ『American Gods』が大好きだった女の子はあの奨学金をもらって、結局インディアナ大学に行ってしまった。デートする相手にはなれなかった。辛い,辛い。通知が届いたから二ヵ月後、州の学業大会で偶然彼女を目にかけたことがある。すごく話したかったが、適切なセリフを思いつかなかった「おめでとう」は単純過ぎるし、私が不合格だったことはまだ恥に思えた。

無論両親は非常にガッカリした。私にガッカリした。でも仕方がないと思った。自分は出来るだけ頑張った。サボったわけではない。ただ今回は、自分の番ではなかっただけだった