句先生・「日本文学入門」

当時のA大学の規定では、一年生の必修に文系クラスが二つということになっていた。「読み書きの基本」をテーマにした内容で、私が入学する前の年までは、一年生全員が同じ四冊の本を読み、各クラスの教授がそれぞれ一冊選んで授業に使う、という制度だったのだが、これは「帝国主義的な教育法」だという批判のもとに廃止されてていた。初めてこの「帝国主義」の批判を聞いた時には別に変に思わなかった。しかし時が経つにつれ、何でも「帝国主義のお化け(名残)」のせいにするという習慣が嫌になった。

新制度では、各教授の興味にそって出されたテーマの中から一番受講したいクラスを四つ選び、バランスを考えた上で振り分けられることになっていた。事務局のうたい文句では自由に選択出来ることになっていたのだが、私は既に専攻と趣味の関係でコンピュータープログラミング、日本語、哲学、の三クラスを取ることに決めていたので、必修の文系クラスが十ある中で空き時間に組み込めるのは日本文学とアメリカ原住民の歴史の二つしかなかった。あり難いことに、日本文学は私がその十クラスのなかで一番面白そうだと思っていたものだった。更に運良く、入ることが出来た。

最初の授業で教室に入った途端後悔し始めた。他の学生の会話を聞いていると、オタクばかりのようだった。これは、アニメを一本も見たことのなかった私にとっては大変不安なことだった。アニメに詳しくなくても文学を勉強するには関係ないというのはハッキリ分かっていたつもりだが、周りの学生達はそんなことを考えているようではなかった。

確か句先生はその最初の授業に遅刻した。A大学では、教授でも遅刻する人が多かった。謝りながら、句先生は自己紹介をしてくれた。研究範囲は文学・フェミニズム・アニメだった。「ちょっと待って、アニメは専門のが本当か?」と思った。本当だった。それで更に不安になった。

句先生は日本人で、アメリカに滞在して数年になっていたが、まだ日本訛が強くて、woman の始めの w が聞こえない程度だった。 (余談だが、どうせwが消えるなら、Wとあだ名される二代目ブッシュ大統領が消えてくれる方が良かった。)そして、セミナー式の授業だったのに、あまりディスカッションの扱いがうまくなかった。とんでもなくバカなことを言う学生も叱らない。そのうち、課題に出される文献を読んでこない学生の数もどんどん増えてきた。

言うまでもなく、句先生の第一印象は非常に悪かった。私はそれでもともかく課題は全部やったが、最初のレポート論文はあまり真面目に書かなかった。彼女はそれほど英語が出来ないから、努力しても多分無駄だろう、とも思った。

しかし、馬鹿なのは怠けている私の方だったということが明白な結果になった。そのレポートの評価はB-だった。 評価としてはそれほど悪くはなかったのだが、返却された紙面は赤ペンで覆われ、出血過多で死にかけている患者のようだった。その日から、私は宿題を全部真面目にやるようになった。

アメリカの大学では教授が特定の時間に自分の部屋で生徒の質問や相談を受けるためのオフィスアワーズというものがある。教授によって予約式のこともあるが、句先生は立ち寄り式だった。

一学期のうちに、私は先生の部屋の常連となった。授業の間になかなか出来ない深い話が、オフィスアワーズで双方から出てくるようになった。そのうちに、先生に対する第一印象は完全に外れていたということが分かってきた。

授業そのものは決して上手いと言えなかったが、それほど悪いという程でもなかった。それは、句先生の授業のおかげで、大学でも映画を作ることができたからだ。